<ep-2>
その日、俺は相変わらず試験勉強に明け暮れていて。
燈はぼんやりと見るでもなくテレビを眺めている……そんな、ここ何週間と変わり映えのない夜のことだった。
不意に携帯ではなく固定電話がけたたましく鳴き出した。
「はい、佐伯です」
三コール目で俺が受話器を取ると、鼓膜を打ったのは聞き慣れた声だった。
『零司、居たか』
低い声は父さんのもの。短いけれど早い口調に何かあったのだと瞬時に悟るが、問いは急がない。
「俺が家に居るか確認したきゃ携帯に掛けてくれば良いだろ」
『お前、勉強中は携帯鳴らしても気付かないだろうが』
鋭く突かれたそれは確かに、そう。
俺は集中したい時携帯はマナーモードにしているし、酷い時はベッドの枕の下に突っ込む癖がある。
それより、と俺の気不味さを切り裂く父さん。
『すまんがお前の手が欲しい。近場でひと騒動あってな、恐らく人手が足りん』
「そんなら他に回せば……」
『回せねぇ連中ばっかりだから、こっちも枠から外れて対応しようとしてんだ』
多くを語らないその裏にはきっと繁華街の闇が潜んでいるのだろう。
何せ、父さんこそが非常勤の『闇医者』なのだから。
「……判った、今からすぐ出る。燈はどうする」
『眠そうなら置いてこい。覚醒してるんなら猫の手でも借りたい』
チラ、と斜めに流した視線の先。燈はどこか緊張した面持ちで俺をジッと見詰めている。
「二人で行く。タクシーで良いよな? すぐ捕まれば三十分くらいで着くと思う」
俺の見立てに父さんは「悪いな」と一言返してくるなり電話を切った。
すぐに俺も受話器を置いて燈を呼ぶ。
「父さんからの要請だ。お前も一緒に来い」
理由はタクシーの中で説明するから取り敢えず出られる支度をしろと燈の着替えを促し自分も勉強道具をそのままに自室へ飛び込んだ。
お互いズボンを外用に履き替え、防寒着を羽織った姿で迎車を頼んだタクシーに乗り込む。
「……それで、零司さん……ヨウセイ、って? なんなんですか?」
乗り込んだタクシーの後部座席。一部単語の発音がぎこちない隣からの声色に俺は、あぁコイツには難しい言葉だったかと肩を竦める。
「父さんが、猫の手も借りたいくらい仕事がヤバいから俺とお前も来てくれ、ってさ」
噛み砕いて説明すれば、えっ、と燈が吐息を弾かせた。
「で、でも、佐伯さんって……お医者さん……では? 零司さんは判りますけど……僕なんか、何の役にも……」
「何かしらの役には立つから、父さんは燈もって云ったんだろ」
それに医者は医者でも父さんの今のやり方は型破りだからな……と奥歯で噛み締める。
ある意味では良い意味だが、ある意味では悪い意味での型破り。
正規の保険医療では救えない命を取りこぼさないようにと裏側で非保険医療を盾にする黒に近いグレーゾーンで医療に係わる『闇』医者。それが今の父さんの肩書きだ。
それをそうと知りながら見て見ぬ振りしている俺も同罪になるのかも知れないが、人間というのは光を浴び続けながら生きていられるばかりではないことを俺は理解してしまっているから、闇に染っている人間を忌避し批判するだけの立場にはどうしてもなれない。
父さんの現場に引っ張り出されるのは正直初めてのことじゃない。
俺が医大に入ってから今日が三回目の呼び出し。
それこそ過去二回もどこかのシマ争いだか何だかがあったとかで、父さんが出入りしている繁華街近くの夜間救急は本当に人手が足りない状態だったし、俺は器材運びや処置未満のことをして回っていた。
そのことを思い出していたら、ふわっと鼻腔の奥にツンとする消毒液と錆びた鉄の匂いが微かに蘇った。
病院に着く少し前に携帯から父さんへ連絡を取り、まずどこへ向かえば良いかの指示を仰いだ。
指定されたのは、旧病棟のロビー。
大病院とまではいかないが、入院施設も兼ねているその病院は古くからある地元に根付いた(つまり因習のような繋がりが密やかに残り続けている)医療機関。
旧病棟を改築する予定で先に今現場を回している新病棟を新設したのだ。
新病棟の救急搬送口を通り抜けた時ブワッと緊張感の糸が絡み付いてきたから新旧救急外来は父さんが云う通りてんやわんやなのだろう。
一言も発さず俺の後を着いて来る燈と一緒に旧病棟の救急外来に辿り着いた時、そこは一気に清浄と不浄が混ざり合う白と赤で五感を染め上げた。
消毒液と血の匂い。芯に響く呻き声や高低様々な悲鳴。皮膚に触れる空気は粘着いていた。
「燈、大丈夫か?」
すぐさま斜め後ろに視線を落としたら、燈はジャケットの胸元を握り締めながらも確かな意志で焦点を結んでいた。
「だいじょうぶ、です……」
ただ、自分が役に立てる自信は一切なくなりましたが……と。苦笑いすら零せているなら本当に大丈夫なのだろう。
「こういう時はただの器材運びだけでも死ぬ程役に立つから自信持て」
それは経験則と理想のどちらもを含んだ言葉だった。
短く息を吸って目を細める。
目の前には十何人と怪我人が居るが、まだ全員の搬送は終わっていないらしいことは粘着く中にもピリッと張り詰める何かが空気中に網目を張っていたからだ。
視線だけで父さんの姿を探し、一分もしない内に見付けた顔に手を上げる。まだ無闇には踏み入らない。
足早に近付いてきた父さんが俺の肩に手を置いた。
「案の定、だ。これからすぐに最後の怪我人共が数名搬送されてくる。零司はソイツらが到着したらトリアージに回ってくれ。それまでは入口近くの奴らの軽処置を頼む」
それで、と父さんの視線が俺から燈へ移る。
「燈、お前には零司に必要な物品を運ぶ係を任せる」
「は、はい……っ」
「頼んだぞ、助手の助手」
父さんの代わりに俺が燈の背中を軽く叩いたら、燈は息を呑んで大きく頷いた。
トリアージ――つまり、治療の優先順位の見極めを任された俺。もう一陣、二陣と負傷者は運ばれていた様子だったから、残る重傷者も少ないという判断からだろう。
確かにそれなら手腕の利く医者は治療に充てた方が効率が良い。
三、四人の軽傷者の手当を、燈に運ばせた応急処置セットで済ませた頃、けたたましいサイレンの音が鼓膜をつんざいた。
指示通り、患者のトリアージに回る。燈は俺が使った処置セットの補充に走って行った。
俺の見立て、全員緑か黄色。重傷者を示す赤ラベルをつける必要がある患者は居なかった……筈、なのに。
「うわぁぁあっ!」
突然、爆発するような悲鳴。最初の二、三人目で緑の最軽傷者認定をした痩身の男が発したものだった。
他害の恐れがある暴れ方はないものの、繰り返された悲鳴には自傷の恐れを感じさせる何かがあった。
「っおい、落ち着け!」
思わず理屈の声が先走って敬語を忘れた。
駆け寄り目の前に膝をついてちっ、と思わず舌を打つ。
こちらの声にまるで聞く耳を持ちやしていない。
パニックか、まさか今このタイミングでクスリではないだろう。
あぁ過呼吸になり始めてるじゃねぇか。こういう時の対処法は……――
コンマ秒速で脳内にインプットしている医学書のページを捲っていたら、バッ、と。横を小さな影が飛び込んで来たかと思えば、錯乱状態になりかけている男の手を取り、そっと握り込んだのは予想だにせず燈その人だった。
視線をどうにか絡め取り、緩く手を上下や前後に揺らしながら呼吸のペースが落ちていくよう誘導するその仕草に既視感を覚える。
「大丈夫ですよ、――さん。ここは安全なところです」
いつどのタイミングで知ったのか、燈は患者本人のものと思われる名前を確かに紡いだ。
燈が紡ぐ「大丈夫ですよ」は、これまで聞いてきたどの「大丈夫」より確証がないのに、その癖どの「大丈夫」よりも頼り甲斐がある響きだった。
相変わらず、握った手を緩く上下に動かしながら自分の呼吸も大袈裟にそのリズムに合わせる様子はまるで呼吸の手本を見せているかのよう。
まだあどけなさが残る顔は真摯に男の視線を絡め取り続けて離さない。
その真っ直ぐさが伝わったのか、男の声が止むと次第に呼吸も落ち着きはじめた。
燈の呼吸と握った手のゆらゆらした動きと、そして男の呼吸が揃うまで物凄く時間が掛かった気がしたけれど、実際は多分数分足らずだったと思う。
「零司さん!」
「……っ、なんだっ?」
勢いよく俺の方を向いた燈が、男へ向けていた表情とは別の、険しい訳ではないが柔らかい訳でもない真面目な顔で声を張った。
「零司さんの判断は間違ってないです。この人は僕がもう少し付き添っていますので、零司さんは他の方の対応をお願いします」
こんなにも芯のある声が出せるのか、と場違いにもそんなことを思うくらい。この時の燈の声には落ち着きと頼もしさがあった。
だから、咄嗟に頷いてしまった。
「あぁ、頼んだ。また何か変化があったらすぐに呼べ」
「判りました」
燈の返事を合図に俺は固まっていた体をギシリと動かして数分前まで行おうとしていた次の処置に当たる為、踵を返した。
燈に呼ばれないまま二人の外傷の処置を軽く済ませたところで父さんに名前を呼ばれた。
「零司、助かった。こっちは少し落ち着きそうだ。立て続けにすまんが今度はあっちに男手が足りん。頼めるか」
クイ、と顎をしゃくられた先は暗い廊下。
更にその奥にある部屋での出来事をすぐに予測し、判ったと頷いた俺は暗い廊下の先へと迷わず爪先を向けた。
次に俺が任されたのは、予測通り遺体の搬送補助だった。
俺が到着する前に搬送されてきていた患者だろう。新しく掛けられたのだろう白布にですら鉄臭さが色濃く外傷の程度が広く、深いことが知れた。
搬送補助だけに留まるかと思いきや、続け様に入って来た葬儀屋を名乗ったスーツ姿の壮年男性に証人として暫し付き合って欲しいと頼まれる。
何の証人だ? と訝しんだのも束の間。
引き取り手だと現れた遺族――といっても家族ではないだろう。恐らくは仲間内だろうか――に対しての状況説明と今後の段取りについてキチンと説明義務を果たしたかどうかの証人としての同席だった。
そしてそのままこの後二時間程借りられてくれないか、とも頼まれた。
それは流石に父さんに訊かないと、と佐伯の名前を出したら、壮年男性は「ちょっと失礼」と携帯で誰かと二言、三言話してから俺をジッと見てきた。
「今、佐伯医師から君の手を借りる許可は得た。悪いがこちらも若い男手不足でね、火葬場まで付き合ってもらいたい」
「……父さんがそうしろって云うなら、俺は構わないけど……」
「なら話は決まりだ。ついてきたまえ」
ひらり、スーツの裾を乱すことなく翻った壮年男性の背中を追い、黒塗りの車に同乗する。
葬儀の『そ』の字もなく着いた火葬場。
炉に入れ、納骨までを一通り手伝わされ、骨壷だけを取りに来た遺族へそれを渡すまでを見届けさせられた。
喪に服する格好とはとても云い難い、ブラックジーンズにグレーのパーカーといった出で立ちの俺を一瞥してきた遺族。
何か文句を云われるかと一瞬身構えるが、瞬きひとつ後にはキョトンとしてしまう。
「ありがとう」
まさか、その言葉をここで自分へと投げられるなんて思ってもいなかったからだ。
不意に、秋の雨の夜のこと思い出した。
大学の図書館にギリギリまで居座りレポートを作成した帰り道。
事故に遭った少年を見て即座に救急車を呼び応急処置を行った。幸い意思疎通の叶う状態ではあったものの保護者が同行しておらず、保護者が迎えに来るまでの間一緒に居ると軽い約束を交わして同乗した救急車。
同行した搬送先で暫く談話した後に急変した少年の容態。
その結果、脳血腫により麻痺が残る可能性の高さを医者から明示されてどうしてか俺の目の前が暗くなった。
迎えに来た保護者から「ありがとうございました」と丁寧に頭を下げられたが、あの時の「ありがとう」を俺は素直に受け取れなかった。
だって、親は子供が助かって良かったかも知れないけれど、少年本人は麻痺が残ったら中途半端に生かすだなんてと俺を恨むかも知れないと思ったからだ。
だけど、今の……遺族からの「ありがとう」は、不思議と素直に受け取れた。
遺族に向けて綺麗に腰を折って頭を下げる壮年男性の背中を見ながら、あぁきっとこの葬儀屋も父さんと似たり寄ったりなんだろうなとぼんやり思った。
ついでに云えば。この夜間に動いている火葬場も。
黒に近いグレーゾーンで動く人間、そして場所。
そういうグレーゾーンで立ち回る人間がいるからこそ助かる命が――或いは、助かる心があるのだろう。
あぁ、と溜息のような吐息が洩れる。
(あぁ、何だろう……何か――)
俺、『こっち』の方が向いてるのかも知れないな、と。
不覚にもそんなことを思ってしまった。
壮年男性に父さんが勤務する病院へと送ってもらった頃には旧病棟のロビーも落ち着きを見せていた。
「零司、燈。今日は助かった。当直から車を借りられたから、一旦お前らを家まで送ってやる」
白衣を脱いだ父さんの隣には、ふわふわと眠そうに瞬きを繰り返している燈の姿。
始発を待って帰るから良い、と云う気になれない程度には俺も疲れていたから素直に父さんに甘えることにする。
夜明け前の道路はまだ空いている。
赤信号でしか停車を余儀なくされない車はスムーズに家路を辿っていた。
後部座席に隣り合って座った燈は今にも寝そうな雰囲気で頭をカクンカクンさせている。
俺はぼんやりとシートの背もたれにべったり背中を預けて窓の外を眺めていた。
流れる街灯の残像を見ていたら、錯乱しかけた男の手をを握っていた燈の姿と少し前の記憶がブレながら重なった。
やってらんないよね、とわざとらしい不貞腐れ顔で切り出したのは看護学生だった元カノだった。
「――不思議なものでさ。弱ってる時って理屈の医療より、ただ手を握るだけの方が効くこともあるんだよ」
その言葉にどういう意味だ? と首を傾げたら、看護学生なら最初に習うナイチンゲールの『手当て』ってヤツのこと、と元カノは笑っていた。
「正直、やってらんないなって思っちゃうよね」
それは冗談半分、本気半分だったのだろう。
(……マジで、それだな)
元カノに未練は欠片もない。
ただあの時の彼女が云っていたことがやっと判った。ただたた、それだけ。
「……燈」
「……はぃ……」
今にも寝てしまいそうな燈に声を掛ける。
「お前……手当て、の語源。知ってるか」
知る訳がないと判りつつも語尾がほんのり疑問形になった。
当たり前のように首を傾げた燈を見るでもなく窓の外に視線を遣ったまま続ける。
「今日……お前がしてたことそのまんまだ」
僕なんか役に立たないって云おうとしてたけど、寧ろお前が居なかったら立ち行かなかったかも知れない。
そう呟いた言葉を、燈はちゃんと聞いていただろうか。
家が近くなって来た頃、雨が窓を強く叩き出したがその音を寧ろ子守唄にでもしたかのように燈はとうとう窓側に頭をくっ付けて寝息を立て始めていた。
その気配を感じ取ったのかどうか。父さんが短く俺の名前を呼んだ。
「……何?」
「どうだった」
何が、とは訊かれなかったから。
「……別に」
どうもない、と口の中で俺は嘘を溶かした。
その日、俺は相変わらず試験勉強に明け暮れていて。
燈はぼんやりと見るでもなくテレビを眺めている……そんな、ここ何週間と変わり映えのない夜のことだった。
不意に携帯ではなく固定電話がけたたましく鳴き出した。
「はい、佐伯です」
三コール目で俺が受話器を取ると、鼓膜を打ったのは聞き慣れた声だった。
『零司、居たか』
低い声は父さんのもの。短いけれど早い口調に何かあったのだと瞬時に悟るが、問いは急がない。
「俺が家に居るか確認したきゃ携帯に掛けてくれば良いだろ」
『お前、勉強中は携帯鳴らしても気付かないだろうが』
鋭く突かれたそれは確かに、そう。
俺は集中したい時携帯はマナーモードにしているし、酷い時はベッドの枕の下に突っ込む癖がある。
それより、と俺の気不味さを切り裂く父さん。
『すまんがお前の手が欲しい。近場でひと騒動あってな、恐らく人手が足りん』
「そんなら他に回せば……」
『回せねぇ連中ばっかりだから、こっちも枠から外れて対応しようとしてんだ』
多くを語らないその裏にはきっと繁華街の闇が潜んでいるのだろう。
何せ、父さんこそが非常勤の『闇医者』なのだから。
「……判った、今からすぐ出る。燈はどうする」
『眠そうなら置いてこい。覚醒してるんなら猫の手でも借りたい』
チラ、と斜めに流した視線の先。燈はどこか緊張した面持ちで俺をジッと見詰めている。
「二人で行く。タクシーで良いよな? すぐ捕まれば三十分くらいで着くと思う」
俺の見立てに父さんは「悪いな」と一言返してくるなり電話を切った。
すぐに俺も受話器を置いて燈を呼ぶ。
「父さんからの要請だ。お前も一緒に来い」
理由はタクシーの中で説明するから取り敢えず出られる支度をしろと燈の着替えを促し自分も勉強道具をそのままに自室へ飛び込んだ。
お互いズボンを外用に履き替え、防寒着を羽織った姿で迎車を頼んだタクシーに乗り込む。
「……それで、零司さん……ヨウセイ、って? なんなんですか?」
乗り込んだタクシーの後部座席。一部単語の発音がぎこちない隣からの声色に俺は、あぁコイツには難しい言葉だったかと肩を竦める。
「父さんが、猫の手も借りたいくらい仕事がヤバいから俺とお前も来てくれ、ってさ」
噛み砕いて説明すれば、えっ、と燈が吐息を弾かせた。
「で、でも、佐伯さんって……お医者さん……では? 零司さんは判りますけど……僕なんか、何の役にも……」
「何かしらの役には立つから、父さんは燈もって云ったんだろ」
それに医者は医者でも父さんの今のやり方は型破りだからな……と奥歯で噛み締める。
ある意味では良い意味だが、ある意味では悪い意味での型破り。
正規の保険医療では救えない命を取りこぼさないようにと裏側で非保険医療を盾にする黒に近いグレーゾーンで医療に係わる『闇』医者。それが今の父さんの肩書きだ。
それをそうと知りながら見て見ぬ振りしている俺も同罪になるのかも知れないが、人間というのは光を浴び続けながら生きていられるばかりではないことを俺は理解してしまっているから、闇に染っている人間を忌避し批判するだけの立場にはどうしてもなれない。
父さんの現場に引っ張り出されるのは正直初めてのことじゃない。
俺が医大に入ってから今日が三回目の呼び出し。
それこそ過去二回もどこかのシマ争いだか何だかがあったとかで、父さんが出入りしている繁華街近くの夜間救急は本当に人手が足りない状態だったし、俺は器材運びや処置未満のことをして回っていた。
そのことを思い出していたら、ふわっと鼻腔の奥にツンとする消毒液と錆びた鉄の匂いが微かに蘇った。
病院に着く少し前に携帯から父さんへ連絡を取り、まずどこへ向かえば良いかの指示を仰いだ。
指定されたのは、旧病棟のロビー。
大病院とまではいかないが、入院施設も兼ねているその病院は古くからある地元に根付いた(つまり因習のような繋がりが密やかに残り続けている)医療機関。
旧病棟を改築する予定で先に今現場を回している新病棟を新設したのだ。
新病棟の救急搬送口を通り抜けた時ブワッと緊張感の糸が絡み付いてきたから新旧救急外来は父さんが云う通りてんやわんやなのだろう。
一言も発さず俺の後を着いて来る燈と一緒に旧病棟の救急外来に辿り着いた時、そこは一気に清浄と不浄が混ざり合う白と赤で五感を染め上げた。
消毒液と血の匂い。芯に響く呻き声や高低様々な悲鳴。皮膚に触れる空気は粘着いていた。
「燈、大丈夫か?」
すぐさま斜め後ろに視線を落としたら、燈はジャケットの胸元を握り締めながらも確かな意志で焦点を結んでいた。
「だいじょうぶ、です……」
ただ、自分が役に立てる自信は一切なくなりましたが……と。苦笑いすら零せているなら本当に大丈夫なのだろう。
「こういう時はただの器材運びだけでも死ぬ程役に立つから自信持て」
それは経験則と理想のどちらもを含んだ言葉だった。
短く息を吸って目を細める。
目の前には十何人と怪我人が居るが、まだ全員の搬送は終わっていないらしいことは粘着く中にもピリッと張り詰める何かが空気中に網目を張っていたからだ。
視線だけで父さんの姿を探し、一分もしない内に見付けた顔に手を上げる。まだ無闇には踏み入らない。
足早に近付いてきた父さんが俺の肩に手を置いた。
「案の定、だ。これからすぐに最後の怪我人共が数名搬送されてくる。零司はソイツらが到着したらトリアージに回ってくれ。それまでは入口近くの奴らの軽処置を頼む」
それで、と父さんの視線が俺から燈へ移る。
「燈、お前には零司に必要な物品を運ぶ係を任せる」
「は、はい……っ」
「頼んだぞ、助手の助手」
父さんの代わりに俺が燈の背中を軽く叩いたら、燈は息を呑んで大きく頷いた。
トリアージ――つまり、治療の優先順位の見極めを任された俺。もう一陣、二陣と負傷者は運ばれていた様子だったから、残る重傷者も少ないという判断からだろう。
確かにそれなら手腕の利く医者は治療に充てた方が効率が良い。
三、四人の軽傷者の手当を、燈に運ばせた応急処置セットで済ませた頃、けたたましいサイレンの音が鼓膜をつんざいた。
指示通り、患者のトリアージに回る。燈は俺が使った処置セットの補充に走って行った。
俺の見立て、全員緑か黄色。重傷者を示す赤ラベルをつける必要がある患者は居なかった……筈、なのに。
「うわぁぁあっ!」
突然、爆発するような悲鳴。最初の二、三人目で緑の最軽傷者認定をした痩身の男が発したものだった。
他害の恐れがある暴れ方はないものの、繰り返された悲鳴には自傷の恐れを感じさせる何かがあった。
「っおい、落ち着け!」
思わず理屈の声が先走って敬語を忘れた。
駆け寄り目の前に膝をついてちっ、と思わず舌を打つ。
こちらの声にまるで聞く耳を持ちやしていない。
パニックか、まさか今このタイミングでクスリではないだろう。
あぁ過呼吸になり始めてるじゃねぇか。こういう時の対処法は……――
コンマ秒速で脳内にインプットしている医学書のページを捲っていたら、バッ、と。横を小さな影が飛び込んで来たかと思えば、錯乱状態になりかけている男の手を取り、そっと握り込んだのは予想だにせず燈その人だった。
視線をどうにか絡め取り、緩く手を上下や前後に揺らしながら呼吸のペースが落ちていくよう誘導するその仕草に既視感を覚える。
「大丈夫ですよ、――さん。ここは安全なところです」
いつどのタイミングで知ったのか、燈は患者本人のものと思われる名前を確かに紡いだ。
燈が紡ぐ「大丈夫ですよ」は、これまで聞いてきたどの「大丈夫」より確証がないのに、その癖どの「大丈夫」よりも頼り甲斐がある響きだった。
相変わらず、握った手を緩く上下に動かしながら自分の呼吸も大袈裟にそのリズムに合わせる様子はまるで呼吸の手本を見せているかのよう。
まだあどけなさが残る顔は真摯に男の視線を絡め取り続けて離さない。
その真っ直ぐさが伝わったのか、男の声が止むと次第に呼吸も落ち着きはじめた。
燈の呼吸と握った手のゆらゆらした動きと、そして男の呼吸が揃うまで物凄く時間が掛かった気がしたけれど、実際は多分数分足らずだったと思う。
「零司さん!」
「……っ、なんだっ?」
勢いよく俺の方を向いた燈が、男へ向けていた表情とは別の、険しい訳ではないが柔らかい訳でもない真面目な顔で声を張った。
「零司さんの判断は間違ってないです。この人は僕がもう少し付き添っていますので、零司さんは他の方の対応をお願いします」
こんなにも芯のある声が出せるのか、と場違いにもそんなことを思うくらい。この時の燈の声には落ち着きと頼もしさがあった。
だから、咄嗟に頷いてしまった。
「あぁ、頼んだ。また何か変化があったらすぐに呼べ」
「判りました」
燈の返事を合図に俺は固まっていた体をギシリと動かして数分前まで行おうとしていた次の処置に当たる為、踵を返した。
燈に呼ばれないまま二人の外傷の処置を軽く済ませたところで父さんに名前を呼ばれた。
「零司、助かった。こっちは少し落ち着きそうだ。立て続けにすまんが今度はあっちに男手が足りん。頼めるか」
クイ、と顎をしゃくられた先は暗い廊下。
更にその奥にある部屋での出来事をすぐに予測し、判ったと頷いた俺は暗い廊下の先へと迷わず爪先を向けた。
次に俺が任されたのは、予測通り遺体の搬送補助だった。
俺が到着する前に搬送されてきていた患者だろう。新しく掛けられたのだろう白布にですら鉄臭さが色濃く外傷の程度が広く、深いことが知れた。
搬送補助だけに留まるかと思いきや、続け様に入って来た葬儀屋を名乗ったスーツ姿の壮年男性に証人として暫し付き合って欲しいと頼まれる。
何の証人だ? と訝しんだのも束の間。
引き取り手だと現れた遺族――といっても家族ではないだろう。恐らくは仲間内だろうか――に対しての状況説明と今後の段取りについてキチンと説明義務を果たしたかどうかの証人としての同席だった。
そしてそのままこの後二時間程借りられてくれないか、とも頼まれた。
それは流石に父さんに訊かないと、と佐伯の名前を出したら、壮年男性は「ちょっと失礼」と携帯で誰かと二言、三言話してから俺をジッと見てきた。
「今、佐伯医師から君の手を借りる許可は得た。悪いがこちらも若い男手不足でね、火葬場まで付き合ってもらいたい」
「……父さんがそうしろって云うなら、俺は構わないけど……」
「なら話は決まりだ。ついてきたまえ」
ひらり、スーツの裾を乱すことなく翻った壮年男性の背中を追い、黒塗りの車に同乗する。
葬儀の『そ』の字もなく着いた火葬場。
炉に入れ、納骨までを一通り手伝わされ、骨壷だけを取りに来た遺族へそれを渡すまでを見届けさせられた。
喪に服する格好とはとても云い難い、ブラックジーンズにグレーのパーカーといった出で立ちの俺を一瞥してきた遺族。
何か文句を云われるかと一瞬身構えるが、瞬きひとつ後にはキョトンとしてしまう。
「ありがとう」
まさか、その言葉をここで自分へと投げられるなんて思ってもいなかったからだ。
不意に、秋の雨の夜のこと思い出した。
大学の図書館にギリギリまで居座りレポートを作成した帰り道。
事故に遭った少年を見て即座に救急車を呼び応急処置を行った。幸い意思疎通の叶う状態ではあったものの保護者が同行しておらず、保護者が迎えに来るまでの間一緒に居ると軽い約束を交わして同乗した救急車。
同行した搬送先で暫く談話した後に急変した少年の容態。
その結果、脳血腫により麻痺が残る可能性の高さを医者から明示されてどうしてか俺の目の前が暗くなった。
迎えに来た保護者から「ありがとうございました」と丁寧に頭を下げられたが、あの時の「ありがとう」を俺は素直に受け取れなかった。
だって、親は子供が助かって良かったかも知れないけれど、少年本人は麻痺が残ったら中途半端に生かすだなんてと俺を恨むかも知れないと思ったからだ。
だけど、今の……遺族からの「ありがとう」は、不思議と素直に受け取れた。
遺族に向けて綺麗に腰を折って頭を下げる壮年男性の背中を見ながら、あぁきっとこの葬儀屋も父さんと似たり寄ったりなんだろうなとぼんやり思った。
ついでに云えば。この夜間に動いている火葬場も。
黒に近いグレーゾーンで動く人間、そして場所。
そういうグレーゾーンで立ち回る人間がいるからこそ助かる命が――或いは、助かる心があるのだろう。
あぁ、と溜息のような吐息が洩れる。
(あぁ、何だろう……何か――)
俺、『こっち』の方が向いてるのかも知れないな、と。
不覚にもそんなことを思ってしまった。
壮年男性に父さんが勤務する病院へと送ってもらった頃には旧病棟のロビーも落ち着きを見せていた。
「零司、燈。今日は助かった。当直から車を借りられたから、一旦お前らを家まで送ってやる」
白衣を脱いだ父さんの隣には、ふわふわと眠そうに瞬きを繰り返している燈の姿。
始発を待って帰るから良い、と云う気になれない程度には俺も疲れていたから素直に父さんに甘えることにする。
夜明け前の道路はまだ空いている。
赤信号でしか停車を余儀なくされない車はスムーズに家路を辿っていた。
後部座席に隣り合って座った燈は今にも寝そうな雰囲気で頭をカクンカクンさせている。
俺はぼんやりとシートの背もたれにべったり背中を預けて窓の外を眺めていた。
流れる街灯の残像を見ていたら、錯乱しかけた男の手をを握っていた燈の姿と少し前の記憶がブレながら重なった。
やってらんないよね、とわざとらしい不貞腐れ顔で切り出したのは看護学生だった元カノだった。
「――不思議なものでさ。弱ってる時って理屈の医療より、ただ手を握るだけの方が効くこともあるんだよ」
その言葉にどういう意味だ? と首を傾げたら、看護学生なら最初に習うナイチンゲールの『手当て』ってヤツのこと、と元カノは笑っていた。
「正直、やってらんないなって思っちゃうよね」
それは冗談半分、本気半分だったのだろう。
(……マジで、それだな)
元カノに未練は欠片もない。
ただあの時の彼女が云っていたことがやっと判った。ただたた、それだけ。
「……燈」
「……はぃ……」
今にも寝てしまいそうな燈に声を掛ける。
「お前……手当て、の語源。知ってるか」
知る訳がないと判りつつも語尾がほんのり疑問形になった。
当たり前のように首を傾げた燈を見るでもなく窓の外に視線を遣ったまま続ける。
「今日……お前がしてたことそのまんまだ」
僕なんか役に立たないって云おうとしてたけど、寧ろお前が居なかったら立ち行かなかったかも知れない。
そう呟いた言葉を、燈はちゃんと聞いていただろうか。
家が近くなって来た頃、雨が窓を強く叩き出したがその音を寧ろ子守唄にでもしたかのように燈はとうとう窓側に頭をくっ付けて寝息を立て始めていた。
その気配を感じ取ったのかどうか。父さんが短く俺の名前を呼んだ。
「……何?」
「どうだった」
何が、とは訊かれなかったから。
「……別に」
どうもない、と口の中で俺は嘘を溶かした。



