燈のキャンパスライフは順調なようだった。
とはいえ、それは勉強に限ったことで。交友関係の方はからっきしだそうだが。
まぁ、受験勉強している時も一応予備校を勧めた俺に「あんまり他人と関わりたくない」と控えめにかつ断固とした主張をしてきた奴だから驚きはなかったけれど。
昼間は俺も葬儀屋の事務員(一応)として働き始めたから、燈と話すのは主に朝食と夕食の食卓で、だった。
とはいえ、夕食後たまに大学の勉強のことを燈から訊かれれば特に文句もなく付き合いはしたが。
曲がりなりにも三年間、自分が好きで学んできたことだったから、慣れ親しんだ知識を振り返るのが心地好かったというのもある。
ただそれは未練とかでは決してなく。
喩えるなら大学生が小学校の算数ドリルを開いて『理解出来る』ことに安堵するような、そういう感覚。
レポート制作に使うパソコンは俺が使っていたノートパソコンを貸す名目で実質譲り渡した。
大学を辞めてから俺が家でノートパソコンを開くことはなくなっていたし、放ったらかしにしていた割には問題なく動いたから、ひとまずはそれで良いだろうと渡したのだ。
一年、二年と。周囲に置いていかれないよう、必死になっていたのは燈だけじゃない。
俺だってそうだ。
繁忙期に何となく有耶無耶にバイトになった葬儀屋、牧埜辺總本舗で。俺はこれまで触れてきたことのない知識を取りこぼさないようにと必死だった。
繁忙期こそひたすらキーボードと戯れるしかなかったおれだったけれど、繁忙期が落ち着いた頃に改めて人事担当から労働の継続意志を問われた。
「働かせてもらえるなら、ぜひこのまま続けさせてください」
深く頭を下げたら、何故ウチに? と漸く採用面接らしい質問が投げ掛けられる。
「以前、少し……マキノさんのお手伝いをした時に……自分は送る側が向いていると思ったから、です……」
マキノさんの名前を出したら、あぁと人事担当者が手を打つ。
「ゴタゴタがあった冬の夜に現地調達した助っ人って君のことかなぁ……えぇと、確かお医者の……」
「はい、多分それです。自分の父は医者をしてます」
「うんうんうん、その時のことは牧野さんから聞いたよー。で、その夜がここで働こうと思う切っ掛けになったの?」
やや首を傾げた人事担当者は視線を下から斜め上へと流しながら続けた。
「そうです」
ハッキリと頷くと、ほうほうふーん、とどこか面白がるよう目を細められる。
「じゃあ、君さ……『夜勤』も出来るクチ?」
口許に手を添え、潜められた声で問われたそれはもしかしたら全従業員が知るものではないのかも知れない。
「……寧ろ、そっちの方が本命です」
潜められた声に合わせてこちらも声量を抑えて返せば、人事担当者は柏手を打つように手を大きく叩くとにっこり笑った。
「いいねぇ、採用採用。ん、まぁまずは昼の時間帯で仕事の全容覚えてね。夜だけじゃ教えてる余裕ないからさ。たまに人手欲しい時は夜も声掛けるかも知れないけど……」
基本フルタイム、時間変則勤務が可能ならこのまま正式に雇うよと軽い口振りに、俺は迷わずお願いしますと深々頭を下げた。
そうして二年間、俺は基本昼の時間帯にみっちりと葬儀屋の仕事を叩き込まれたのだった。
三年目からは昼夜半々。お陰で父さんとも燈とも生活が擦れ違いがちになった。それこそ三人揃って食卓につける日が珍しいと思えるくらいには。
受験勉強の時は俺と一緒だったからリビングでノートを広げていた燈も、大学に入ってからは自室でテキストを散らかすようになった。
それでも音に敏い燈は、深夜帯でも起きていれば俺が帰宅した音に反応するよう部屋から顔を覗かせて律儀に「おかえりなさい」を寄越すのだった。
三年目のとある夏の夜。俺は『夜の葬儀』に疲弊し切って帰宅した。夜中になっても馬鹿みたいに蒸し暑くって、いつまで経っても体の芯に過剰な熱が籠って抜けないような夜だった。
父さんは夜勤の日。もう東の空が明るくなり始めるような時間帯だったから、当たり前に燈は寝ているだろうと少し雑に家の鍵を開けてそのまま靴もジャケットも脱がずに玄関で座り込んだ。
立てた膝に肘を乗せ、組んだ手の中央に額を押し当てる。
じとり、首筋を伝う汗は不快感を覚える程にハッキリと頸動脈に沿って皮膚を撫でていく。
チッチッチッ、と耳許で鼓膜を刺す腕時計の秒針が立てる微かな音ですら煩わしいと思うが、腕時計を外すという動作すらこの時の俺には億劫だった。
どれだけそうしていただろう。不意に背後でカチャリと小さくドアが開く音がした。
「……おかえりなさい、れいじさん……」
ほんの少し舌っ足らずな声はまだ眠気が強いからなのだろうか。その声は燈のそれに他ならなかった。
「……おみず、いりますか?」
「…………」
「げんかんじゃ……からだがやすめませんよ……せめて、リビングのソファにしましょう……」
いつの間にか俺のすぐ傍まで来ていた燈に腕を引かれる。
その力は想像よりもずっと強かった。
半ば無理矢理立たされて、家の中に引き摺り込まれる。
咄嗟に脱ぎ捨てた靴は跳ねた左足の所為で片方が裏っ返しになってしまったに違いない。
肩を支えるようにしながらリビングへと俺を引き摺る燈はいつの間にやら大分背が伸びていた。
ずっと伸び悩んでいた背丈だったが、大学に入ってから遅い成長期を迎えた燈の身長は今や日本の成人男性の平均をほんの少し上回る程。
そりゃあ、五センチ差程の俺を引き摺るくらいは出来る筈だ。
光量を絞ったリビングで、とすんとソファに座らされてジャケットを奪われる。
肩周りが少しだけ軽くなった分、首周りが窮屈に感じた俺は無意識にネクタイの結び目を弛める。
指を縺れさせながらシャツの一番上のボタンを外すと、数時間ぶりに漸く新鮮な空気を吸い込めた気がした。
「これ、飲んでください」
ふと目の前に差し出されたのは水の入ったグラス。ご丁寧にも氷入りで。
無言でそれを受け取り、一息に呷る。
冷たいものが食道を引っ掻きながら落ちていくのがありありと判って、如何に自分の体に熱が籠っているかを知った。
氷だけが残ったグラスを両手で握ったままソファに深く沈む。
ぼんやりと、何を考えるでもなく斜め上に天井を眺めていたら、傍にあった空気が小さく揺れた。
「零司さん、ジャケット。皺になっちゃ困ると思うんで、部屋に掛けてきますね」
「……ん、あぁ」
その後に続くありがとうな、は音にならずに口の中で溶けてしまった。
燈がリビングから出て行ってから、俺もふらりと立ち上がる。まだ体の内側には熱が籠ったままだ。それを冷やしたくて、冷蔵庫を開ける。
迷わず手が伸びたのは開封済みの炭酸水、にではなく、チューハイのロング缶。
プシュッと小気味の好い音を立ててプルタブを起こし、氷だけになったグラスに注ぎ入れる。
シュワシュワと炭酸が弾ける音だけがもったりとした空気の中で爽やかだった。
グラス一杯分をその場で飲み干し、缶の残りをもう一度グラスに注いだ俺はフローリングを擦るようにしてまたソファに深々と沈みこんだ。
少しして、燈がリビングへと戻って来る。
「……悪ぃな、変な時間に……起こしたか?」
隣に浅く腰を落とした燈を横目にそう呟いたら、いえと軽い否定。
「夜うたた寝の延長で早寝してたので、ただの早起きです」
そんなものは明らかに嘘だと判ったけれども、俺はそうかとだけ返してグラスに口をつけた。
ほろ苦い炭酸が冷ややかに喉を灼きながら胃の底に落ちていく。
水を飲むようなペースでアルコールを煽っていく。
半分以上呷り終えた頃、ぐらりとゆっくりと体が傾いだ。
とん、と。そのまま燈の肩に頭を乗せたらその肩が小さく跳ねた気がしたけれど、スマンと体勢を整える気にもならない。
「どっ、どーしたんですか……零司さん……」
「ん……回ってきた……」
「回ってきた……? って、え、飲んでるの炭酸水だったんじゃなかったんですかっ?」
俺の手からグラスを取り上げた燈がその縁に鼻を近付て呆れたような溜息をひとつ。
「ついさっきまで玄関で座り込んでた人がお酒なんて飲むものじゃないですよ……」
「うるせぇ……」
小言に短く不平を垂れると、燈の肩が少し下がった。
「煩くないです。まったくもう……」
やれやれとまた大きく溜息を吐き出した燈は、それでもじっと俺に肩を貸したまま。
半分目を閉じて何を考えるでもなくぼーっとしていたら、膝の辺りへ投げ出していた手に、燈の手がそっと……静かに重なってきた。俺の手よりもやや線の細い、すらりとした指の隙間はぴたりと閉じられている。
その手をただ乗せられているだけ……それだけのこと、なのに。
触れられている部分を通して体の奥に籠り続けていた嫌な熱がじわじわと不思議と溶け出していくような感覚。
その感覚が理屈抜きに、心地好いと思ってしまった。
思ってから、あぁと蘇った『あの冬の夜』のこと。
まるで、手当てだな……とぼんやり思う。
手当て、というものはどうやら相手を怪我人や病人だけに限る話ではないらしい。
何だか落ち着く……そう思ったら勝手に瞼が下りた。
俺が振り払わないからか、手は重ねられたまま。
リビングに響くのは時計の秒針が刻む微かな音のみ。
そのまま暫く意識の浅瀬を揺蕩っていたら、不意に名前を呼ばれた。いや、呼ばれたというよりもただ呟かれた、という方がきっと正しい。
「零司さん……」
「…………ん」
喉の奥で小さく応えたら、燈の指先に微かな力が入った。
「…………すき、です……」
たっぷりと間を空けてから紡がれたその言葉の意味を理解するまでに少し時間が掛かった。
「…………なに、が」
「零司さんのこと、が」
燈の台詞に「は?」とは一瞬思えどそれは音にはならなかった。
すき……好き? 燈が、俺を?
いや、でも……もう何年も同じ屋根の下で暮らしていて好きじゃないと云われたらそれはそれで何とも云えない気持ちになる。
それに……ほら、『好き』という感情は余りにもグラデーションの幅に富んでいるじゃないか。
「……すき、って。どういう」
「そ、れは……」
おもむろに好意を言葉にしてきたのは自分の癖に、俺が求めた説明に即答しない燈を焦れったく思ったのは濃い疲労で導火線が短くなっていたのと、アルコールでどこかのネジが緩んでしまったからなのかも知れない。
首を前に倒しながら、燈の肩に預けていた頭を起こす。
そうして生じた僅かな遠心力の勢いで、俺は斜め下から燈の薄い唇に自分のそれを重ねた。
温度が重なっていた時間は長くないけれども触れ合ったという感覚は確か。
「れ、っいじさ、ん……っ!」
「お前のそれって、こういうこと……?」
背を丸め、下から見上げる燈は困惑と羞恥と気不味さを綯い交ぜにした表情で口許を手の甲で覆って幾度も視線を四方へ散らかしていたが、暫くするとやんわり俺の眼差しに視線を絡めてきた。
「…………はい」
またたっぷりと間があったが、それでも燈が紡いだ肯定の音は揺らぎのない確かな響き。
「ッハハ、冗談」
茶化すつもりはなく、でも真に受けることも出来なくて俺はドサッと体重をソファの背に預けた。
「本気です」
追い掛けてきた視線と声音の真摯さたるや。
でも――この時、俺はそれから逃げた。
「青年期における同性間のそれは時に憧憬と混同されがちである……って習わなかったか?」
ソファの背に体重を預けたままズルズルと体を横倒しにしていく。
丁度、ソファの背と燈の背の間に埋もれるように。
「まだ自活も出来ねー学生が『大人』を背負える訳ねーだろ……」
「…………ッ」
くぐもった俺の声に、燈が息を呑んだのが判った。
判ったけれど、それ以上俺は何も云わないし、何もしなかった。否、出来なかった。ソファの背と燈の背の間の柔らかな温度が心地好過ぎて、そのまま睡魔に意識を攫われたから。
翌朝、目を覚ますと自分はワイシャツとスラックス姿のままソファの上で横になっていた。
頭の下にはクッション、体には薄いブランケット。
リビングの空調は程良く涼しく、昨夜の帰宅後のことを思い出そうとしたがどうも判然としない。
ただ、疲れ切っていたことだけは確かに覚えていて。
玄関に座り込んだまでの記憶しか定かではない。
「ん……」
乾いた喉を鳴らしながらゆっくりと体を起こしたら、起きたか、とダイニングテーブルが飛んできた低い声。
「……ぁ、父さん……? はよ……」
「はよ、じゃねぇ。零司、お前なぁ。疲れてるにしたって寝転けるなら自分の部屋まで体引き摺ってけ。朝起きたら蒸し暑い玄関でお前が寝てたから驚いたって燈が呆れてたぞ」
燈にソファまで引き摺ってもらえたことを感謝するんだな、とそれこそ呆れたように云う父さんに、あーうんと曖昧な返事。
そう、だった……か? 寝落ちる前に、燈と何か話したような気がしないでもない、が……如何せん帰宅後の記憶がハッキリしない。
「取り敢えずその線香くせぇ体、シャワーで流して来い」
嫌味のようで、それが労いなのだと疑わないのは父さんの性質をよく知り得ているから。
「……そーする。んで、もー少し寝るわ」
ふぁあ、と大きな欠伸をしながらブランケットを畳んでソファの背に掛け、リビングを出るところで、そーしろと父さんの無愛想な声に肩を叩かれた。
この夜あったことを俺がしっかり思い出すのは、些か先の話になるのだった――。



