灯の守り人【本編】


 
「ぁ、ぁの……っ、れ、零司さん……っ! 僕に勉強、教えてください……っ」
 燈から直接そう頭を下げられたのは、長い夜が明けた1週間後のことだった。
「……良いけど、どうした急に?」
 まだ燈の口からは医者になりたいという話を聞いていない俺だったから、何にも知らない振りをしてそう問う。
「あ、えっと……だいが、くの前に……こうにん……? というやつを取らないとならないと、佐伯さんに、教えてもらったので……」
「何、お前大学、行きてぇの?」
 少し誘導尋問じみてしまったが、燈はそれに気づく様子もなくおずおずと小さく頷いた。
「あ、の……僕、も……零司さんみたく、お医者さん……目指したく、って……」
 まるで自分には不相応な自覚があると云わんばかりのしどろもどろさに何だかおかしくなってしまった。
「んなら、そんな縮こまった云い方せずに堂々医学部入りたいから勉強教えてくれって云え」
 肩を小さく揺らしながら、あぁそうだと些事のように付け足しておく。
「俺、大学辞めるから」
 その一言に、燈が「へ……ぇえっ?」と面白い程派手に驚いた声を上げた。
「な、ぇ、え……? 零司さん、お医者さん、には……」
「なーんか、向いてねぇかなって」
「そんなこと……」
「ないって周りも思ってるかも知んねぇけど」
 これは確定事項だからもうこれ以上話すことはないと打ち切る俺。
 燈はもごもごとまだ何か云いたそうにしていたが、俺がそれ以上語らないと察したのだろう。ひとつ大きく息を吸ってから、
「じゃあ……零司さん。改めて、僕に勉強……教えてください」
 と。さっきよりも強い口調で俺を見上げてきた。

「――で、なんだ? これは」
 翌日、本屋に問題集を漁りに行った後のこと。
 ひとまず中学のおさらい問題を解かせてみた結果は八割空欄、一割は誤答、残りの一割は合っているものの字がヨレヨレ。
「な、なんだ、と……云われ、ても……」
 なんでしょう……?
 そう問い返されて思わず頭を抱えた。
 現状全くお話にならねぇってことだ馬鹿野郎。
「いや、おま……これ、中学レベルだぞ? 義務教育レベル。難関校向けの問題集とかじゃなくて、ここまでは超最低ラインぐらいのレベルな?」
「……つま、り?」
「高認試験と大学受験に向けて数年掛けてでもみっちり詰め込んでやるから覚悟しとけ」
 ジトリと睨むよう低い声で燈を見据えたら、燈は薄笑いを引き攣らせながら微かに頷いた。
 学年で云うならば高認を受けるのに丸々一年の猶予はある。
 燈の学力が現状どれだけ低かろうと、本人の努力次第できっとどうにかなるだろう。
 ……ならなかったら、諦めさせる努力をこっちがすることにはなるだろうが。
 そうならないようにと祈りながら、俺は完全に燈専属の家庭教師と化するのだった。
 加点を狙う勉強を教える為には自分が出題範囲をしっかりと把握、理解していなければならない訳で。
 俺はネットで過去問を数年分漁り実際自分で解いた上で、燈に必要そうな問題集も見繕い直した。
 正直自分が解いた過去問の答え合わせをしている瞬間が一番ヒヤヒヤしたが、それは内緒の話。まぁ、無事余裕で合格点は取れたけれど。
 燈に叩き込む勉強は高認試験の受験対策、だけなら簡単だったかも知れない。でも燈は各教科の基礎もだし、そもそも勉強の仕方自体をよく判っていなかった。
 真っ直ぐ進めばいいだけの道を右に左にと大きく蛇行しながら歩くから中々目的地に辿り着かない……という感じ。
 集中力も最初の内は全然保てていなかった。
 すぐに手が止まる、視線が彷徨う、体が揺れ出す。
 小学生かお前は、と云いたくなったところを幾度も堪えた俺は我ながら偉かったと思う。
 何となく、それを指摘したらヘコむとかそういうレベルではなく燈の意欲を殺してしまうんじゃないかと察するものがあったからだ。
 伊達に基礎医学を全履修し終えてはいない。
 大別して内科外科、そして精神科と学びを得てきている身だ。
 燈には何かしら心理的な欠陥――それが内的なものか外的なものかまでは今の俺には判別出来ないが――があると疑っている。
 事実、燈は少し大きめの声や、なんでもない動作でもこちらが大きく手を上げた時に微かに肩を跳ね上げるのだ。
 数ヶ月観察してきて、それは確たる証拠として積み重なっている。
 おどおどとこちらの様子を窺う癖があるのも心理的に何か影響を受けていると仮定しても差支えはないだろう。
 そんな相手に頭ごなしに否定を重ねたり注意叱責を繰り返すのは逆効果だ。
 まずは今の燈を受容しなければ話は進まない、と。
 一応そんなことも考えているから、俺は余計なことを燈に訊かないし云わないようにしている。今のところは。
 燈の学力は最初こそ絶望的ではあったものの、どうやら飲み込みは悪くないらしい。
 基礎固めをして、指摘部分への解説を添えれば燈は然程難を要さずに誤答を正答に変えた。
 家事をしながら燈の勉強を見るという毎日に大変さは皆無でないにしろ、高三頃からの自分の生活を振り返ってみたら、いっそスローライフとも云えた。
 医大のハードルは低くない。競争率を前にしたら、どれだけ燈の飲み込みが早いと云っても限界はある。
 それ故に俺が目星を付けた医大はふたつ。
 国公立は不可能だろうから、私立を。
 そして、そこで特待生になるか奨学金制度の地域枠を狙うかの条件を追加した。
 と云うのも、燈の方から医大の学費に関しての質問を受けたからなのだが。
 なるべく学費は抑えたい、かつ未来の明るさを現実のものとするならば、俺が提案したふたつの医大の内どちらかを選ぶのが妥当な線だと思った。
 高認試験の受験勉強に加えて、医大受験への準備も始めたのは燈が高二の学年になる春頃から。
 冬、春、夏と高認試験対策をして、春以降から医大受験の対策も……というハードスケジュールに燈は一切の不平不満を唱えなかった。
 へこたれることもなく、逆に弱音を吐かないことに心配を覚えたくらいだ。
 そうして秋の入り口。買い物帰りに覗いたポストには一通のはがき。高認試験の受験票だ。
 その宛名に、おや? と思う。
『佐伯様方 九条燈様』
「……九条?」
 買い物袋を片手にぶら下げたまま訝しげな声が喉の奥から飛び出してきたが、それもその筈。
 九条、というのは俺の母親の旧姓だったからだ。
 燈も父さんが勝手に付けた名前だ。
 受験票ならば戸籍と等しく在らねばならない筈で。
 ――九条、燈?
 俺の頭の中は「どういうことだ?」の嵐が吹き荒ぶいた。
「……燈。これ、手紙……つか、受験票来たぞ」
「ぁ……っ、ありがとうございます」
 俺が差し出したはがきを手にした日 燈はどこか嬉しそう。
 余計なことは聞かないと決めていた。
 はがきを手に、目の奥に小さな星を瞬かせているかのうな燈に水を差すような話題をさせるのはやや気が引けるが……それでも、流石にこれは聞いておかなければならないだろう。
「…………名前、それ、本名?」
 珍しく、言葉の歯切れが悪くなった。
 それに気付いたのかどうか。燈は一度はがきを膝の上に伏せ、曖昧に首を縦にも横に振った。
「……願書を提出するのに合わせて……佐伯さんに、名前を……変えてもらいました……」
「お前がウチに来てもう一年近く経つけど……何か思い出したのか?」
 だって、この少年は元々自分の名前も素性もよく判っていなかった。だから父さんがコイツに『燈』という名前をやったのだから。
「…………はぃ。本当は、結構……前に……自分のことは、思い出せてまし、た……」
 そう云いながら軽く睫毛を伏せる燈。
「僕……帰れる場所が、多分……ないんです……」
「どういうことだ?」
 追及したら、燈は一瞬だけ押し黙った。
「子は鎹……っていう慣用句……勉強はじめた頃に覚えて、思いました……」
 自分は鎹にはなれなかったのだ、と。
 その言葉がやけに重たく響く。
「両親はもう、数年前から別々、で……」
 次第にか細くなっていく燈の声。
 それに微かな震えを感じ取った俺は自分の後頭部を掻き乱してから燈の頭に手を乗せた。
「それ以上は良い……で? だけど何で九条姓なんだ?」
「あ……ぇ……と、佐伯さんに……本当に医者として、自分を生き直すつもりなら……姓名の変更どちらも面倒を見てやる、って云われて……」
 お願いした結果、零司さんのお母さんのご実家に養子縁組してもらいました、と燈は続けた。
「…………そ」
 俺が知りたかったのは、あくまでも何故燈が九条姓を名乗っているかだけ。
 だから今の説明でもう充分だった。
「…………俺の祖父(じい)さんと養子縁組したってことは……お前、俺の叔父にあたることになるのか?」
 たっぷりと間を開けてから少し面白がるように声を転がしたら、燈はハッと顔を上げて目をぱちくりさせた後、
「そ、うなります……ね?」
 と、俺につられるよう小さく苦笑した。
 
 燈の高認試験の結果は上々。
 試験直後の顔色がそれを物語っていたし、実際それだけの顔をしても差し支えない結果だった。
 当の本人はAよりB判定の方が数がふたつ多くて結果発表の書面を見た際の顔色は些か沈んで見えたが、中学レベルですら危うかった全教科を一年足らずでA又はB判定を出したのは俺の指導……に必死についてきた燈自身の力に違いないのだから、もっと胸を張れと俺は燈の背中をひとつ大袈裟に叩いてやった。
 高二の秋で高認試験を終えたことにより、燈の大学受験勉強はいよいよ本格的になった。
 連日連夜続く難問との格闘の末、ある日の夕方。
 休憩時間と称して燈をソファに座らせたのは、勉強する場所と休憩する場所は変えた方が頭のスイッチが切り替わりやすいから。
 少し甘くしたミルクティーを淹れてやったら、燈はちまちまとそれを舐めていたかと思えばマグカップを両手で握ったままおもむろに隣に座る俺の肩に頭を預けてきた。
 すぐに「すー、すー……」という控えめな寝息が聞こえてきて、つい笑ってしまう。
「俺に寄り掛かって寝るとか、流石に相当慣れてきたなもんだな……」
 零れると危ない、と。燈の手からマグカップをそっと取り上げてローテーブルに置く。
 左肩で受け止める質量はこの一年で幾らか増した。
 重い……いや、それはとても良いことではあるのだが。
 他人の重みに自分が安心する日がくるだなんて思いもしていなかった。
 自分用に淹れたコーヒーを啜りながら。
 コイツの面倒見る人生もありなのかもな……とか思ってしまった自分の脳みそも大概、勉強教え疲れしているのかも知れない。