月と陽を生きられる特別な王は、元捨て子の少女を慈しむ。

 それからの日々は、今まで過ごしたどんな時間よりも温かい時間に感じた。
 多くの刺客が訪れる日々のどこか温かなのだと問われても、上手く答えることは出来ない。それでも、珀磨さまと共に食事を取り、他愛のない会話を笑顔で出来る。そんな時間が幸せで堪らなかった。

「志野」

 優しい声色で名を呼ばれ、さらに自分の名が好きになっていく。

 それでも、そんな日々の中で変化は突然訪れるもの。その日訪れた刺客は倒れる間際、こう叫んだ。

「鏡心花に命じられたのだ!」

 その名を聞いた瞬間、心臓が壊れるのではないかと思うほど速く動いてしまう。鏡心花に命じられたということは、この刺客は私と同じ組織に属しているということだ。組織では多人数で行う任務以外、他の構成員と関わることはない。それでも鏡心花に拾われた元捨て子として、私の名を組織で知っている者は多い。だからこそ、私は組織で疎まれることも多かったのだ。

「鏡心花? ああ、『響桜』の長か」

 密偵組織として有名な『響桜』を珀磨さまも知っていたようだった。ここで私の動揺を悟られれば、珀磨さまに私の第一の主が鏡心花だと悟られてしまう。そう分かっているはずなのに震えてしまう両手を、私は力強く握りしめて誤魔化す。力尽き、倒れた刺客を、珀磨さまが屋敷から運び出そうと担いでいる。

「珀磨さま、刺客の片付けは私が……!」
「良い、志野は休んでいろ」

 いつもの私ならここで食い下がらず、珀磨さまと共に刺客の処理を行なっただろう。しかし今はただ頷き、珀磨さまを見送ることしか出来なかった。珀磨さまは可能な限り殺傷を行わない。自分を狙う刺客ですら、息のある者は屋敷から離れた場所に運び出すだけだ。そんな珀磨さまのことは始めは甘いと思っていた。しかし、今はもうその優しさすらどこか愛おしく思えてしまう。
 一人取り残された部屋で、私は握りしめていた手を茫然と見つめていた。

「鏡心花……」

 ずっと鏡心花の瞳に映ること、鏡心花に認められることだけが、私の生きる意味だった。今もそう望んでいるはずなのに、何故こんなにも私の心は無意味に揺らいでいるのだろう。
 先ほど倒れた刺客は、屋敷の外で目を覚ませば「響桜」の本拠(ほんきょ)に戻るだろう。そして、天王寺 珀磨に護衛がいたことを上に報告する。私の特徴が伝われば、鏡心花ならば私が天王寺 珀磨の護衛をしていると勘づく可能性は高い。もし鏡心花が、私が珀磨さまの護衛の任を得ていることを知ったら、きっと私を利用する。鏡心花はそういうお方だ。
 そんな予想が外れてほしいとどれだけ願っても、この世は残酷さを秘めているのだ。刺客がやってきた翌日には、私の部屋に組織の伝達担当が訪れた。珀磨さまを狙う刺客とは違い、私の自室に訪れた組織の人間は武器すら持っていなかった。

「鏡心花からだ」

 武器の代わりに一枚の半紙を投げ捨て、すぐに屋敷を出て行く。一人きりの自室で、私はゆっくりを半紙に書かれた文字を目で追って行く。

『よく天王寺 珀磨に取り入った。隙を見て、片腕を落とせ。両腕でも構わない』

 始めは鏡心花の指令の意味が分からなかった。命を奪うのではなく、片腕を落とせという指令。しかし今ならこの指令の意味も理解出来る。求められているのは珀磨さまの血だけなのだ。腕のない珀磨さまならば、生け取りにすることも容易いと考えたのだろう。そして、あわよくば切り落とした片腕から血をとることも出来る。恐ろしく、残酷な、指令。それでも、珀磨さまに出会うまでの私は、何も考えぬまま鏡心花の言いなりだった。
 当たり前のように、鏡心花は私が裏切ることなど考えていない。私が珀磨さまの護衛の任を真摯にこなしているなどとは考えもしない。鏡心花からの伝達の最後にはこう書かれていた。

『我は経過報告を所望する』

 それは鏡心花からの呼び出しだった。今までならば、私はすぐさま屋敷を飛び出し、鏡心花の元へ向かっただろう。鏡心花が私を労い、顔を出せと望んでくれる。これ以上の幸福はないと考えただろう。しかし、今は……

「珀磨さま……」

 半紙を握りしめ、無意味にその名を呼んでしまう。

「珀磨さま、珀磨さまっ……!」

 何度も、何度も、繰り返し口に出してしまう。

「志野?」

 その声にビクッ、と身体が震えたのが分かった。珀磨さまが丁度、私の部屋の前を通りかかったようだった。

「志野、俺の名を呼んだか?」

 返事が出来なかった。先ほどまで名を呼んでいたはずなのに、今は上手く口が動いてくれない。

「志野、呼んだのだろう? 入って良いか」

 ゆっくりと襖が開き、珀磨さまが入ってくる。きっと今の私の顔は酷いものだろう。
 しかし、珀磨さまは何故か私の顔を見るや否や駆け寄ってきて下さる。

「志野、何があった!」
「……何も」
「そんなはずあるか……!」

 ゆっくりと顔を上げ、珀磨さまと目を合わせる。

「珀磨さま、私はそんなに酷い顔をしておりますか……?」
「ああ、今にも泣きそうだ」

 今までであったら喜んでいたはずの鏡心花からの呼び出し。にも関わらず、私は今にも泣きそうな顔をしているらしい。私は、もう自分の感情すら理解出来ないのだろうか。

「何があったか教えてくれ。必ず俺が力になろう」

 言えるはずがなかった。ただ珀磨さまの前で小刻みに震える身体。珀磨さまはそんな私に手を伸ばし、優しく抱きしめた。

「大丈夫だ、志野」

 抱きしめたまま、珀磨さまが私の背をゆっくりとさする。どこまで優しい珀磨さま、私が第一の主に呼び出されていると知っても今までと同じ表情を向けてくれるだろうか。
 それでも、このまま鏡心花から逃げ続ける訳にはいかない。私は鏡心花とも向き合わねばならない。

「珀磨さま、私は何があっても珀磨さまの味方です」
「奇遇だな、俺もずっと志野の味方だ」

 鏡心花に伝えよう。例え、貴方からの依頼でも珀磨さまを傷つけることは出来ないと。
 そんなことをすれば、私は組織を追放されるかもしれない。下手をすれば、役立たずとしてその場で首を切り落とされるかもしれない。それでも、珀磨さまを傷つけたくはない。それこそが私の本心だった。

「珀磨さま。明日、私は屋敷を空けます。必ずや戻ってきますので、どうか……」

 そんな私の言葉に被せるように珀磨さまは口を開いた。

「ああ、待っている」

 詳しいことは何も聞かずに私を信じてくれる珀磨さま。その気持ちに応えたいと深く思った。



 *



 翌日、月が昇ってすぐ。世界が銀榔国に変わってすぐに、私は我が組織「響桜」の本拠に足を踏み入れた。
 慣れ親しんだ場所のはずなのに、まるでここにいたのが遠い昔のように感じる。長い廊下の奥、入室を許された者しか入れない特別な部屋。私はその部屋の前で一度深く息を吐き、気持ちを整える。

「志野でございます」

 部屋の中から短かな返答が聞こえた。

「入れ」

 久しぶりに見た鏡心花は、やはりこちらを見ていなかった。その瞳は、いつも通り茫然と月夜だけを映している。こちらに視線を向けないまま、鏡心花は私を(ねぎら)った。

「天王寺 珀磨の護衛を任されていると聞いた。よく取り入った」

 鏡心花は、私が珀磨さまの命を狙いやすくするために護衛を装っていると思っている。
 今まで鏡心花の前に立つ時は、鏡心花の目に映ることしか考えていなかった。しかし、今は珀磨さまのことしか考えられない。そっと自分の髪に触れれば、そこには珀磨さまから頂いた(かんざし)()さっている。珀磨さまは初めて私に温かさを教えてくださったお方。もう気持ちは決まっている。

「鏡心花、私はこの指令を遂行(すいこう)出来ません」

 珀磨さまを守るために、生まれてはじめて鏡心花に言い返した。それは、私の第一の主と第二の主が入れ替わる瞬間だった。いや、もう私の主は珀磨さまだけで良い。私を大切にして下さるあのお方を守りたい。私の温かさや優しさ、そして幸せを教えて下さる珀磨さまと共に生きたい。私のこの気持ちが恋情でも、珀磨さまが私と同じ気持ちでなくても、私はもう自分の気持ちを偽りたくない。
 鏡心花の視線が少しだけ動いた気がした。それでも、やはりその瞳に私は映らない。

「私には、天王寺 珀磨を傷つけることが出来ません」
 
 鏡心花は私に最後の機会をやるというように、わざともう一度聞き返した。

「志野、本気か?」
「はい」
「そうか、では捕えろ」

 鏡心花がそう口にした瞬間、部屋に数人の大男が入ってくる。そして、素早く私を殴り飛ばし、捕らえた。武器を取り出そうとした私は鏡心花の鋭い視線に気づき、一瞬だけ動きが止まった。それが命取りだった。
 思いきり殴られ、飛びそうになる意識の中で、最後に鏡心花の声が聞こえた気がした。

「我に役立たずは要らない」

 皮肉なことにそれが……私が初めて鏡心花の視界に入った瞬間だった。