それから、何度の夜を過ごしただろう。日々、刺客の訪れる珀磨さまの屋敷では休息の取れる夜など存在しなかった。毎夜のように珀磨さまの護衛に付き、刺客を打ち倒す。彼は今までこんな生活を一人で行なっていたのだろうか。
あの満月の夜のことも忘れられないまま、私たちは油断出来ない日々を送っていた。
「志野、今日はある頼みがある」
珀磨さまの表情はどこか固く、言葉に詰まっているような印象だった。
「今日、白榔国の刺客が多勢で来るという情報が入った。だから……」
私は銀榔国の人間。夜しか起きることの出来ない人間。私が昼の白榔国で珀磨さまを護衛するためには、珀磨さまの血を飲む必要がある。
言葉に詰まる珀磨さまと目を合わせ、私ははっきりと述べる。
「私はもう珀磨さまの協力者です。遠慮することは何もございません」
「……志野はそう言うやつだったな」
珀磨さまは安堵した表情で短刀を取り出し、自身の手首に向けて当たり前のように刃を向ける。
「何をなさっているのですか……!」
「何って……血を与えるには傷をつけるしかないだろう」
「手当の準備を済ませてから行うのが普通です。貴方はもう私の主。私の前で自分を傷つけるのを当たり前だと思わないで頂きたい」
私の述べた言葉を、珀磨さまはどこか噛み締めるように受け止めている。私は桶や手拭い、包帯など、想定出来る手当ての準備を素早く済ませていく。そんな準備の最中、珀磨さまの消え入りそうな呟きが聞こえた気がした。
「それでも、俺は志野の第二の主なんだろう?」
「それはっ……!」
私は何を言い返そうとしているのだろう。珀磨さまの言葉に間違いはない。元よりそんな契約だ。それでも、いま勝手に口が動いた。私は何かを言い返そうとした。
鏡心花はどうしているだろうか。きっと組織では、私は任務で命を落としたと思われているだろう。組織に替えは沢山あり、もう私のことは忘れられているかもしれない。それでも、今まで生きる意味だった組織や鏡心花を突然忘れることなど私には出来ないのだ。それほどまでにあの生活は私に根付いてしまっていた。
何も言い返せぬ私を見ても、珀磨さまはもう悲しそうな表情をなさらなかった。私が手当の準備を終えたことを確認すると、珀磨さまは刃でスーッと自身の手首に傷を付けた。
「もう、それくらいで良いのでは……!」
「もう少しだけ量がいる。我慢してくれ」
私は珀磨さまの腕が傷つけられることを心配して「それくらいで良い」と述べたのに、珀磨さまは「私がそれ以上自分の血を飲みたくない」のだと解釈した。彼はそれほどまでに自分を卑下することに慣れている。その事実が無性に悔しくて、私は珀磨さまの手首を掴み、そっと彼の血を口に入れた。
「志野……!」
「珀磨さまの血は汚くなどありません」
「っ! どうしてお前はそうやって……!」
常に命を狙われ、休息を取る時間もなく、一人で身を守ってきたのだろう。そして、欲せられるのは血のみで、人々は簡単に彼を奇跡のように扱う。特別と言い、線を引き、羨望と恐怖が混ざった視線を彼に向ける。そんな人間から身を守るために、彼はずっと嘘の微笑みを作らねばならなかった。そんな苦しみなど、私には想像出来ない。
珀磨さまの血を飲んでも、体に大きな変化は感じない。これで私が日が昇る白榔国で生きられるようになるなど想像も出来なかった。
「志野、身体はおかしくないか」
そう問いかけた珀磨さまの表情には、まだ不安や恐れが滲んでいた。
「大丈夫です」
「良かった。今まで拒絶反応を示した者はいなかったが、心配していたんだ」
彼の表情が安堵に変わったことに嬉しさを覚えつつ、今までも誰かに血を捧げて来たのかと頭に不安がよぎった。
「今までも、どなたかに血をあげたことがあるのですか……?」
そう問いかけた瞬間に、「しまった」と思った。珀磨さまに不用意に踏み込んでは機嫌を損ねさせてしまう。しかし、珀磨さまはもう踏み込まれることに嫌な顔はしなかった。しかし、淡々と、まるで必要事項を伝達するように告げる。
「これほど刺客を送り込まれているんだ。一度も怪我をしない訳がないだろう」
喉の奥が痛い。まるで針でも刺さったようにズキズキと痛む。少しでも彼の苦しみを解りたいと願ってしまう。
「志野だって、あんな仕事ばかりしていて傷がない訳ではないだろう?」
確かに私の身体は傷だらけで、とても見れたものではない。自分が傷つくことには慣れたいるはずなのに、どうして私の心はこんなにも痛むのだろう。
窓の外が明るくなり始めている。薄っすらと光を感じるのに、眠たくならない。そんな感覚を味わうのは初めてだった。
「志野、朝が来るよ」
日が昇る。
初めて見る朝日は、まさに蝋燭の火のように熱く燃え上がり、その眩しさは月光とは比べ物にならない。それは、銀榔国が白榔国に変わる瞬間だった。
「朝日は、綺麗だろう?」
「はい……こんなに綺麗なものは初めて見ました」
まるで夢を見ているようだ。それほどまでに目の前に広がる世界は幻想的だった。
薄暗い夜にしか見ることの出来なかった町並みが、色とりどりに鮮明に輝いている。いつもと同じ場所を見ているとは、到底思えなかった。
「珀磨さま、ありがとうございます。貴方のお陰で、私は朝日を見ることで出来ました」
その瞬間。珀磨さまの表情が一気に変わり、今にもどこか泣きそうな顔に変わる。
珀磨さまのそんな弱々しい表情は初めて見た。彼は今まで一人で自分の身を守って来たお方、特別な人間で圧倒的強さを秘めているお方。それでも、いま私の目の前にいる珀磨さまは、まるで少年のようにも見える。
「俺のお陰、か……?」
「珀磨さま?」
「いや、そんなことを言われたのは初めてだ」
私は珀磨さまから目を逸らさず、声に自信を込めて述べた。
「珀磨さまのお陰で、私はこの美しい景色が見られたのです。この景色が見られたこと、志野は誇りに思います」
珀磨さまは何を思ったのだろう。私の言葉をどう感じて下さったのであろう。珀磨さまが揺らいだ瞳で私を見つめ、そっと私の頬に手を伸ばした。
しかし、珀磨さまの手が私の顔に触れる直前に、バタンッと大きな音が部屋中に響く。音と同時に、十人余りの刺客が一気に部屋に押し入った。
「志野、刺客だ」
「はい……!」
戦いが身体に染み付いている私と珀磨さまは無意識に武器に手を伸ばしていた。珀磨さまは右手に刀を、私は両手に短刀を持ち、刺客に応戦する。先ほどまでの静かで優しい時間とは、真逆の血生臭く騒がしい時間。ガシャンガシャンと刀同士がぶつかる音が、屋敷中に鳴り響いている。
珀磨さまと背中合わせのような体制で刺客を打ち倒していくが、相手の人数が多く、刺客を打ち負かせる状況まで持ち込めない。このままでは持久戦になり、人数的に不利な私たちが負けることは間違い無いだろう。どうにかしてこの状況を打開しなければ。せめて敵を少人数に分けて応戦出来るような状況を作り出さなければ、と思考を巡らす。
「珀磨さま! 一度この部屋から逃げて下さい!」
そうすれば、敵は珀磨さまを追いかけようとする。しかし、私の力量ならば四人はこの部屋で足止め出来るだろう。私が四人打ち倒す間、珀磨さまには逃げに徹してもらう。その方法しかなかった。
本来、護衛である私が珀磨さまの元を離れるなど考えられない。しかし、このまま持久戦に持ち込まれるくらいなら、現状を大きく変える一手を打った方がまだ勝算がある。私のそんな考えを、珀磨さまはすぐに理解したらしい。
「志野、生き残れ」
「……珀磨さまこそ、絶対に生きて下さい」
珀磨さまが部屋を飛び出す。刺客はすぐに珀磨さまを追いかけようとしたが、私が間に入る。私の予想通り、四人の足止めをすることが出来た。状況が最悪なのは変わらないかもしれない。それでも、ここで負けてなどいられない。また珀磨さまと朝日に照らされる町が見たい。そんな感情で、私は短刃を振り翳す。
感情論など、今まで信じたことはなかった。そんなものに価値はなく、全ては実力で決まると思っていた。しかし、いま私に原動力を与えているのは、間違いなく珀磨さまとの出会いなのだ。
気づけば、刺客は一人、また一人と倒れていく。しかし残り一人になった時、体力の限界を迎えていた私は、右足を刃で傷つけられた。どれほど深い傷か確認する暇もなく、痛みを感じる前に最後の一人を打ち倒す。
「はぁ……! はっ……!」
荒れた呼吸のまま、右足には鋭い痛みだけが走っている。それでも、ここで止まる訳にはいかない。
私は右足を引きずるように屋敷を走り、珀磨さまの元に追いつく。珀磨さまは、廊下の奥に追い詰められていた。珀磨さまの息が切れ、肩が大きく揺れているのが見える。
私はすぐさま参戦し、珀磨さまと向かい合っている刺客を後ろから一人倒した。
「志野っ! 無事だったか!」
こんな時でも、自身の体ではなく、私の身の心配をなさる珀磨さまに心が震えた。
それでも、私の身体も限界を迎えていて、残る敵を倒せるかは怪しい。何より右足が思うように動いてくれない。この右足さえ、思うように動いてくれれば……! そう強く願った時、私の中である考えが浮かんだ。
「珀磨さまっ! どうか私をお操り下さい!」
「志野、何を言っている!」
「私の右足はもう限界です。どうか珀磨さまの異能で私をっ……!」
「無理やりそんなことをすれば、志野の右足も無事では済まない! 何より、俺では志野を操ることは……!」
きっと珀磨さまの頭には、私と出会った日の記憶が流れているのであろう。あの日、私は珀磨さまに操られなかった。珀磨さまは私を操ることが出来なかった。
でも、今は違うとはっきり言うことが出来る。
「珀磨さまなら、今の私を操ることが出来ます。絶対に」
もう私は、珀磨さまを信頼している。嫌悪感など抱いていない。
もう私は、珀磨さまに好意を抱いている。
珀磨さまの瞳は揺らいでいた。私の右足を操り、傷が酷くなることすら心配して下さっているのだろう。それでも……
「珀磨さま、どうか私を信じて下さい。私はもう、貴方になら操られても良い」
その言葉に口にすると同時、私の右足は軽くなった。珀磨さまが私の右足を操ってくれている。
今まで私の戦い方を見てきた珀磨さまの操り方は、まるで私の右足の傷が治ったのかと錯覚するほど、私の動きに合わせられていた。右足が動くようになった私は、珀磨さまと共に残りの敵を倒していく。先ほどまでの苦戦がまるで嘘のように、敵はあっという間に全て倒れた。
すぐに珀磨さまが私の元へ駆け寄る。
「志野! 足は大丈夫か!」
「自身の体より、先に雇い人の心配をする主がいますか……!」
「常識などどうでも良い! それより大丈夫なのか!」
珀磨さまがその場にしゃがみ込み、私の右足を見て、顔を歪めた。
「酷い傷じゃないか。今、立っていられるのがおかしいくらいだ」
「では、珀磨さまが部屋まで私の右足を操って下さいませ」
「志野を操ることなど、もうしなくはないっ!」
そう叫んだ珀磨さまの剣幕に圧倒される。しかし、すぐに珀磨さまの表情は弱々しく、私を心配する表情に変わった。
「志野、持つぞ」
珀磨さまがヒョイっと私の体を持ち上げて、腕で包むように、私を優しく抱き抱えた。
「珀磨さまっ……! 自分で歩けますっ」
「うるさい、無茶をする志野の言うことなど聞かない」
そのまま珀磨さまの自室に運ばれた私は、珀磨さまに促されるまま、手当てを受ける。真剣な表情で私の右足の手当てをする珀磨さまをついじっと見つめてしまう。珀磨さまから目が離せない。
今は夜ではないし、銀榔国ではない。薄暗さなど存在しない白榔国では、珀磨さまの表情がよく見える。珀磨さまの端正な顔立ちから、艶のある黒髪、全てがよく見えた。
「珀磨さま。白榔国とは、とても良いものですね」
「白榔国の者は月に想いを馳せ、銀榔国の者は陽に想いを馳せる」
「え……?」
「古くからある言葉だ。皆、無いものねだりと言うことだろう」
そんな言葉を言い放つ珀磨さまは、言葉に似合わず、私の右足を割れものを扱うかのように丁寧に手当てしている。
「私は無いものねだりなのでしょうか。ずっと白榔国の者が羨ましかった。明るい陽の元で、数多なる仕事から好きな生業を選べる。私は命をかける仕事しか選べなかったのに……」
何故か、珀磨さまにはそんな弱音すら吐いてしまえる。
「志野、それは普通のことだ。ただ月には月の良さがあるんだよ」
珀磨さまがそう言うと、袴の懐から煌めく簪を取り出す。そして、そっと私の髪につけて下さる。
髪飾りには満月が描かれ、その周りには沢山の星が舞っている。
「ほら、よく似合う」
いま私の近くに鏡台はない。いま私の姿は珀磨さまにどう映っているのだろう。
「頂いてもよろしいのですか?」
「志野に買ってきたのだから当然だろう」
生まれてきて初めての贈り物だった。心がまるで蝶のように舞ってしまうそうだ。それほどまでに私は嬉しくて堪らなかった。
「ありがとうございます、珀磨さま。とても嬉しいです」
「そうか」
短かな返事。それでも珀磨さまの表情を見れば、珀磨さまも喜んでいるのが分かった。
珀磨さまは、こんなにも優しく繊細で、綺麗なお方。このお方を守れることを誇りに思おう。貴方の隣ならば、月すらも、夜すらも、より輝いて見える。
私は、そっと頭にある簪を撫でるように大切に握りしめた。
あの満月の夜のことも忘れられないまま、私たちは油断出来ない日々を送っていた。
「志野、今日はある頼みがある」
珀磨さまの表情はどこか固く、言葉に詰まっているような印象だった。
「今日、白榔国の刺客が多勢で来るという情報が入った。だから……」
私は銀榔国の人間。夜しか起きることの出来ない人間。私が昼の白榔国で珀磨さまを護衛するためには、珀磨さまの血を飲む必要がある。
言葉に詰まる珀磨さまと目を合わせ、私ははっきりと述べる。
「私はもう珀磨さまの協力者です。遠慮することは何もございません」
「……志野はそう言うやつだったな」
珀磨さまは安堵した表情で短刀を取り出し、自身の手首に向けて当たり前のように刃を向ける。
「何をなさっているのですか……!」
「何って……血を与えるには傷をつけるしかないだろう」
「手当の準備を済ませてから行うのが普通です。貴方はもう私の主。私の前で自分を傷つけるのを当たり前だと思わないで頂きたい」
私の述べた言葉を、珀磨さまはどこか噛み締めるように受け止めている。私は桶や手拭い、包帯など、想定出来る手当ての準備を素早く済ませていく。そんな準備の最中、珀磨さまの消え入りそうな呟きが聞こえた気がした。
「それでも、俺は志野の第二の主なんだろう?」
「それはっ……!」
私は何を言い返そうとしているのだろう。珀磨さまの言葉に間違いはない。元よりそんな契約だ。それでも、いま勝手に口が動いた。私は何かを言い返そうとした。
鏡心花はどうしているだろうか。きっと組織では、私は任務で命を落としたと思われているだろう。組織に替えは沢山あり、もう私のことは忘れられているかもしれない。それでも、今まで生きる意味だった組織や鏡心花を突然忘れることなど私には出来ないのだ。それほどまでにあの生活は私に根付いてしまっていた。
何も言い返せぬ私を見ても、珀磨さまはもう悲しそうな表情をなさらなかった。私が手当の準備を終えたことを確認すると、珀磨さまは刃でスーッと自身の手首に傷を付けた。
「もう、それくらいで良いのでは……!」
「もう少しだけ量がいる。我慢してくれ」
私は珀磨さまの腕が傷つけられることを心配して「それくらいで良い」と述べたのに、珀磨さまは「私がそれ以上自分の血を飲みたくない」のだと解釈した。彼はそれほどまでに自分を卑下することに慣れている。その事実が無性に悔しくて、私は珀磨さまの手首を掴み、そっと彼の血を口に入れた。
「志野……!」
「珀磨さまの血は汚くなどありません」
「っ! どうしてお前はそうやって……!」
常に命を狙われ、休息を取る時間もなく、一人で身を守ってきたのだろう。そして、欲せられるのは血のみで、人々は簡単に彼を奇跡のように扱う。特別と言い、線を引き、羨望と恐怖が混ざった視線を彼に向ける。そんな人間から身を守るために、彼はずっと嘘の微笑みを作らねばならなかった。そんな苦しみなど、私には想像出来ない。
珀磨さまの血を飲んでも、体に大きな変化は感じない。これで私が日が昇る白榔国で生きられるようになるなど想像も出来なかった。
「志野、身体はおかしくないか」
そう問いかけた珀磨さまの表情には、まだ不安や恐れが滲んでいた。
「大丈夫です」
「良かった。今まで拒絶反応を示した者はいなかったが、心配していたんだ」
彼の表情が安堵に変わったことに嬉しさを覚えつつ、今までも誰かに血を捧げて来たのかと頭に不安がよぎった。
「今までも、どなたかに血をあげたことがあるのですか……?」
そう問いかけた瞬間に、「しまった」と思った。珀磨さまに不用意に踏み込んでは機嫌を損ねさせてしまう。しかし、珀磨さまはもう踏み込まれることに嫌な顔はしなかった。しかし、淡々と、まるで必要事項を伝達するように告げる。
「これほど刺客を送り込まれているんだ。一度も怪我をしない訳がないだろう」
喉の奥が痛い。まるで針でも刺さったようにズキズキと痛む。少しでも彼の苦しみを解りたいと願ってしまう。
「志野だって、あんな仕事ばかりしていて傷がない訳ではないだろう?」
確かに私の身体は傷だらけで、とても見れたものではない。自分が傷つくことには慣れたいるはずなのに、どうして私の心はこんなにも痛むのだろう。
窓の外が明るくなり始めている。薄っすらと光を感じるのに、眠たくならない。そんな感覚を味わうのは初めてだった。
「志野、朝が来るよ」
日が昇る。
初めて見る朝日は、まさに蝋燭の火のように熱く燃え上がり、その眩しさは月光とは比べ物にならない。それは、銀榔国が白榔国に変わる瞬間だった。
「朝日は、綺麗だろう?」
「はい……こんなに綺麗なものは初めて見ました」
まるで夢を見ているようだ。それほどまでに目の前に広がる世界は幻想的だった。
薄暗い夜にしか見ることの出来なかった町並みが、色とりどりに鮮明に輝いている。いつもと同じ場所を見ているとは、到底思えなかった。
「珀磨さま、ありがとうございます。貴方のお陰で、私は朝日を見ることで出来ました」
その瞬間。珀磨さまの表情が一気に変わり、今にもどこか泣きそうな顔に変わる。
珀磨さまのそんな弱々しい表情は初めて見た。彼は今まで一人で自分の身を守って来たお方、特別な人間で圧倒的強さを秘めているお方。それでも、いま私の目の前にいる珀磨さまは、まるで少年のようにも見える。
「俺のお陰、か……?」
「珀磨さま?」
「いや、そんなことを言われたのは初めてだ」
私は珀磨さまから目を逸らさず、声に自信を込めて述べた。
「珀磨さまのお陰で、私はこの美しい景色が見られたのです。この景色が見られたこと、志野は誇りに思います」
珀磨さまは何を思ったのだろう。私の言葉をどう感じて下さったのであろう。珀磨さまが揺らいだ瞳で私を見つめ、そっと私の頬に手を伸ばした。
しかし、珀磨さまの手が私の顔に触れる直前に、バタンッと大きな音が部屋中に響く。音と同時に、十人余りの刺客が一気に部屋に押し入った。
「志野、刺客だ」
「はい……!」
戦いが身体に染み付いている私と珀磨さまは無意識に武器に手を伸ばしていた。珀磨さまは右手に刀を、私は両手に短刀を持ち、刺客に応戦する。先ほどまでの静かで優しい時間とは、真逆の血生臭く騒がしい時間。ガシャンガシャンと刀同士がぶつかる音が、屋敷中に鳴り響いている。
珀磨さまと背中合わせのような体制で刺客を打ち倒していくが、相手の人数が多く、刺客を打ち負かせる状況まで持ち込めない。このままでは持久戦になり、人数的に不利な私たちが負けることは間違い無いだろう。どうにかしてこの状況を打開しなければ。せめて敵を少人数に分けて応戦出来るような状況を作り出さなければ、と思考を巡らす。
「珀磨さま! 一度この部屋から逃げて下さい!」
そうすれば、敵は珀磨さまを追いかけようとする。しかし、私の力量ならば四人はこの部屋で足止め出来るだろう。私が四人打ち倒す間、珀磨さまには逃げに徹してもらう。その方法しかなかった。
本来、護衛である私が珀磨さまの元を離れるなど考えられない。しかし、このまま持久戦に持ち込まれるくらいなら、現状を大きく変える一手を打った方がまだ勝算がある。私のそんな考えを、珀磨さまはすぐに理解したらしい。
「志野、生き残れ」
「……珀磨さまこそ、絶対に生きて下さい」
珀磨さまが部屋を飛び出す。刺客はすぐに珀磨さまを追いかけようとしたが、私が間に入る。私の予想通り、四人の足止めをすることが出来た。状況が最悪なのは変わらないかもしれない。それでも、ここで負けてなどいられない。また珀磨さまと朝日に照らされる町が見たい。そんな感情で、私は短刃を振り翳す。
感情論など、今まで信じたことはなかった。そんなものに価値はなく、全ては実力で決まると思っていた。しかし、いま私に原動力を与えているのは、間違いなく珀磨さまとの出会いなのだ。
気づけば、刺客は一人、また一人と倒れていく。しかし残り一人になった時、体力の限界を迎えていた私は、右足を刃で傷つけられた。どれほど深い傷か確認する暇もなく、痛みを感じる前に最後の一人を打ち倒す。
「はぁ……! はっ……!」
荒れた呼吸のまま、右足には鋭い痛みだけが走っている。それでも、ここで止まる訳にはいかない。
私は右足を引きずるように屋敷を走り、珀磨さまの元に追いつく。珀磨さまは、廊下の奥に追い詰められていた。珀磨さまの息が切れ、肩が大きく揺れているのが見える。
私はすぐさま参戦し、珀磨さまと向かい合っている刺客を後ろから一人倒した。
「志野っ! 無事だったか!」
こんな時でも、自身の体ではなく、私の身の心配をなさる珀磨さまに心が震えた。
それでも、私の身体も限界を迎えていて、残る敵を倒せるかは怪しい。何より右足が思うように動いてくれない。この右足さえ、思うように動いてくれれば……! そう強く願った時、私の中である考えが浮かんだ。
「珀磨さまっ! どうか私をお操り下さい!」
「志野、何を言っている!」
「私の右足はもう限界です。どうか珀磨さまの異能で私をっ……!」
「無理やりそんなことをすれば、志野の右足も無事では済まない! 何より、俺では志野を操ることは……!」
きっと珀磨さまの頭には、私と出会った日の記憶が流れているのであろう。あの日、私は珀磨さまに操られなかった。珀磨さまは私を操ることが出来なかった。
でも、今は違うとはっきり言うことが出来る。
「珀磨さまなら、今の私を操ることが出来ます。絶対に」
もう私は、珀磨さまを信頼している。嫌悪感など抱いていない。
もう私は、珀磨さまに好意を抱いている。
珀磨さまの瞳は揺らいでいた。私の右足を操り、傷が酷くなることすら心配して下さっているのだろう。それでも……
「珀磨さま、どうか私を信じて下さい。私はもう、貴方になら操られても良い」
その言葉に口にすると同時、私の右足は軽くなった。珀磨さまが私の右足を操ってくれている。
今まで私の戦い方を見てきた珀磨さまの操り方は、まるで私の右足の傷が治ったのかと錯覚するほど、私の動きに合わせられていた。右足が動くようになった私は、珀磨さまと共に残りの敵を倒していく。先ほどまでの苦戦がまるで嘘のように、敵はあっという間に全て倒れた。
すぐに珀磨さまが私の元へ駆け寄る。
「志野! 足は大丈夫か!」
「自身の体より、先に雇い人の心配をする主がいますか……!」
「常識などどうでも良い! それより大丈夫なのか!」
珀磨さまがその場にしゃがみ込み、私の右足を見て、顔を歪めた。
「酷い傷じゃないか。今、立っていられるのがおかしいくらいだ」
「では、珀磨さまが部屋まで私の右足を操って下さいませ」
「志野を操ることなど、もうしなくはないっ!」
そう叫んだ珀磨さまの剣幕に圧倒される。しかし、すぐに珀磨さまの表情は弱々しく、私を心配する表情に変わった。
「志野、持つぞ」
珀磨さまがヒョイっと私の体を持ち上げて、腕で包むように、私を優しく抱き抱えた。
「珀磨さまっ……! 自分で歩けますっ」
「うるさい、無茶をする志野の言うことなど聞かない」
そのまま珀磨さまの自室に運ばれた私は、珀磨さまに促されるまま、手当てを受ける。真剣な表情で私の右足の手当てをする珀磨さまをついじっと見つめてしまう。珀磨さまから目が離せない。
今は夜ではないし、銀榔国ではない。薄暗さなど存在しない白榔国では、珀磨さまの表情がよく見える。珀磨さまの端正な顔立ちから、艶のある黒髪、全てがよく見えた。
「珀磨さま。白榔国とは、とても良いものですね」
「白榔国の者は月に想いを馳せ、銀榔国の者は陽に想いを馳せる」
「え……?」
「古くからある言葉だ。皆、無いものねだりと言うことだろう」
そんな言葉を言い放つ珀磨さまは、言葉に似合わず、私の右足を割れものを扱うかのように丁寧に手当てしている。
「私は無いものねだりなのでしょうか。ずっと白榔国の者が羨ましかった。明るい陽の元で、数多なる仕事から好きな生業を選べる。私は命をかける仕事しか選べなかったのに……」
何故か、珀磨さまにはそんな弱音すら吐いてしまえる。
「志野、それは普通のことだ。ただ月には月の良さがあるんだよ」
珀磨さまがそう言うと、袴の懐から煌めく簪を取り出す。そして、そっと私の髪につけて下さる。
髪飾りには満月が描かれ、その周りには沢山の星が舞っている。
「ほら、よく似合う」
いま私の近くに鏡台はない。いま私の姿は珀磨さまにどう映っているのだろう。
「頂いてもよろしいのですか?」
「志野に買ってきたのだから当然だろう」
生まれてきて初めての贈り物だった。心がまるで蝶のように舞ってしまうそうだ。それほどまでに私は嬉しくて堪らなかった。
「ありがとうございます、珀磨さま。とても嬉しいです」
「そうか」
短かな返事。それでも珀磨さまの表情を見れば、珀磨さまも喜んでいるのが分かった。
珀磨さまは、こんなにも優しく繊細で、綺麗なお方。このお方を守れることを誇りに思おう。貴方の隣ならば、月すらも、夜すらも、より輝いて見える。
私は、そっと頭にある簪を撫でるように大切に握りしめた。



