灯の守り人【番外編ss】


 
 零司さんが昼も夜も関係ない葬儀屋の仕事を本格的に始めてから一年程が経った。
 僕は大学に入ってから単位をひとつも落とすことなく進級を重ね、今は三回生。
 レポート地獄は抜け出したものの、今は期末試験と来年度に行われる仮免試験の先取りで勉強する時間は幾らあっても足りないと感じるくらい。
 この日はまるで秋と冬の境目をハッキリと示すよう、昼と夜の気温差が大きかった。
 佐伯さんは夜勤、零司さんも遅番とのことで、その夜僕は一人でリビングの広いローテーブルに参考書とノートを散らかしていた。
 自室にと充てがわれている部屋に勉強机はなく、あるのは卓袱台ひとつ。
 リビングのローテーブルの方が資料を広げられて効率が良くて、一人の夜はリビングで勉強することにしているのだ。
 ……というのは、建前で。本音は誰か帰って来た時にすぐに反応出来るから、なのだけれども。
 深夜零時を回っても家の中には僕がペンを走らせる音しか響かない。
 佐伯さんは通勤に電車を使うけれども、零司さんは基本的にバイクを走らせているから、余計に勤務時間にバラつきがある。
 電車の時間を気にしなくても良い、というのは社会人にとってどうやら『悪』らしい。
 とは云え、零司さんはそれに文句を云うどころか、
「そういう、フッ軽な奴が一人くらい居ると便利だろ」
 なんて笑っているのだけれど。
 零司さんのそれは虚勢とか意地だとかそういうものではない。
 ただただ純粋にそう思っている。
 普段僕が自分の生活を疎かにするとすぐに怒る癖に、そうやって自分を使い勝手の良い駒みたいに扱うところは少し気に食わない。
 他人の自己犠牲には厳しい癖に、自分の自己犠牲にはてんで無頓着というか——いっそ無自覚ですらあるのは一体何なのだろうかと思う。
 深夜一時半。マーカーペンのインクが掠れるようになってきたところで、ガチャン、と玄関の鍵が回る音。
 ガサゴソ、ゴン……と鈍い音をひとつ立ててから、ふらりとリビングに顔を覗かせたのは零司さんだった。
「お帰りなさい」
「……ん、あぁ」
 ただいま、の声はいつもより小さい。
 スーツのジャケットを脱ぎ、手洗いうがいをキッチンで済ませた零司さんは流れるような動作で戸棚から出したステンレスグラスに琥珀色を注ぐ。
 僕は僕で、ローテーブルに広げ散らかしたノートや資料を纏め出す。
 マーカーのインク切れは勉強を終わらせるタイミングとして丁度良い。
「まだ起きてたんだな」
 気付けば零司さんはタンブラーを片手に僕のすぐ斜め後ろにあるソファに腰を落としていた。
「はい、試験前のアレコレで」
「あー……そーいやそんな時期だっけか」
 一瞬懐古するように目を細めてから、零司さんはぐいとネクタイの結び目を緩めた。
「零司さん、今日も時間『外』労働ですか?」
「……ちゃんと時間『内』労働だ」
 その台詞の正確性を知る術を僕は持たない。
 タンブラーが傾き、喉が上下する音。喉仏の昇降運動につい目を奪われた。
「……何だよ、燈。そんなまじまじ見て」
「え、あ……何でもないです」
 ふるふると首を振ってローテーブルの片付けに意識を戻す。
 勉強道具を一ヶ所に纏めて首だけで振り返る。
「……隣、座っても良いですか?」
 恐る恐る、とまではいかないが、控えめにそう問えば、何を今更といった風に眉根を寄せられる。
「あ? 勝手にしろよ」
「はい、勝手にします」
 自分はアルコールではなくミルクティーの残りが入ったマグカップを手に、ほんの数秒の動作で零司さんの隣に落ち着く。
 受験生時代から、こうして時折ソファに並んで座ることがあった。
 何を喋るでもなく、ただ何となく隣に座って各々好きな飲み物を喉に流すだけの時間。
 その時間はお互い所作がのんびりするものなのだけれども、今夜は少し違った。
「……零司さん、ペース早くないですか?」
 グラスを傾ける角度や頻度が普段と違う気がして、思わず背を丸めて下から零司さんの顔を覗き上げる。
「そんなことねーよ」
 反射的に返ってきた声は少し角が丸い。
「今月、零司さんずっと変則勤務じゃないですか」
「んなことねーよ」
「でも、労働時間長くないですか?」
「長い時はその分貰うもん貰ってる」
 そういう問題じゃない、と僕は肩を落としながら丸めた背を伸ばしてソファの背もたれにくっ付けた。
 両手で包んだカップを唇に当てながら横目に見る顔は穏やか、とは云い切れない。
 目尻を彩る赤みはまるで疲労の色を隠そうとしているみたいだ。
「零司さん、やっぱり今日飲むペース早いと思います……」
「うるせーな」
「でも、明日もお休みじゃないんでしょう? 程々にしておいた方が……」
「うるせぇ、つってんだろ」
 響く低音はしかし苛立ちを孕んではおらず。
「もう今日はお酒おしまいです」
 グラスを取り上げようとしたら、先に手首を掴まれる。
 もう、と反論を紡ぐより早く一瞬塞がれた唇。
 甘苦い熱の感触に、僕は瞬きを忘れた。
「やっと黙ったな」
 ふふ、と意地悪く揺れた声に、やっと上下の睫毛を一度絡ませる。
「……零司さん、もの凄く酔ってますね?」
「よってない」
 酔っ払いの「よってない」程信用のない言葉はない。
「もう本当にお酒終わりです」
 彼の手からタンブラーを取り上げ、確かめた残量は僅か。
 いや、それよりも問題なのは、鼻腔の奥に絡む酒精の強さだ。
「ぅわ、これもしかして水で薄めてなくないですか?」
 グラスだったら色の薄まり方で判別出来るものの、今夜零司さんが使っていたのはステンレスの背が高いタンブラーだったから、今の今までアルコールの濃さまでは認識出来ていなかった。
 それと元々どれくらい注がれていたのかも。
「幾ら普段お酒に弱くないって云っても、体調次第でアルコールの回り方は変わるでしょうに……」
 確かに零司さんはお酒に弱くはないと記憶している。それでもウイスキーなら普段は水か炭酸で割って飲んでいるし、ロックならちゃんとロックグラスで飲んでいるところしか見たことがない。
 疲れている身体に短時間で原液のウイスキーを流し込めば、そりゃあすぐに回るだろうし変な酔い方もするだろう。
 まったくもう……、と。
 普段とは逆転した世話焼きの立場。
 タンブラーを遠ざける手に抵抗はされなかったから、自分のマグカップと一緒にそれらをローテーブルに置く。
「燈……」
 抵抗されなかった、その代わりとばかりに、一時的な熱を持った額が首筋に押し当てられて心臓がひとつ大きく跳ねた。
 声が上擦らないよう、発声前に深く息を吸う。
「……零司さん、寝るなら自分の部屋に行ってください……」
「…………むり」
 返ってきたのは低く掠れた、ほんの少しだけ甘い声。
「僕、力ないんで零司さんのこと部屋まで引っ張って行けませんけど」
「…………いい」
 いい、じゃない。
 くぐもった、熱い吐息に首筋をくすぐられるこちらは堪ったものではない。
「……零司さん」
「…………おれ、は」
「……?」
「まんなかに、いすわるつもりはない……」
「はい……?」
「おれは……はしっこにいれんなら、それだけで——」
 その先の言葉はすぅと小さな寝息に溶けて消えてしまった。
「なんなんですか……」
 
 端っこに居られるなら、だなんて——
 
「零司さんは、そーゆー欲張らない優し過ぎるところが……悪いところだと思います……」
 
 喩えば僕の片隅にあなたが居たとしよう。
 でもあなたはその片隅の真ん中で腕を組んで不敵な笑みを湛えながら立っているのだ。
 実際は、片隅どころか真ん中も真ん中の……僕の世界の中心にあなたは居るのだけれど。
 自分のことには鈍化しがちなあなたは気付いていないでしょうけれど。
 
 多分、零司さんは今夜唇に触れた体温を覚えてはいないだろう。
 別にそれでも良い。
 寧ろ、その方が良い。
 僕だけが忘れることのない、刹那の甘苦い触れ合い。
 それは僕の中にだけ残る、二人だけの秘密。
 秘密は知る人が少なければ少ない程甘くなることを教えてくれたのは、他でもない零司さんなのだから。

「明日、二日酔いで苦しんでも知りませんからね……」
 首筋に微かな寝息を感じながら。
 僕も自室に戻ることを諦めた。