呪われた軍神は「無能」と呼ばれた身代わり花嫁を離さない

 それから数日後。堂徳寺家を覆っていた長年の呪いが完全に消え去ったという事実は、瞬く間に帝都中へと広まった。正確には、「人類最強と謳われた当主を(むしば)んでいた呪いを、たった一人の女が解いた」という噂が、尾ひれをつけながら独り歩きを始めたのだ。

 屋敷のほうにも、目に見える変化が訪れていた。
 どんよりと停滞していた空気は、窓を開け放ったかのように清々しく澄み渡っている。侍従たちの表情も明るく、廊下には自然と笑みがこぼれる声が増えた。そして何より、狂犬と恐れられた煌仁が、凛々しさはそのままに穏やかに笑うようになった。
 理由は、誰の目にも明らかだった。
 純白の蝶が舞い降りた庭。還零の力を宿す女神のような少女。そして、その力によって命を救われ、彼女を妻として選んだ堂徳寺家当主。人々は、敬意とともにその名を囁いた。
 梢様──と。
 もはやそれは、単なる妻の呼び名ではなかった。
 
 最初は梢も戸惑うばかりだった。廊下ですれ違うたびに護衛たちが一斉に跪き、侍従たちは拝むように頭を下げる。だが、彼らの瞳にあるのは、かつて実家で向けられていた蔑みではない。堂徳寺家という「呪われた家」を救ってくれた彼女への、心からの感謝と忠誠だった。

 そんな平穏な日々を破るように、その知らせは届く。
 実家──宝条家が、「あれは手違いだ」「本来は下の娘を嫁がせるはずだった」と主張し、屋敷の門前に現れたのだ。

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 ──嘘よ……。そんなの、絶対に何かの間違いだわ……!

 沙那恵は鏡の前で眉をきつく寄せ、忌々しげに唇を噛んだ。
 その数日、帝都は堂徳寺家で起きた「奇跡」の噂でもちきりだった。呪いが消えただの、最強の当主が復活しただの──そして何より、それを成し遂げたのがあの「無能の梢」だということ。
 あの出来損ないの姉に、そんな力があるはずない。堂徳寺家が体面を保つために、梢の手柄にしたに決まっている。

 ──でも、もし本当に梢がやったのだとしたら……。

 沙那恵は、白く柔らかな自信の手のひらを見つめた。
 自分の異能は『増幅』。触れた者の力を何倍にも高めるその力は、どんな異能者からも「至宝の妻」として望まれるはずのものだ。呪われていた煌仁には浄化が必要だったかもしれないが、呪いが消えた今の彼にこそ、自分の『増幅』が必要なはず。

「……そうよ」

 鏡に映る彼女の唇はゆっくりと弧を描き、歪んだ笑みを映しだす。人類最強の異能者、堂徳寺煌仁──その隣に立つのにふさわしいのは出来損ないの姉ではなく、自分であるべきなのだ。

 ──あいつの役目は、あの男を癒やすまでの『繋ぎ』だったのよ。

 自分が行けば、煌仁は必ずこの美貌と異能に膝を折る。木の枝のように貧相な梢よりも、華があり艶もある自分こそ、真の妻にふさわしい。
 両親も、同じ考えだった。梢にまつわる噂など誇張に決まっていると一笑し、むしろ沙那恵を気の毒がった。出来損ないの姉のせいで、正しくあるべき縁談を奪われたのだ、と。
 本来、堂徳寺家への輿入れは、沙那恵が「嫌だ」と泣き喚いたから梢を身代わりに立てただけのもの。それを「手違いだった」と言い張れば、今からでも正妻の座をすり替えられると、この親子は本気で信じていたのだ。

 豪奢な馬車に乗り込み、沙那恵たちは堂徳寺の屋敷へと向かう。沙那恵は、揺れる車窓に映る自分の姿を見つめていた。最強の異能を持つ妻として迎えられる未来。出来損ないが、本来あるべき居場所に戻る結末──考えただけで、心も身体も甘く満たされていく。
 やがて馬車は、堂徳寺家の重厚な門の前で止まった。

 **

 重厚な応接間の扉を前にして、梢は思わず足を止めた。
 扉の向こうから、鋭く刺すような妹の気配が伝わってくる。かつての梢なら、その気配を感じただけで指先が凍りつき、身体が強張っていたかもしれない。
 だが、今は違う。

「怖いか?」

 隣に立つ煌仁が、梢のわずかな躊躇を察したように、大きな手のひらで彼女の手を包み込んだ。呪いが消えた彼の肌は驚くほど滑らかで、心を溶かすほどに温かい。

「いえ、大丈夫です。煌仁様が、いてくださいますから」

 梢が微笑むと煌仁は翡翠の瞳を細め、それから安堵したように一度頷いた。彼の手は離す気などないと言わんばかりに、より強く梢を包み込む。そして、彼自らの手で重厚な扉を押し開けた。
 部屋に入った瞬間、目に飛び込んできたのは、人形のように澄ました顔で座る沙那恵と、その両脇を固めるように居座る両親の姿だった。

「梢姉様、お久しゅうございます。すっかりお綺麗になられまして、妹としても鼻が高いですわ」

 二人が並んで入室したのを見るなり、沙那恵はにこりと張り付けたような笑みを浮かべて、可憐げに首を傾げた。
 鈴を転がすような声。だが、その微笑の裏に潜む毒を、誰よりも梢がよく知っている。甘さを装った悪意。幼い頃から幾度となく向けられてきたものだ。

「それで、『手違い』とは?」

 煌仁は用意された席へ座ることなく、立ったまま冷徹な声を放った。繋がれた梢の手を引き、自らの影に隠し守るように彼女の前に立つ。

「大変申し訳ございませんでした。わたくしたち、取り返しのつかない過ちを犯しておりましたの。煌仁様に輿入れするのは、姉様ではございませんでしたのよ」

 沙那恵はわざとらしく目を伏せ、悲劇の妹を演じるように胸元に手を当てた。

「どういう意味だ?」

 沙那恵はちらりと梢を見やり、わざとらしく息を落とす。
 
「姉様が、わたくしに代わって輿入れすると、無理やり……。ああ、なんて恐ろしい。当主様が呪いに苦しまれていると聞いて、自分が当主夫人の座に収まれば堂徳寺家を乗っ取れると考えたのでしょう」

 さらりと言ってのけた嘘。梢は驚きに目を見開いた。乗っ取るなど、ただの一度も浮かんだことはない。そもそも、最初は自分から望んでここに来たのではなかった。むしろ、死を望まれて追い出されたのだ。
 そのすべてを、さも自分が被害者であるかのように沙那恵は語っている。さめざめとした口調は、最初から存在していなかったものへと塗り替えていくようだった。
 沙那恵の虚言に両親は何のためらいもなく同調し、深く頭を下げていた。

「本来でしてら、姉様は煌仁様のような尊いお方に寄り添える器ではございません。今こそあるべき姿に戻すべきだと思い、こうして参上いたしました」

 あまりの衝撃に、梢は言葉を返すことさえできなかった。自分を追いやり、部外者のように扱ってきた人々が、今度は自分を「欲深い女狐」に仕立て上げている。あまりの理不尽さに、全身がふるりと粟立つ。煌仁と繋がれている指先には、自ずと力が入っていた。
 それに応えるよりも強く、彼の指が梢の手を握り返した。「大丈夫だ」と、安心させるための優しさだけではない。彼の内側に秘められた、煮え繰り返るような怒りを現すかのように熱く、力強い圧力だった。
 
「……なるほど。梢の代わりに、お前が妻になる、と?」

 低く抑えた煌仁の声に、沙那恵は待ってましたとばかりに顔を上げた。その表情には、疑念も戸惑いもない。自分がすべてを手に入れると信じて疑わないようだった。
 沙那恵は煌仁に向けて、これ以上ないほど甘く、熱を帯びた視線を送った。

「煌仁様。わたくしの異能は、触れた相手の力を『増幅』させるもの。わたくしなら、煌仁様を更なる高みへとお連れできますわ」

 沙那恵は煌仁と梢が繋いでいる手元をちらりと見やり、唇を歪める。

「さあ。その偽りの手を離して、わたくしをお選びになってください」

 沙那恵がうっとりとした瞳で手を差し出そうとした、そのとき。

「増幅、か」

 煌仁が冷酷に笑った。