庭を囲んでいた異様な気配もほどけ、澄み切った昼下がりの空気が庭に戻ってくる。張り詰めていた糸が切れたように梢がよろめくと、それよりも早く、逞しい腕が彼女を抱き寄せた。
「梢……! 無事か。どこか、傷はないか」
「はい……私は大丈夫です。でも、煌仁様……その、痣が……」
梢は恐る恐る手を伸ばし、彼の頬に触れる。先ほどまで赤黒く脈打っていた牡丹の痣は、今は沈み込むような色に落ち着いている。しかし、その範囲は以前より確実に広がっていた。
「これは……異能を使うほどに俺の命を削る呪い。この痣に全身が覆い尽くされたときが、俺の最期だ」
一拍置いて、煌仁は静かに続ける。
「隠していたわけではない。ただ……お前に話すようなことでもないと思っていた」
あまりにも淡々とした告白に、梢の胸が締めつけられる。人々に恐れられる英雄は、己の命を削ることさえ躊躇わなかった。任務に赴き、異能を振るい、あやかしを討ち続け──そして今、梢の盾となった。
ふと、先ほどの弥白の言葉が頭の中で反芻される。
《あの男もその事実に気づき、お前という『力』を利用したいだけなんじゃないか?》
自分の力は単なる治癒ではなく、すべてを無に還す力。もし煌仁が、その本質に気づいていたのだとしたら。利用するために、そばに置いているだけだとしたら。
もしそうだとしても、梢の心の内はすでに結論づいている。彼女は唇を噛み締め、意を決したように口を開いた。
「煌仁様……私の異能は、『還零の力』です」
煌仁は一瞬だけ目を伏せ、それから静かに頷いた。
「……そんな気がしていた。あらゆる異能や呪いを、無効化する力があると聞いたことがある。蝶が舞う異能だ、と」
事実を噛み砕くように彼は言葉を選んでいる。それから、力なく息を吐いた。
「お前の光は、あまりに清らかすぎた」
その言葉と一緒に、彼の頬に添えられていた梢の手が、そっと外される。拒むようでも振り払うようでもなかったが、確かに距離を取るような仕草だった。
行き場を失った梢と煌仁の手が、宙に取り残される。梢はこれ以上離れないようにと、彼の手のひらをぎゅっと握りしめた。
「私は……あなたになら、利用されてもかまいません」
煌仁の目が大きく見開かれる。梢は一度だけ息を吸い、その翡翠の瞳を見つめ返した。
彼女の胸は、彼から与えられてきたもので満たされていた。着物や甘味だけではない。自分の居場所に、人として扱われる、当たり前の日々。不器用で、けれどまっすぐなその優しさに、何度も救われてきた。孤独を知っている者同士、もし、彼が自分を必要としてくれるのなら──その理由が「力」だったとしても、梢に憎しみや後悔などはなかった。
「馬鹿を言うな。俺は……お前を利用したいなどと思ってはいない」
宙をさまよっていた彼の腕が、梢の身体を強く抱き寄せる。
「俺のそばにいて、俺の隣で笑っていてほしい。俺の妻としてだ」
「……はい」
梢も腕を背に回し、繋ぎ止めるように抱き返した。
その言葉に嘘がないことを、梢はもう知っている。彼が本当に梢を「道具」としてしか見ていなかったのなら、初夜の日に無理やりにでも蝶を舞わせ、呪いを解かせていたはずだ。それを今日までしなかったのは、煌仁が梢を「異能」ではなく、ひとりの人間として大切にしようとしてきた証だった。
「俺は、梢を俺と同じ『戦いの道具』にしたくなかった」
人類最強の異能者として、煌仁は己の命さえ使い潰してきた。そんな彼だからこそ、愛する女性にだけはその運命を背負わせたくなかったのだろう。あまりにも独りよがりで、向けられたことがない深い愛情。逞しくも儚い彼の姿を見つめる梢の瞳から、一粒の涙があふれた。
「私は、私の意志で煌仁様を救いたいんです。どうか……私もあたなのそばに立たせてください」
「梢……」
頬を伝う涙を煌仁がやさしく拭った。見つめ合う距離が、次第に近づいていく。その距離に目をつむり、息を詰めた、そのときだった。
「失礼いたします! 旦那様、ご無事ですか!?」
甘やかな沈黙を破るように、庭の入り口から数人の部下たちがなだれ込んできた。弥白が消えたことで、彼が展開していた結界が消失したのだろう。
駆けつけた侍従や護衛たちは、荒れた庭を狐に摘まれたような困惑した表情で見渡している。聞けば、彼らは、庭の一部だけが陽炎のように歪んで見える不可解な現象に阻まれていたらしい。
煌仁は梢を背後に隠すように、瞬時に彼女の前に立つ。凛と背筋を伸ばし髪をなびかせている雄々しい背中は、「堂徳寺家当主」の顔をしているようだった。
「騒がしいぞ。少し、野良狐が迷い込んできただけだ」
威厳のある声。駆けつけた部下たちは主人の頬にまで伸びた痣を見やり、息を呑んだ。だが、煌仁の放つ凄まじい威圧感に、それ以上踏み込めずにいるようだ。
「今日の残りの政務はすべて明日に回す。お前たちは、庭の片付けを頼む」
「は、はい! 承知いたしました」
「狐の呪術が残っているかもしれん。念のため、解呪師も呼んでおけ」
部下たちが一礼するのを確認すると、煌仁は梢の手を引き、屋敷の奥へと歩き出した。繋がれた手から伝わる彼の熱は、もはや火傷しそうなほどに高まっている。前を行く背中は、先ほどまでの雄々しさが嘘のように、危うく小刻みに震えていた。
彼が今、どれほど限界に近い状態で立っているのかが痛いほど伝わってきた。
部屋の襖が閉まった瞬間、煌仁は梢の手を離し、壁に背を預けてずるずると崩れ落ちた。
「っ、……はぁ、はっ……」
荒い呼吸とともに、頬の痣がどす黒い輝きを増していく。任務明けの状態で急激に異能を使った代償と、梢を案じるあまりに昂ぶた感情。それらが絡み合い、呪いの進行を最悪なまでに早めているようだった。
「……煌仁様!」
「来るな! お前まで呑み込まれる……!」
梢の異能の本質を知ってもなお、彼は愛する女を巻き込むまいと必死に己を律している。痛々しいほどの拒絶。そうとわかっているからこそ、放ってなどおけない。梢は迷わず彼の身体を抱きしめた。
「私は、あなたを一人にはしません」
目を閉じ、強く願った瞬間。彼女の全身から、これまでにないほど眩い純白の蝶があふれ出す。蝶は熱と痛みを溶かすように、二人を包み込んでいった。
*
庭先では、さざなみのような驚愕が広がっていた。片付けに追われていた侍従や護衛たちが、ふと手を止める。
「おい……あれ見ろよ」
誰かの声に、その場の全員が動きを止めた。屋敷の奥から、純白の輝きがあふれ出ている。それは太陽のような燦然とした光ではなく、月の破片を蕩したような、どこまでも清らかな真珠色の光。それは粒子となって、静かに庭へと降り注ぐ。その場にいた人々はもちろん、駆けつけた解呪師も、みな空を仰いだ。
「……雪?」
呆然と呟かれた声は空へと消えていく。今はまだ雪の降る季節ではない。だというのに、舞い落ちる白い輝きは、荒れた庭を眠らせるようにやさしく地に触れていた。
「違う……。蝶だ……」
一人が震える声で指摘した。よく見れば、それは冬の結晶ではなく、光の輪郭を持った幻影の蝶だった。
蝶がひらりと枯れ木に触れれば、息を返したように青々しい葉が芽吹きだす。地に降りれば、戦いの爪痕を隠すように鮮やかな草花が広がっていく。弥白が残していった妖力の残り香も、蝶が羽ばたきに合わせて消えてなくなった。
それだけではない。屋敷全体に染み付いていた、肌にまとわりつくような重苦しい冷たさが、みるみるうちに清らかな温もりに塗り替えられていく。その場にいる全員が、それを肌で感じていた。
「まさか……本当に『還零の力』があるなんて……」
解呪師の一人が、崩れ落ちるようにその場に跪いた。
やがてすべての光が収まり、襖が開く。
そこから現れたのは、痣のひとつもない、かつての──いや、かつて以上に神々しいまでの覇気をまとった堂徳寺家当主、煌仁。そして、その傍らで彼の手をしっかりと握る、真珠色の淡い光を宿した梢の姿だった。
「梢……! 無事か。どこか、傷はないか」
「はい……私は大丈夫です。でも、煌仁様……その、痣が……」
梢は恐る恐る手を伸ばし、彼の頬に触れる。先ほどまで赤黒く脈打っていた牡丹の痣は、今は沈み込むような色に落ち着いている。しかし、その範囲は以前より確実に広がっていた。
「これは……異能を使うほどに俺の命を削る呪い。この痣に全身が覆い尽くされたときが、俺の最期だ」
一拍置いて、煌仁は静かに続ける。
「隠していたわけではない。ただ……お前に話すようなことでもないと思っていた」
あまりにも淡々とした告白に、梢の胸が締めつけられる。人々に恐れられる英雄は、己の命を削ることさえ躊躇わなかった。任務に赴き、異能を振るい、あやかしを討ち続け──そして今、梢の盾となった。
ふと、先ほどの弥白の言葉が頭の中で反芻される。
《あの男もその事実に気づき、お前という『力』を利用したいだけなんじゃないか?》
自分の力は単なる治癒ではなく、すべてを無に還す力。もし煌仁が、その本質に気づいていたのだとしたら。利用するために、そばに置いているだけだとしたら。
もしそうだとしても、梢の心の内はすでに結論づいている。彼女は唇を噛み締め、意を決したように口を開いた。
「煌仁様……私の異能は、『還零の力』です」
煌仁は一瞬だけ目を伏せ、それから静かに頷いた。
「……そんな気がしていた。あらゆる異能や呪いを、無効化する力があると聞いたことがある。蝶が舞う異能だ、と」
事実を噛み砕くように彼は言葉を選んでいる。それから、力なく息を吐いた。
「お前の光は、あまりに清らかすぎた」
その言葉と一緒に、彼の頬に添えられていた梢の手が、そっと外される。拒むようでも振り払うようでもなかったが、確かに距離を取るような仕草だった。
行き場を失った梢と煌仁の手が、宙に取り残される。梢はこれ以上離れないようにと、彼の手のひらをぎゅっと握りしめた。
「私は……あなたになら、利用されてもかまいません」
煌仁の目が大きく見開かれる。梢は一度だけ息を吸い、その翡翠の瞳を見つめ返した。
彼女の胸は、彼から与えられてきたもので満たされていた。着物や甘味だけではない。自分の居場所に、人として扱われる、当たり前の日々。不器用で、けれどまっすぐなその優しさに、何度も救われてきた。孤独を知っている者同士、もし、彼が自分を必要としてくれるのなら──その理由が「力」だったとしても、梢に憎しみや後悔などはなかった。
「馬鹿を言うな。俺は……お前を利用したいなどと思ってはいない」
宙をさまよっていた彼の腕が、梢の身体を強く抱き寄せる。
「俺のそばにいて、俺の隣で笑っていてほしい。俺の妻としてだ」
「……はい」
梢も腕を背に回し、繋ぎ止めるように抱き返した。
その言葉に嘘がないことを、梢はもう知っている。彼が本当に梢を「道具」としてしか見ていなかったのなら、初夜の日に無理やりにでも蝶を舞わせ、呪いを解かせていたはずだ。それを今日までしなかったのは、煌仁が梢を「異能」ではなく、ひとりの人間として大切にしようとしてきた証だった。
「俺は、梢を俺と同じ『戦いの道具』にしたくなかった」
人類最強の異能者として、煌仁は己の命さえ使い潰してきた。そんな彼だからこそ、愛する女性にだけはその運命を背負わせたくなかったのだろう。あまりにも独りよがりで、向けられたことがない深い愛情。逞しくも儚い彼の姿を見つめる梢の瞳から、一粒の涙があふれた。
「私は、私の意志で煌仁様を救いたいんです。どうか……私もあたなのそばに立たせてください」
「梢……」
頬を伝う涙を煌仁がやさしく拭った。見つめ合う距離が、次第に近づいていく。その距離に目をつむり、息を詰めた、そのときだった。
「失礼いたします! 旦那様、ご無事ですか!?」
甘やかな沈黙を破るように、庭の入り口から数人の部下たちがなだれ込んできた。弥白が消えたことで、彼が展開していた結界が消失したのだろう。
駆けつけた侍従や護衛たちは、荒れた庭を狐に摘まれたような困惑した表情で見渡している。聞けば、彼らは、庭の一部だけが陽炎のように歪んで見える不可解な現象に阻まれていたらしい。
煌仁は梢を背後に隠すように、瞬時に彼女の前に立つ。凛と背筋を伸ばし髪をなびかせている雄々しい背中は、「堂徳寺家当主」の顔をしているようだった。
「騒がしいぞ。少し、野良狐が迷い込んできただけだ」
威厳のある声。駆けつけた部下たちは主人の頬にまで伸びた痣を見やり、息を呑んだ。だが、煌仁の放つ凄まじい威圧感に、それ以上踏み込めずにいるようだ。
「今日の残りの政務はすべて明日に回す。お前たちは、庭の片付けを頼む」
「は、はい! 承知いたしました」
「狐の呪術が残っているかもしれん。念のため、解呪師も呼んでおけ」
部下たちが一礼するのを確認すると、煌仁は梢の手を引き、屋敷の奥へと歩き出した。繋がれた手から伝わる彼の熱は、もはや火傷しそうなほどに高まっている。前を行く背中は、先ほどまでの雄々しさが嘘のように、危うく小刻みに震えていた。
彼が今、どれほど限界に近い状態で立っているのかが痛いほど伝わってきた。
部屋の襖が閉まった瞬間、煌仁は梢の手を離し、壁に背を預けてずるずると崩れ落ちた。
「っ、……はぁ、はっ……」
荒い呼吸とともに、頬の痣がどす黒い輝きを増していく。任務明けの状態で急激に異能を使った代償と、梢を案じるあまりに昂ぶた感情。それらが絡み合い、呪いの進行を最悪なまでに早めているようだった。
「……煌仁様!」
「来るな! お前まで呑み込まれる……!」
梢の異能の本質を知ってもなお、彼は愛する女を巻き込むまいと必死に己を律している。痛々しいほどの拒絶。そうとわかっているからこそ、放ってなどおけない。梢は迷わず彼の身体を抱きしめた。
「私は、あなたを一人にはしません」
目を閉じ、強く願った瞬間。彼女の全身から、これまでにないほど眩い純白の蝶があふれ出す。蝶は熱と痛みを溶かすように、二人を包み込んでいった。
*
庭先では、さざなみのような驚愕が広がっていた。片付けに追われていた侍従や護衛たちが、ふと手を止める。
「おい……あれ見ろよ」
誰かの声に、その場の全員が動きを止めた。屋敷の奥から、純白の輝きがあふれ出ている。それは太陽のような燦然とした光ではなく、月の破片を蕩したような、どこまでも清らかな真珠色の光。それは粒子となって、静かに庭へと降り注ぐ。その場にいた人々はもちろん、駆けつけた解呪師も、みな空を仰いだ。
「……雪?」
呆然と呟かれた声は空へと消えていく。今はまだ雪の降る季節ではない。だというのに、舞い落ちる白い輝きは、荒れた庭を眠らせるようにやさしく地に触れていた。
「違う……。蝶だ……」
一人が震える声で指摘した。よく見れば、それは冬の結晶ではなく、光の輪郭を持った幻影の蝶だった。
蝶がひらりと枯れ木に触れれば、息を返したように青々しい葉が芽吹きだす。地に降りれば、戦いの爪痕を隠すように鮮やかな草花が広がっていく。弥白が残していった妖力の残り香も、蝶が羽ばたきに合わせて消えてなくなった。
それだけではない。屋敷全体に染み付いていた、肌にまとわりつくような重苦しい冷たさが、みるみるうちに清らかな温もりに塗り替えられていく。その場にいる全員が、それを肌で感じていた。
「まさか……本当に『還零の力』があるなんて……」
解呪師の一人が、崩れ落ちるようにその場に跪いた。
やがてすべての光が収まり、襖が開く。
そこから現れたのは、痣のひとつもない、かつての──いや、かつて以上に神々しいまでの覇気をまとった堂徳寺家当主、煌仁。そして、その傍らで彼の手をしっかりと握る、真珠色の淡い光を宿した梢の姿だった。



