呪われた軍神は「無能」と呼ばれた身代わり花嫁を離さない

 いつも整えられているはずの黒髪は乱れ、その身体は触れ難いほどの熱気を帯びている。軍服をまとい、任務先から文字通り「飛んで」戻ってきたのであろうその姿は、鬼神のような迫力に満ちていた。

「煌仁、様……」

 梢の声を拾った煌仁は、彼女を庇うように背に隠す。即座に剣を抜き、その(きっさき)を妖狐の喉元へと突きつけた。

「俺の妻に指をかける……。どうなるか、理解しているんだろうな」

 地を這うような声。その言葉に込められた殺意は、もはや隠す気すらない。

「貴様こそ、たかが人間風情(ふぜい)妖狐()に勝てるとでも?」
「当然だ」

 答えと同時に、煌仁の剣が緋色の光を帯びる。刃に宿った彼の異能が妖気を跳ね返し、周囲の空気そのものを削り取るように歪ませた。それに呼応するように彼の肌に刻まれた牡丹の痣が、じわりと色を濃くする。鎖骨を越え、首筋を這い、頬まで伸びた。
 妖狐は金の瞳を細め、煌仁の頬まで浸食した痣をじっと見つめる。そして、「その痣……」と小さく呟きを落とすと、どこか納得したように興味深げな視線を彼に投げた。

「なるほど。嶺丸(たけまる)が討たれたと耳にはしていたが……貴様だったか。人の身で鬼を倒すとは、やるではないか」

 愉快そうに口角を吊り上げた妖狐は、懐から銀の扇を取り出し、優雅に仰ぎだす。

「だが……俺は、あの小鬼のように弱くない」

 不敵な笑みとともに、こちらに向けて扇をひと振りした瞬間──空気が凍った。仰がれた風は鋭い刃となって、煌仁とその背に隠れる梢を目掛けて走る。
 梢が息を呑むより早く、煌仁は目で追えない速さで剣を振るった。一閃の、緋色の残光。断ち切られた風の刃は、火花が散るように霧散していく。同時に、牡丹の痣がどす黒く脈打ち、煌仁のまとう空気がじりっと熱くなった。

「……ほう」

 愉悦を滲みだしたように、妖狐の瞳がわずかに細められる。その直後。チリン、とあの鈴の音が波打つように鳴り響いた。瞬く間に、空気が変わる。煌仁の身体から、ふっと熱が引いた。剣を握る腕がわずかに揺らぎ、足元がほんの一瞬だけ不安定になる。

「煌仁様……!」

 梢は反射的に彼の身体に手を当てた。願うより早く、彼女の指先から清浄な光を放つ蝶がひらりと舞い上がる。蝶が煌仁の肩に触れた瞬間、妖気は雪が溶けるように空へと消え去った。

「大丈夫ですか?」
「ああ、お前のおかげだ」

 梢の放つ無垢な光に、煌仁は急速に正気を取り戻していく。妖狐は淡く羽ばたく一頭の蝶を目で追い、くっと喉を鳴らして笑った。

「ははっ、これは分が悪いな。俺も、あのときの呪いのせいで万全ではないというのに」

 狐は一歩ずつ、ゆるりと距離を取りだす。その姿はすでに透き通り、銀色の霧へと変わり始めていた。

「俺の名は、弥白(やしろ)。覚えておくがいい」

 金の瞳が、今度はまっすぐに梢だけを射抜く。

「いずれ迎えに来るぞ、俺の番」

 鈴の音が、最後にもう一度鳴る。不吉な笑みを残し、銀色の気配は静寂の中へと完全に消えていった。