あの初夜から、数日が過ぎた。
梢の生活は、驚くほど平穏なものへと変わっていた。相変わらず屋敷の端で、誰に頼まれたわけでもなく庭の掃除をしたり、繕い物をしたりしているが、実家にいた頃のような居場所のなさは微塵も感じない。なぜなら梢がどこへ行こうとも、少し離れた場所からあの翡翠の瞳が自分を見つめているからだ。
「梢。あまり根を詰めるなと言っただろう」
縁側で洗濯物を畳んでいた梢に声が掛かる。そこには上着を軽く羽織っただけの、くつろいだ姿の煌仁が立っていた。これまで「呪いの狂犬」と恐れられていた男の姿は、今やどこにもない。屋敷の侍従たちも、彼の変化に気づきだしたようだった。主の部屋の前を通るたびに張り詰めていた彼らの肩から、ようやく余計な力が抜けてきている。
「旦那様、あんなに穏やかな顔で笑われる方だったのですね」
「梢様が来てからというもの、屋敷の空気が春になったようだ」
そんな控えめな囁き声が、廊下の端から聞こえるようになった。梢は、自分の居場所がここにあるのだという実感を日々の生活の中から感じていた。
「またそうやって、ぼうっとしている」
不意に、大きな手が髪を優しく撫でる。その温もりに心音がとくんとやさしい音を奏で、頬にじんわりと熱が広がった。
煌仁には自分が実家で「無能」と虐げられていた過去を打ち明けている。だからだろうか。彼はこうして、「ここにいていい」と示すように梢に触れるようになっていた。
「も、申し訳ありません、煌仁様。その、あまりに穏やかな時間が流れているもので……」
俯いた梢の視界に、縁側に腰を下ろした煌仁の腕が入る。触れ合う距離ではないが、彼女の隣に居場所を求めるように、そっと影を落とした。
「お前が来てから、この屋敷の時間がようやく動き出した気がする」
煌仁は呟き、梢の手に自身の手のひらを重ねる。彼女を見つめる翡翠の瞳には以前のような刺々しさはなく、深い愛着の色が入り混じっているようだった。
「これまで何もしてやれなかったからな。今日は、街へ出てみないか。お前の好きそうな刺繍糸や、甘い菓子でも買いに行こう」
梢は一瞬、返事にためらった。自分のようなものが、そんな厚遇を受け取っていいのだろうか。
「……嫌か?」
「あ、いえ、私にそのような……。分不相応ではないかと……」
思わず零れた自虐的な言葉に、煌仁の眉がぴくりと動いた。彼は添えていた手を梢の指先へと重ね、絡める。
「分不相応などと、二度と口にするな。お前は……俺の妻だ」
わずかに低められた声が、梢の耳元を熱く揺らす。彼の指先から伝わってくるのは「梢」という存在を確かめるような、愛おしむ熱さ。
「……はい」
視線が絡む。煌仁の翡翠の瞳が、少しだけ気恥ずかしそうに揺れるのが見えた。
梢の生活は、驚くほど平穏なものへと変わっていた。相変わらず屋敷の端で、誰に頼まれたわけでもなく庭の掃除をしたり、繕い物をしたりしているが、実家にいた頃のような居場所のなさは微塵も感じない。なぜなら梢がどこへ行こうとも、少し離れた場所からあの翡翠の瞳が自分を見つめているからだ。
「梢。あまり根を詰めるなと言っただろう」
縁側で洗濯物を畳んでいた梢に声が掛かる。そこには上着を軽く羽織っただけの、くつろいだ姿の煌仁が立っていた。これまで「呪いの狂犬」と恐れられていた男の姿は、今やどこにもない。屋敷の侍従たちも、彼の変化に気づきだしたようだった。主の部屋の前を通るたびに張り詰めていた彼らの肩から、ようやく余計な力が抜けてきている。
「旦那様、あんなに穏やかな顔で笑われる方だったのですね」
「梢様が来てからというもの、屋敷の空気が春になったようだ」
そんな控えめな囁き声が、廊下の端から聞こえるようになった。梢は、自分の居場所がここにあるのだという実感を日々の生活の中から感じていた。
「またそうやって、ぼうっとしている」
不意に、大きな手が髪を優しく撫でる。その温もりに心音がとくんとやさしい音を奏で、頬にじんわりと熱が広がった。
煌仁には自分が実家で「無能」と虐げられていた過去を打ち明けている。だからだろうか。彼はこうして、「ここにいていい」と示すように梢に触れるようになっていた。
「も、申し訳ありません、煌仁様。その、あまりに穏やかな時間が流れているもので……」
俯いた梢の視界に、縁側に腰を下ろした煌仁の腕が入る。触れ合う距離ではないが、彼女の隣に居場所を求めるように、そっと影を落とした。
「お前が来てから、この屋敷の時間がようやく動き出した気がする」
煌仁は呟き、梢の手に自身の手のひらを重ねる。彼女を見つめる翡翠の瞳には以前のような刺々しさはなく、深い愛着の色が入り混じっているようだった。
「これまで何もしてやれなかったからな。今日は、街へ出てみないか。お前の好きそうな刺繍糸や、甘い菓子でも買いに行こう」
梢は一瞬、返事にためらった。自分のようなものが、そんな厚遇を受け取っていいのだろうか。
「……嫌か?」
「あ、いえ、私にそのような……。分不相応ではないかと……」
思わず零れた自虐的な言葉に、煌仁の眉がぴくりと動いた。彼は添えていた手を梢の指先へと重ね、絡める。
「分不相応などと、二度と口にするな。お前は……俺の妻だ」
わずかに低められた声が、梢の耳元を熱く揺らす。彼の指先から伝わってくるのは「梢」という存在を確かめるような、愛おしむ熱さ。
「……はい」
視線が絡む。煌仁の翡翠の瞳が、少しだけ気恥ずかしそうに揺れるのが見えた。



