呪われた軍神は「無能」と呼ばれた身代わり花嫁を離さない

 夜。梢が恐る恐る寝所の襖を開けると、そこには蝋燭の薄明かりの中、一人座り込む煌仁の姿があった。
 初めて彼と会ったときと同じ、肌を刺すような冷たい気配が漂っている。梢が足を踏み入れた瞬間、煌仁は鋭い視線を彼女の身なりに向けた。

「いつまでそんな煤けた着物を着ている」

 煌仁は視線を逸らし、部屋の隅を指す。そこには、見慣れない包みが置かれていた。

「新しい着替えだ。別に、深い意味はない」

 そう言ってから、彼は咳払いを一つ落とす。

「お前の着物が……あまりにも、見るに耐えなかったから……」

 言い切る前に、背を向けた。

「見かねただけだ」

 落ちた沈黙と、わずかに丸まった彼の背中が「早く開けろ」と言わんばかりに語りかけてくる。
 梢は一瞬、目を(またた)かせた。その姿は、噂で語られる英雄とは大きくかけ離れている。冷酷さなど、どこにも見当たらない。どこか不器用な優しさであふれているようだった。
 梢はおずおずと包みに手を伸ばし、紐を解く。広げられた中身を目にした瞬間、思わず息を呑んだ。そこに収められていたのは、見たこともないほど上質な淡い薄紅色の絹の着物。
 
「……煌仁様、これ……」
「さっさと着替えろ。それとも、俺に手伝わせるつもりか」

 こちらに振り返ろうとする気配はない。だが、もとより初夜を覚悟のうえで寝所に訪れたのだ。役目を果たせなければ、ここでも無能として切り捨てられるだろう。なにより、生きていたとしても帰る場所などどこにもないのだ。

 梢は震える指先で、身にまとっていた着物の帯を解いた。長年、身を守るだけの布としてまとってきたそれが、鉛のように重く床に落ちる。これまでの人生で被ってきた埃や、一族から投げつけられた侮蔑(ぶべつ)までもが一緒に落ちていくような気がした。
 代わりに手に取ったのは、包みの中に収められていた薄紅色の絹。指先で触れただけなのに、かすかに胸が高鳴る。滑らかな指通り、肌にさらりと吸い付く感触は、かけはぎを続けながら着ていた着物とはまるで違っていた。

 宝条家では決して与えられなかった、「価値あるもの」に包まれていく感覚。胸に小さな戸惑いと、春風に吹かれたような淡い温もりが同時に広がる。不思議で、どう受け取ればいいのかわからなかった。
 
「煌仁様……着替えが、終わりました」

 その言葉を待っていたかのように、煌仁がゆっくりと振り返る。その一瞬、彼の翡翠色の瞳に光が閃いたのを、梢は見逃さなかった。
 
「こんな高価な着物……私なんかに、ありがとうございます」
「礼はいい」

 深く頭を下げた梢を、煌仁はしばし無言のまま見つめていた。梢は、いよいよお役目を果たすためにと、煌仁の近くで膝をそろえた。心臓の鼓動は早鐘のように打ち鳴らし、鼓膜を突き破りそうなほどだった。
 着物までもらったのだ。それが何を意味するか、無知な梢にだってわかる。ついに、夜伽が始まる──膝の上に置いた手のひらを、ぎゅっと握りしめた。

 しかし煌仁は指の一本も触れることなく、ただ低い声で問いかけた。
 
「お前も、噂は聞いているのだろう?」
「……はい」
「俺が怖くないのか?」
「……はい。緊張は、していますが……。怖いのは、今は、それほど……」
「今は、か」

 目を細めた彼の表情から、わずかに力が抜けたような気がした。どこか呆れたような、無防備な笑みのようにも見える。

「煌仁様……。あの噂は、本当……なんですか?」

 梢は潤んだ瞳でまっすぐに彼を見つめた。目の前にいる人が、どうにも噂の「狂犬」には思えなかったのだ。
 問いかけに、煌仁はすぐには答えなかった。わずかに視線を伏せ、蝋燭の揺れる炎を幻影を眺めるようにぼうっと見つめる。

「半分は、本当かもな……」

 やがて、煌仁は自嘲気味に口端を吊り上げた。翡翠の瞳は、遠い場所を見つめるように細められる。彼は首筋の痣を指先でなぞり、何かを噛み殺すように息をつくと、低く語り始めた。

 煌仁は、若くして軍を束ねる長だった。桁違いに、強かったのだ。虎のごとく牙を剥き、龍のように戦場を縦横無尽に駆けるその姿は、帝都の希望そのものだった。
 そして、噂の始まりは三年前、あの大妖怪討伐の夜。
 帝都を震撼させた戦いの最中。当時二十二だった煌仁は、仲間を守るため敵が死ぬ間際に放った呪いを、たった一人でその身に引き受けたのだという。

「俺は……救ったつもりだった」

 掠れた声だけが寝所に落ちる。彼は長い髪を垂らし、視界を隠すようにしながら話しを続けた。

 呪いを受けてから程なくして、煌仁の身体に凄まじい熱が走ったらしい。それは牡丹の痣となり、絡みつくように身体の一部に巡らされた。
 駆け寄った医師や術者たちが、彼の呪いを祓おうと手を伸ばしたものの。あまりに強大で禍々しい呪いは、触れた者たちの皮膚を()き、深い火傷の痕を残していった。
 それが一度ならず二度、三度以上と続いたとき、人々は彼を「英雄」ではなく「災厄」として恐れ始めた。呪いを祓えなかった己の無力さを棚に上げ、人々は口々に囁いたのだ。「あいつは化け物になった」「触れる者すべてを焼き尽くす狂犬だ」と。

 女にまつわる噂も、似たようなものだった。
 これまで、政略結婚のために、何人もの女たちが彼のもとへと送り込まれた。だが、煌仁の身体から放たれる呪いの冷気と、彼自身の凍てつくような拒絶に耐えられる者など一人もいなかった。
 同じ部屋にいただけなのに、呪いの余波で体調を崩す者。彼の翡翠の瞳に見据えられ、その威圧感に恐怖して逃げ出す者。
 そんな彼女たちが家へ逃げ帰った際。自分の臆病さを正当化するために、「あの方は女の精気を吸う怪物だった」「触れられただけで命が削られる心地がした」と、涙ながらに嘘を吐いたのが始まりだったのだ。
 かつての英雄は、触れることすら恐れられる化け物へと仕立て上げられ、今に至るのだった。

「どうせお前も、他の女と同じだと思っていたが……」

 膝をそろえて煌仁を見つめる梢を観察するように、彼は薄く目を開いていた。
 
「少なくとも、お前は……あれらとは違う」

 呟いた煌仁の口角が、本当にわずかに上がる。凍てついていた氷が溶けたように、彼がまとっている拒絶の壁が静かに崩れて落ちたような気がした。
 
「あの……。失礼を承知で伺いますが……どうして、宝条家に婚姻の申し出をされたのですか?」

 梢の問いに、煌仁は忌々しそうに唇を歪めた。

「俺の意思ではない。一族の年寄どもが、俺が呪い死ぬ前にその血を残したいと必死なだけだ。異能を所持している家門の娘であれば、俺の呪いにも耐えうるかもしない……などと適当な理屈をつけてな」

 翡翠の瞳に、深い嫌悪と皮肉の色が混じる。

「まあ、結果はさっき言った通りだ」

 投げやりな声だった。
 梢は宝条家で「無能」と蔑まれ、妹の身代わりに差し出された自分を、どこか彼と重ねていた。妹の沙那恵は、宝条家の宝。そんな彼女が「化け物に嫁ぐなんて嫌だ」と泣き喚き、その代わりに死んでも惜しくない存在である梢が選ばれた。
 だが、もし沙那恵がここに来ていたならば。きっと彼女も、他の女たちと同じように逃げ出していたはずだ。
 煌仁が求めていたのは強力な異能でも、高貴な血筋でもなく──彼の痛みと孤独を偏見なく見つめてくれる「誰か」だったのかもしれない。

「煌仁様……」

 梢は正座したまま、一歩だけ彼の近くへと膝を進めた。

「私は……怖くはありません。今の煌仁様のお話を聞いて、もっと怖くなくなりました」

 英雄ともてはやされていた彼が、一気に奈落の底へと突き落とされた。いったい、どれほどの絶望と憎しみを噛み締めてきたのだろうか。それは、生まれてからずっと「無能」と蔑まれてきた自分よりも、もっと残酷で、彼自身が呪いに灼かれ続けてきたかのように思えた。

「本当に……お前みたいな女は、初めてだ」

 煌仁は吐息をつきながら、ぽつりと零す。そして力なく視線をさまよわせ、倒れ込むように布団へと横たわった。
 梢は、ごくんと息を呑み込む。緊張で指先が震え始めた。彼の隣に、身を寄せるべきか──迷えば迷うほど、身体が強張っていく。彼女を見上た煌仁は、それを見透かしたように声をかけた。
 
「案ずるな。夜伽などしなくていい」
「……え?」
「ただ、そばにいてくれ」

 掠れた声。翡翠色の瞳は、蝋燭の明かりのように揺らめいている。頼み事のようで、祈りにも近い気がした。
 梢は小さく頷く。彼の枕元に歩み寄り、丁寧に膝を折った。
 首筋からかすかに覗く痣に目が止まった梢は、自ずと手のひらを煌仁の身体にかざしていた。彼の苦しみが少しでも引きますように。今夜だけでも安らかに眠れますように。そう願いを込めて、蝶の幻影を生み出そうとしていた。
 梢の指先から、あの淡い光があふれ出す。光の粒子は蝶へと姿を変え、導かれたようにひらりと煌仁の周囲を舞い出した。彼の肌に触れた蝶は痣の跡を優しく撫で、皮膚に吸い込まれるように霧散していく。蝶が消えるたびに、煌仁の表情が凪いだ海のような穏やかさに塗り替えられた。

「……ああ」

 煌仁の口から深い吐息がもれる。寝所は清涼な空気で満たされていった。
 自分の力が何なのか、梢はまだはっきりとはわからない。けれど自分の異能が、この孤独な英雄を救うためのものだったとしたら。梢は初めて、自分の存在を肯定できた気がした。
 やがて、煌仁の呼吸が寝息へと変わる。梢は彼が眠りについた後もずっと蝶を出し続けながら、その安らかな寝顔を見守り続けた。