数刻後。迎えの馬車に放り込まれるように屋敷を出た梢は、帝都の中心に位置する広大な屋敷の前に立っていた。
そこは、かつての英雄の住処とは思えないほど静まり返っている。門をくぐった瞬間、肌を刺すような異様な冷気が押し寄せた。温度が低いというよりは、屋敷をまとう空気に生気が感じられない冷たさだ。
案内役の男の後ろにつき、長い廊下を進んでいった先。
「……奥へ。煌仁様がお待ちだ」
男はある一室の前で足を止めると、梢と目を合わせることなく逃げるように去っていった。一人残された梢は、襖の前で煤けた着物の裾を握りしめる。一つ大きく息を吐き、畳に両膝をそろえて正座すると、意を決して重厚な襖に手をかけた。
「宝条家より、輿入れに参りました。梢と申します」
額を畳につけ、息を殺すようにして頭を下げる。枯茶色の、秋の木の枝のような髪が視界を覆った。
しばらく頭を下げ続けていたが、どうにも返事がない。耳をすませば、奥からかすかに喉を鳴らすような苦しげな吐息だけが聞こえてくる。
「……煌仁、様?」
恐る恐る頭を上げた梢の視界に、その男はいた。
深海のような艶めかしい深縹色の長い髪が、畳の上に無造作に散っている。わずかにはだけた着物の胸元から首筋にかけて、脈打つように浮かび上がる牡丹の痣。噂に聞いていた通り、その痣は毒々しく、彼の白い肌を侵食しているようだった。
かつての英雄は、今、呪いの熱に浮かされ、浅い呼吸を繰り返しながら倒れている。
梢の身体が一瞬すくんだ。触れれば焼かれるという呪いの噂。だが、それ以上に彼の横顔があまりに孤独で、放っておくことなどできなかった。
気づけば駆け寄り、梢は彼の熱い体を抱き起こしていた。彼の頭を自分の膝の上に乗せ、額に手を添えた瞬間。
無意識のうちに、手のひらから淡い光の粒がこぼれ落ちた。それは一頭の蝶の幻影へと形を変え、ひらりと羽ばたいて霧散するように消えていく。
──なに、今の……。
梢は思わず目を見開いた。こんなこと、今まで一度もなかったのだ。
戸惑いの下、激しく波打っていた彼の胸の動きに、徐々に落ち着きが戻り始めたのに気づく。
梢は安堵とともに、改めてその顔の輪郭をなぞった。氷の細工のように整った端正な顔立ち。鋭い眉間にかかっていた苦悶のしわが解け、首筋まで伸びていた痣も少しずつその色を鎮めていく。
不意に、彼の長いまつ毛が震えた。ゆっくりとまぶたが持ち上がり、翡翠色の瞳が梢を捉える。彼女が声をかけるより早く、煌仁は膝から跳ね起き、一気に距離を取った。
「……お前。俺に何をした?」
低く、わずかな殺気を含んだ声。彼は己の首筋を掴み、信じられないという表情で梢を睨みつけた。
「私は……何も。ただ、あまりにおつらそうでしたので……」
彼は信じがたいものを見るような目で、煤けた着物を着た細い少女を見据え続ける。
「……誰だ、お前は」
「宝条家より……輿入れに参りました、梢と申します」
梢がもう一度深く頭を下げると、煌仁は毒気を抜かれたように、ふっと自嘲気味に口角を上げた。
「ああ。今度の女は、お前か」
もはや、婚姻というものに興味などないのだろう。彼は乱れた髪を無造作にかき上げ、冷たい目に戻った。
だが。
「梢、か」
名を呼んだ彼の瞳の奥には、不可解な救いを与えた梢に対する隠しきれない困惑と、興が湧いたような火が灯っていた。
*
それから数日。梢は屋敷の片隅に与えられた一室で、当たり障りのない日々を過ごしていた。煌仁──堂徳寺家の家事を手伝い、拭き掃除や庭の片付けなど、慣れた手つきでこなしていく。
宝条家にいたときと同じような、下働き同然の生活。だが、唯一違ったのは、梢に対する叱責や嘲りの声が飛ばないことだった。家臣たちも煌仁の呪いを恐れて距離を置いているせいか、屋敷は常に静まり返っている。
穏やかともいえる環境かもしれないが、日々「無能」と虐げられてきた梢にとっては、浮き足立つような居心地だった。
──私、どうしたらいいのかしら……。
てっきり輿入れの日に初夜を果たし、命を吸い取られて死ぬものだと思っていた。だが、あの以来、彼とは一度もまともに言葉を交わしていない。時折、廊下ですれ違っても彼は深縹色の髪を揺らし、目を逸らして足早に去っていくのだ。
触れる者を焼く──その噂を信じれば、そもそも梢は倒れていた煌仁を助けたときに焼かれ、今頃はこの世にいないはず。けれど、未だに指先ひとつ焦げてさえいない。どころか、彼は梢に近寄ることさえ避けているように見える。
もっとおどろおどろしく、それこそ鬼のような人を思い描いていた。しかし実際には、煌仁は恐ろしいほどに孤独を抱えた「人間」のようだった。
あのとき、膝の上で感じた彼の重み。呪いの牡丹に蝕まれ苦痛に喘ぐ姿は、化け物というにはあまりに儚く、美しかった。
帝都を救った代償にすべてを奪われ、人々から遠ざけられた男。
──あの方も、一人で耐えてきたのかしら……。
実家で「無能」と蔑まれ、石ころのように扱われてきた自分。そして、あまりに強すぎるゆえに、化け物として疎まれるようになった彼。
顔合わせの日をぼうっと思い出しなから、梢は手のひらから蝶を飛ばした。なぜあの瞬間、蝶が現れたのか。梢は、ふわりと舞い上がる淡い蝶を目で追い続ける。実家では「無能」と笑われたその羽ばたきが、なぜかこの屋敷の淀んだ空気を、ほんの少しだけ清らかに塗り替えていくような気がした。
「何をしている」
背後から響いた低い声に、梢は肩を跳ねさせた。振り返れば、そこには腕を組み、不機嫌そうに眉を寄せた煌仁が立っていた。あの日よりも痣の赤みは引いているが、彼がまとう威圧感は相変わらず、龍や虎のそれだった。
「煌仁、様……申し訳ございません。もう力は使いませんので……」
「謝るな。……その蝶、あの日も見た気がする」
煌仁が歩み寄る。その視線は梢の古ぼけた着物から、震える指先へと移った。
「……今夜、俺の寝所へ来い」
心臓がひとつ、大きく跳ねた。ついに、そのときが来るのか。梢は覚悟と、少しの諦念を混ぜたような瞳で煌仁を見上げる。目が合うと、彼はきまずそうに視線を泳がせ、わずかに頬を硬くした。
「勘違いするな。殺すつもりなどない。ただ、俺の側にいろ」
煌仁はぶっきらぼうに言い捨てると、決まりが悪そうに乱暴な手つきで着物の襟元を直した。
「あの日以来、どうにも呪いの熱が鎮まらない。お前の得体の知れない気配が、少しは気休めになるかもしれん」
それは命じるようでいて、どこか縋るような声音にも聞こえた。
「……はい。かしこまりました」
うやうやしく答えると、煌仁は「……ふん」と鼻を鳴らして、逃げるように背を向けた。風になびく髪が、焦燥を隠すように揺れる。
その背を梢は黙って見送った。噂通り、今夜、自分の命が吸われるかもしれない。だがその恐怖よりも、「側にいろ」という煌仁の言葉が、小春の木漏れ日のような温もりとなって彼女の枯れ果てた心に染み込んでいた。
そこは、かつての英雄の住処とは思えないほど静まり返っている。門をくぐった瞬間、肌を刺すような異様な冷気が押し寄せた。温度が低いというよりは、屋敷をまとう空気に生気が感じられない冷たさだ。
案内役の男の後ろにつき、長い廊下を進んでいった先。
「……奥へ。煌仁様がお待ちだ」
男はある一室の前で足を止めると、梢と目を合わせることなく逃げるように去っていった。一人残された梢は、襖の前で煤けた着物の裾を握りしめる。一つ大きく息を吐き、畳に両膝をそろえて正座すると、意を決して重厚な襖に手をかけた。
「宝条家より、輿入れに参りました。梢と申します」
額を畳につけ、息を殺すようにして頭を下げる。枯茶色の、秋の木の枝のような髪が視界を覆った。
しばらく頭を下げ続けていたが、どうにも返事がない。耳をすませば、奥からかすかに喉を鳴らすような苦しげな吐息だけが聞こえてくる。
「……煌仁、様?」
恐る恐る頭を上げた梢の視界に、その男はいた。
深海のような艶めかしい深縹色の長い髪が、畳の上に無造作に散っている。わずかにはだけた着物の胸元から首筋にかけて、脈打つように浮かび上がる牡丹の痣。噂に聞いていた通り、その痣は毒々しく、彼の白い肌を侵食しているようだった。
かつての英雄は、今、呪いの熱に浮かされ、浅い呼吸を繰り返しながら倒れている。
梢の身体が一瞬すくんだ。触れれば焼かれるという呪いの噂。だが、それ以上に彼の横顔があまりに孤独で、放っておくことなどできなかった。
気づけば駆け寄り、梢は彼の熱い体を抱き起こしていた。彼の頭を自分の膝の上に乗せ、額に手を添えた瞬間。
無意識のうちに、手のひらから淡い光の粒がこぼれ落ちた。それは一頭の蝶の幻影へと形を変え、ひらりと羽ばたいて霧散するように消えていく。
──なに、今の……。
梢は思わず目を見開いた。こんなこと、今まで一度もなかったのだ。
戸惑いの下、激しく波打っていた彼の胸の動きに、徐々に落ち着きが戻り始めたのに気づく。
梢は安堵とともに、改めてその顔の輪郭をなぞった。氷の細工のように整った端正な顔立ち。鋭い眉間にかかっていた苦悶のしわが解け、首筋まで伸びていた痣も少しずつその色を鎮めていく。
不意に、彼の長いまつ毛が震えた。ゆっくりとまぶたが持ち上がり、翡翠色の瞳が梢を捉える。彼女が声をかけるより早く、煌仁は膝から跳ね起き、一気に距離を取った。
「……お前。俺に何をした?」
低く、わずかな殺気を含んだ声。彼は己の首筋を掴み、信じられないという表情で梢を睨みつけた。
「私は……何も。ただ、あまりにおつらそうでしたので……」
彼は信じがたいものを見るような目で、煤けた着物を着た細い少女を見据え続ける。
「……誰だ、お前は」
「宝条家より……輿入れに参りました、梢と申します」
梢がもう一度深く頭を下げると、煌仁は毒気を抜かれたように、ふっと自嘲気味に口角を上げた。
「ああ。今度の女は、お前か」
もはや、婚姻というものに興味などないのだろう。彼は乱れた髪を無造作にかき上げ、冷たい目に戻った。
だが。
「梢、か」
名を呼んだ彼の瞳の奥には、不可解な救いを与えた梢に対する隠しきれない困惑と、興が湧いたような火が灯っていた。
*
それから数日。梢は屋敷の片隅に与えられた一室で、当たり障りのない日々を過ごしていた。煌仁──堂徳寺家の家事を手伝い、拭き掃除や庭の片付けなど、慣れた手つきでこなしていく。
宝条家にいたときと同じような、下働き同然の生活。だが、唯一違ったのは、梢に対する叱責や嘲りの声が飛ばないことだった。家臣たちも煌仁の呪いを恐れて距離を置いているせいか、屋敷は常に静まり返っている。
穏やかともいえる環境かもしれないが、日々「無能」と虐げられてきた梢にとっては、浮き足立つような居心地だった。
──私、どうしたらいいのかしら……。
てっきり輿入れの日に初夜を果たし、命を吸い取られて死ぬものだと思っていた。だが、あの以来、彼とは一度もまともに言葉を交わしていない。時折、廊下ですれ違っても彼は深縹色の髪を揺らし、目を逸らして足早に去っていくのだ。
触れる者を焼く──その噂を信じれば、そもそも梢は倒れていた煌仁を助けたときに焼かれ、今頃はこの世にいないはず。けれど、未だに指先ひとつ焦げてさえいない。どころか、彼は梢に近寄ることさえ避けているように見える。
もっとおどろおどろしく、それこそ鬼のような人を思い描いていた。しかし実際には、煌仁は恐ろしいほどに孤独を抱えた「人間」のようだった。
あのとき、膝の上で感じた彼の重み。呪いの牡丹に蝕まれ苦痛に喘ぐ姿は、化け物というにはあまりに儚く、美しかった。
帝都を救った代償にすべてを奪われ、人々から遠ざけられた男。
──あの方も、一人で耐えてきたのかしら……。
実家で「無能」と蔑まれ、石ころのように扱われてきた自分。そして、あまりに強すぎるゆえに、化け物として疎まれるようになった彼。
顔合わせの日をぼうっと思い出しなから、梢は手のひらから蝶を飛ばした。なぜあの瞬間、蝶が現れたのか。梢は、ふわりと舞い上がる淡い蝶を目で追い続ける。実家では「無能」と笑われたその羽ばたきが、なぜかこの屋敷の淀んだ空気を、ほんの少しだけ清らかに塗り替えていくような気がした。
「何をしている」
背後から響いた低い声に、梢は肩を跳ねさせた。振り返れば、そこには腕を組み、不機嫌そうに眉を寄せた煌仁が立っていた。あの日よりも痣の赤みは引いているが、彼がまとう威圧感は相変わらず、龍や虎のそれだった。
「煌仁、様……申し訳ございません。もう力は使いませんので……」
「謝るな。……その蝶、あの日も見た気がする」
煌仁が歩み寄る。その視線は梢の古ぼけた着物から、震える指先へと移った。
「……今夜、俺の寝所へ来い」
心臓がひとつ、大きく跳ねた。ついに、そのときが来るのか。梢は覚悟と、少しの諦念を混ぜたような瞳で煌仁を見上げる。目が合うと、彼はきまずそうに視線を泳がせ、わずかに頬を硬くした。
「勘違いするな。殺すつもりなどない。ただ、俺の側にいろ」
煌仁はぶっきらぼうに言い捨てると、決まりが悪そうに乱暴な手つきで着物の襟元を直した。
「あの日以来、どうにも呪いの熱が鎮まらない。お前の得体の知れない気配が、少しは気休めになるかもしれん」
それは命じるようでいて、どこか縋るような声音にも聞こえた。
「……はい。かしこまりました」
うやうやしく答えると、煌仁は「……ふん」と鼻を鳴らして、逃げるように背を向けた。風になびく髪が、焦燥を隠すように揺れる。
その背を梢は黙って見送った。噂通り、今夜、自分の命が吸われるかもしれない。だがその恐怖よりも、「側にいろ」という煌仁の言葉が、小春の木漏れ日のような温もりとなって彼女の枯れ果てた心に染み込んでいた。



