呪われた軍神は「無能」と呼ばれた身代わり花嫁を離さない

 その日の夜。
 梢は縁側に腰を下ろし、冴え渡る月を眺めていた。

「眠れないのか?」

 背後から響いた、穏やかな声。振り返った先には、羽織を緩くまとった煌仁が立っていた。月の光を浴びた彼の姿は日中とは違い、どこか神秘的で柔らかな色気さえ覚える。
 煌仁は梢の隣に腰を下ろし、彼女の細い指に自分の指先を絡めた。

「月明かりが綺麗で……眺めていたんです。もう少ししたら寝ようかと」
「そうか」

 並んで座る二人の間に、心地よい夜の風が吹き抜ける。絡めた指先から伝わってくる彼の体温は夜風よりも温かく、梢の胸をわずかに高鳴らせていた。

「綺麗だな」
「ええ、本当に」
「月明かりじゃない。お前が、なによりも綺麗だ」

 低く落とされた声が、夜気に溶けて耳元に届いた。
 星屑が胸に降り注いだような煌めく言葉に、梢は月から視線を外し、隣へと顔を向ける。すぐ側で、翡翠の瞳がまっすぐにこちらを映していた。

「梢。改めて、お前に言わなければならないことがある」

 煌仁は絡めていた指に力を込めると、もう片方の手で梢の頬をそっと包み込んだ。

「お前は、家の都合でここに連れてこられた。俺も、また一族が余計な手を回したと辟易していた。……だが」

 一度言葉を切り、彼は梢の瞳を射抜くように見つめ直す。

「俺は今、異能も呪いも関係なく、『梢』という女性を俺の意志で求めている。俺の生涯をかけて、お前を愛し、守ると誓う」

 月明かりに照らされた縁側は、すでに夜の音が消えていた。ただ一つ、彼の声だけが明確に響く。

「俺と、結婚してほしい」

 胸の奥で固く縛られていた何かが、するりとほどけた感覚がした。
 家族から忌み嫌われ、価値などないと蔑まれてきた自分には、どこにも居場所はないと思っていた。そんな自分が、真に愛する人と家族になれる。考えてもみなかった温かな世界に、梢の視界は瞬く間に涙で滲んでいく。

「はい。私のほうこそ……煌仁様の隣に、ずっといさせてください」

 梢が震える声で応えると、煌仁は安堵したように目元を緩め、彼女の身体を力強く引き寄せた。そのまま、どちらからともなく顔が近づき──落ちる月明かりをなぞるように、唇が重なった。
 そっと触れるだけの、淡いもの。けれど、お互いの誓いを刻みつけるような、蕩けてしまいそうなほどの口づけだった。

 唇を離すと、煌仁は名残惜しそうに一瞬だけ視線を逸らし、それから愛おしそうに梢の髪を撫でた。

「……ようやく、言葉にできた」

 低く呟いた声は、どこか照れを含んでいる。

「これまで散々『妻』だと言ってきたが……あれは、単なる形式に過ぎなかった。そうなるものだと思っていたし、そうあるべきだ、とも思っていた」
「煌仁様……」
「今夜の言葉は違う。一人の男して、きちんと梢に伝えなければと、そう思った」

 彼は、わずかに視線を落とす。外で「氷眼の軍神」と呼ばれるその姿は、月光の中に身を隠しているようだ。
 
「改めて言うのは……正直、少し気恥ずかしいな」

 ふっと不器用に口元を緩める。その仕草さえも、梢には愛おしくてたまらないものに映った。
 
「それでも、言わずにいられなかった」

 絡まった指に、ぎゅっと力がこもる。真摯な眼差し。愛する女性に想いを届けることに懸命な、一人の男の素顔だ。

「ありがとうございます。すごく、嬉しいです」

 涙を湛えた瞳で微笑み、梢は彼の胸元に身体を寄せる。煌仁は応えるように、もう一度彼女を強く抱きしめた。心音がやさしく耳元に触れる。彼の腕の中こそが、梢にとって唯一の安らぎだった。

 しばらくのあいだ、縁側には二人の呼吸だけが重なっていた。夜風が庭の葉を揺らし、月明かりが深々と足元を照らしている。
 やがて、煌仁がふっと思いついたように、抱きしめる腕の力を緩めた。

「式は、いつがいい?」
「……式?」
「祝言」

 あまりにもさらりと言われて、梢は一瞬、言葉の意味を掴みきれずに固まった。数拍遅れて、その二文字が胸の奥に落ちてくる。

「あ……私が、煌仁様の、花嫁に……」
「梢が嫌なら、祝言は挙げなくてもいいと思っている」

 そう言いながらも、煌仁の声にはわずかな期待が滲んでいる。逃がさぬように繋がれた手のひらが、その証拠だった。

「嫌だんて、とんでもない。ただ……自分の白無垢姿が、全然想像できなくて……」
「俺は、一日でも早くお前の花嫁姿が見たいけどな」

 冗談めかした口調とは裏腹に、絡めていた指先がゆっくりと彼女の手の甲を撫であげる。色めかしい感触に、梢の肩がぴくりと震えた。
 彼女の反応にくすりと微笑んだ煌仁は、小さく息を吐く。

「梢の気持ちも、いろいろ落ち着いた時期でいい。季節が変わってからでも構わない」
「そんな、煌仁様が決めてくださって……」
「違う」

 梢の言葉を静かに遮る。

「これは二人のことだ。お前の気持ちを、置き去りにするはずないだろう」

 月夜に輝く翡翠の瞳に見つめ返され、梢の胸がきゅっと締めつけられる。「……でしたら」と、少しだけ考えてから、梢は小さく口を開いた。

「桜の頃……木の枝先に、たくさんの花を結びつける……そんな季節がいいかな、と思います」

 煌仁は一瞬目を見開き、すぐに柔らかく微笑んだ。

「いいな」
「……はい」

 再び引き寄せられた腕の中は、先ほどよりもずっと自然で、温かい。

「約束、な」
「はい。約束、です」

 風が二人の髪をさらりとなびかせて、夜の凛とした空気を運んでくる。
 見つめ合いながら、煌仁は梢のあごにそっと手を添えた。問いかけるように視線を落とし、彼女が目を伏せたのを見届けて──今度は、先ほどよりも深い口づけを交わした。
 彼の熱い吐息が肌に触れ、ほのかに甘い香りが鼻先をくすぐる。感じたことのない熱に、梢は思わず煌仁の羽織を握りしめて、身を委ねた。

 唇が離れたあとも煌仁は梢を離そうとはせず、愛おしそうに自分の額をこつんと彼女の額に重ねる。

「春になったら……本当に、俺の妻になるんだな」
「……ええ。家族に、なるんですね」

 梢は「家族」という言葉を噛み締めるようしながら呟いた。嬉しさと安らぎと幸福感が、染み付いて離れなかった過去を洗い流すようにあふれてくる。
 梢は胸に手を当てて、小さく息を吐いた。

「なんだか今夜はもう、眠れそうにありません」
「……なら、眠らなければいい」

 ふっと笑った顔にある翡翠の瞳が、月光を飲み込んだように艶やかに瞬いた。
 
「きゃっ……!」

 不意に身体が宙に浮き、梢は声反射的に驚きの声を上げる。気づけば、煌仁は彼女を軽々と抱き上げていた。
 
「……あっ、煌仁様……!」
「ここは冷える。部屋に、戻ろう」
「…………はい」

 梢が小さく頷いて身を預けると、煌仁は彼女の額に口づけを落として、静かに歩き出す。その背中は、軍を率いる当主のそれではなく、ただ一人の女性を大切に抱く男のものだった。

 部屋の窓から差し込む月光が、重なり合った二人の影を淡く照らす。やがて影は一つに交わり、深く溶け合っていった。
 かつて孤独だった彼女たちの長い夜が、ようやく終わりを告げる。寄り添う未来とともに、陽だまりのような春が始まろうとしているのだった。