応接間に残ったのは、静寂と柔らかな陽光。
梢は知らずのうちに息を吐いていた。胸の奥で長い時間澱んでいたものが、ゆっくりと抜けていく。
「よく言ったな」
「はい。……これで、ちゃんと前を向けます」
煌仁は短く頷き、彼女の手を握り返す。手のひらから伝わる温もりに導かれるように、梢は涙にぬれた瞳で煌仁を見上げた。
「煌仁様……。私を選んでくださって、ありがとうございます」
その言葉を聞いた煌仁の眼差しが、ふっと和らいだ。先ほどまで宝条家を震え上がらせていた、射抜くような冷徹な光はもうどこにもない。
「……違う。選ばれたのは、俺のほうだ」
大きな手のひらで梢の頭を引き寄せ、自分の胸に抱きしめた。
逞しい彼の腕の中。すべての不安が消え去り、安らぎだけが満ちていく。厚い胸板から伝わるのは、力強く速まった鼓動。それは、彼がどれほど熱く梢を想っているかの証のようだった。
「お前は、何者にも奪わせない。俺が守る。だから、ずっと俺の隣にいてくれ」
耳元に届くのは、震えるほどに優しい声。きっと、誰も触れることのできない彼の一番温かい場所に、自分がいる。そのことが誇らしいわけでも、優越感を覚えるわけでもない。胸がじんわりと熱を帯びて、幸福感であふれていく。
──この人は、こんなにも温かい。
その想いが、梢の心を焦がしていた。
「……はい。ずっと、お側に」
彼の胸に顔を埋め、力を込めて抱き返す。煌仁は愛おしそうに微笑んで、彼女をより深く腕の中に閉じ込めた。
窓から差し込むやわらかな日差しが、寄り添う影をそっと包み込む。残っていたのは、二人の確かな愛の音だけだった。
*
あの騒動から、数ヶ月の月日が流れた。
宝条家の没落は世間を騒がせたが、堂徳寺家の屋敷には、以前よりもずっと穏やかな時間が流れていた。
ある日の午後。梢は書庫で本を整理してるところだった。ひと息つこうと思ったところで、背後から音もなく現れた逞しい腕に、すっぽりと包み込まれる。
「……また本か。俺が戻ったことに、梢は全然気づかなかったな」
耳元で、わざと拗ねたような声で囁かれた。
軍を率い、堂徳寺家を束ねる当主としての彼は、今もなお冷静で、隙のない存在だ。命令ひとつで場の空気を変え、誰もが姿勢を正す──そんな威厳は、呪いが消えた今も変わらない。
変わったことといえば、かつて「呪いの狂犬」と忌み嫌われた英雄は今、その圧倒的な力で軍と家門を統べる「氷眼の軍神」として、周囲から畏敬と信頼を一身に集めていることだろう。もっとも、当の本人はその呼び名を聞くたびに、「俺はそんな物騒な目つきをしているつもりはないんだが……」と、少し不満げに零すのだが。
「あ、煌仁様。お帰りなさい。あと少しで終わりますから……」
「いいや、待てない。……梢、こっちを向け」
大きな手のひらで頬を包み込まれ、強引に視線を奪われた。
「少しくらい、俺のことも見てくれていいだろう」
外では決して見せない、甘えを隠そうともしない潤んだ翡翠の瞳が梢を見つめる。
「煌仁様……お顔が、近すぎます……」
梢が頬を赤らめながら視線を泳がせると、彼は逃がさないと言わんばかりに包み込む手に力を込めた。
「嫌か?」
「嫌だなんて……。その、まだ、慣れなくて。外での煌仁様と、あまりにも違うから……」
「外にいるときは、『堂徳寺家当主』の役目がある。だが……」
梢を振り向かせ、細い腰を引き寄せる。煌仁は至近距離で梢の瞳を覗き込んだ。
「お前の前でまで、仮面を被る理由はないだろう」
不意に真正面から向けられた煌仁の真剣な眼差しに、梢は一度ぱちくりと瞬きをする。頭の中で彼の言葉を反芻した瞬間。全身から熱が湧き上がったように、一瞬にして耳まで赤く染まった。
「……は、はい」
「なら、いい」
真っ赤になった顔を伏せがちにしながら、梢は小さく頷く。煌仁は満足そうに、ほんの少しだけ口元を緩めていた。
梢は知らずのうちに息を吐いていた。胸の奥で長い時間澱んでいたものが、ゆっくりと抜けていく。
「よく言ったな」
「はい。……これで、ちゃんと前を向けます」
煌仁は短く頷き、彼女の手を握り返す。手のひらから伝わる温もりに導かれるように、梢は涙にぬれた瞳で煌仁を見上げた。
「煌仁様……。私を選んでくださって、ありがとうございます」
その言葉を聞いた煌仁の眼差しが、ふっと和らいだ。先ほどまで宝条家を震え上がらせていた、射抜くような冷徹な光はもうどこにもない。
「……違う。選ばれたのは、俺のほうだ」
大きな手のひらで梢の頭を引き寄せ、自分の胸に抱きしめた。
逞しい彼の腕の中。すべての不安が消え去り、安らぎだけが満ちていく。厚い胸板から伝わるのは、力強く速まった鼓動。それは、彼がどれほど熱く梢を想っているかの証のようだった。
「お前は、何者にも奪わせない。俺が守る。だから、ずっと俺の隣にいてくれ」
耳元に届くのは、震えるほどに優しい声。きっと、誰も触れることのできない彼の一番温かい場所に、自分がいる。そのことが誇らしいわけでも、優越感を覚えるわけでもない。胸がじんわりと熱を帯びて、幸福感であふれていく。
──この人は、こんなにも温かい。
その想いが、梢の心を焦がしていた。
「……はい。ずっと、お側に」
彼の胸に顔を埋め、力を込めて抱き返す。煌仁は愛おしそうに微笑んで、彼女をより深く腕の中に閉じ込めた。
窓から差し込むやわらかな日差しが、寄り添う影をそっと包み込む。残っていたのは、二人の確かな愛の音だけだった。
*
あの騒動から、数ヶ月の月日が流れた。
宝条家の没落は世間を騒がせたが、堂徳寺家の屋敷には、以前よりもずっと穏やかな時間が流れていた。
ある日の午後。梢は書庫で本を整理してるところだった。ひと息つこうと思ったところで、背後から音もなく現れた逞しい腕に、すっぽりと包み込まれる。
「……また本か。俺が戻ったことに、梢は全然気づかなかったな」
耳元で、わざと拗ねたような声で囁かれた。
軍を率い、堂徳寺家を束ねる当主としての彼は、今もなお冷静で、隙のない存在だ。命令ひとつで場の空気を変え、誰もが姿勢を正す──そんな威厳は、呪いが消えた今も変わらない。
変わったことといえば、かつて「呪いの狂犬」と忌み嫌われた英雄は今、その圧倒的な力で軍と家門を統べる「氷眼の軍神」として、周囲から畏敬と信頼を一身に集めていることだろう。もっとも、当の本人はその呼び名を聞くたびに、「俺はそんな物騒な目つきをしているつもりはないんだが……」と、少し不満げに零すのだが。
「あ、煌仁様。お帰りなさい。あと少しで終わりますから……」
「いいや、待てない。……梢、こっちを向け」
大きな手のひらで頬を包み込まれ、強引に視線を奪われた。
「少しくらい、俺のことも見てくれていいだろう」
外では決して見せない、甘えを隠そうともしない潤んだ翡翠の瞳が梢を見つめる。
「煌仁様……お顔が、近すぎます……」
梢が頬を赤らめながら視線を泳がせると、彼は逃がさないと言わんばかりに包み込む手に力を込めた。
「嫌か?」
「嫌だなんて……。その、まだ、慣れなくて。外での煌仁様と、あまりにも違うから……」
「外にいるときは、『堂徳寺家当主』の役目がある。だが……」
梢を振り向かせ、細い腰を引き寄せる。煌仁は至近距離で梢の瞳を覗き込んだ。
「お前の前でまで、仮面を被る理由はないだろう」
不意に真正面から向けられた煌仁の真剣な眼差しに、梢は一度ぱちくりと瞬きをする。頭の中で彼の言葉を反芻した瞬間。全身から熱が湧き上がったように、一瞬にして耳まで赤く染まった。
「……は、はい」
「なら、いい」
真っ赤になった顔を伏せがちにしながら、梢は小さく頷く。煌仁は満足そうに、ほんの少しだけ口元を緩めていた。



