軍服の吸血鬼は、ただひとりの花嫁に愛を捧げる


 煌夜は紬を抱いたまま、再び佐伯家の三人を見据えた。その瞳には、容赦のない冷たさが宿っていた。

「ちょうどいい。ここでお前たちと決着をつけよう」
 煌夜の声が会場に響き渡った。静かだが、隅々まで届く声。
「佐伯家は、軍の資金の横領(おうりょう)を行っていた。その証拠は、すでに軍上層部に提出済みだ」

 当主の顔色が、変わった。
「な、何を……」
「去年の秋から今年の春にかけて、軍に納入する物資の代金を水増しし、差額を着服していたな」
 煌夜の声は淡々としていた。会場がどよめく。

「そんな、馬鹿な……何を根拠にそんなデタラメを」
 当主が後ずさった。血の気を失った顔が、白蝋のように固まっていく。

「証拠は、すべて揃っている」

 煌夜の声は、低く静かだった。怒鳴ることも責めることもない。それがかえって、冷たい刃のように会場の空気を切り裂く。
「佐伯家は、本日をもって軍との取引を停止される。当主は、軍法会議にかけられるだろう」

 佐伯家の当主は、反論する言葉を探しているようだった。
 ――その視線が、ほんの一瞬だけ不自然に、会場の奥へと流れた。

(父の心の奥に、狂気の色が灯っている……)
 紬は心の色に気がついた。追い詰められた獣が最後の力で牙を剥くような危うい、暗い色だった。

「……ちっ! お前さえ居なくなれば、なんとでもシラは切れる」
 父の心が真っ赤に燃えている。そして会場の端に立つ見知らぬ男たちも、同じ色に染まっていた。
 濁った赤。腐った果実のような、粘ついた赤。それは憎しみと殺意の色だ。

(……あの人たちは、煌夜さんを襲うつもりだ――)

 血の気が指先から引いていき、足がすくんだ。
 会場の端、柱の影に潜んでいた人影が音もなく煌夜の背後へと迫る。
 紬の喉が詰まった。けれど、声を出さなければ。

「煌夜さん――危ない!」
 紬の声が会場に響いた。

 声に反応し、煌夜は振り返りざま身を捻った。身体が、一瞬で動く。
 その直後、煌夜が立っていた場所を刃が通り過ぎた。

「会場の端に……まだ他にも。大勢があなたを狙っています。同じ、濁った色をして……!」

 紬の言葉に、煌夜の瞳が会場を見渡した。
「……やはり、か」
 冷えた夜気を含んだような、微笑み。まるで夜の底から浮かび上がってきたように、煌夜は不敵な笑みを浮かべた。

「君は、怪我をしないように下がっていてくれ」
 その手が紬の背にそっと触れる。一歩、後ろへと促す。指先の力はごく僅かで、けれど有無を言わせぬ静けさがあった。

 四方から、刃が光った。
 刺客たちが取り出した短刀や軍刀。灯りを受けた鋼が鈍く煌めき、女性たちの悲鳴が波のように広がる。
「死ね、黒い狼ッ!」

 煌夜は動じなかった。ただ静かに腰の日本刀へ手をかける。その所作には、焦りのかけらさえない。深く澄んだ湖面のような静謐さで、ゆっくりと刃を抜く。

 次の瞬間、煌夜の姿が揺らいだ。
 速い――あまりにも速くて、紬の目では軌跡すら追いきれない。黒い軍服が影のように流れ、最初の刺客が声もなく膝をついた。

 二人目が、刃を振り上げたまま糸の切れた人形のように崩れ落ちる。

「……ば、化け物……だ!」
 三人目は刀を引くより早く、壁へと縫い止められた。そうやって十人の男たちが、次々と倒れて行った。

 紬は呼吸を忘れてその様子を見ていた。
 煌夜は――美しかった。
 命のやり取りの最中だというのに、その動きは流れるように滑らかで、無駄がなく、恐ろしいほど静かだった。

 夜の闇そのものが人の形をとり、ただそこに在るような凄みがあった。白い外套の裾が翻るたび、暗がりの中で紫の瞳が、深く、紅く妖しく光る。

 気づけば会場に静寂が戻り、刺客たちは全員、音もなく床に伏していた。煌夜の黒髪に乱れたひとすじもなく、その白い外套にも塵ひとつ落ちていない。

 ゆっくりと刀を納めながら、煌夜が紬に向けて振り返った。

「怪我はないか、紬」
 短く、静かな問いだが、声には紬への深い心配が滲んでいた。
 煌夜の紫の瞳が、紬の顔を覗き込む。月光を宿したその瞳に、紬への切実な心配が映っていた。

「……はい。大丈夫です」
 紬の声が小さく届くと、煌夜の手が紬の頬に触れた。その指先が、わずかに震えている。
「本当に、どこも痛くないか」
 煌夜の声が、途切れる。その声にはいつもの冷静さが失われていた。

「煌夜さんが、私を守ってくれましたから」
 紬の言葉に、煌夜の瞳がわずかに揺れた。煌夜の腕が、紬をそっと抱き寄せる。

「紬、ありがとう。君の力が、俺を救ってくれた」

 今夜、忌み嫌われてきた力が、煌夜を守ることに繋がった。紬は心の色が見える力で、周囲の者たちの悪意を煌夜に告げたのだ。
 煌夜から、かけられた言葉に紬の胸が熱くなった。

「いつも疎まれていた、この力が……」
 紬の声が途切れ、喉が詰まる。

 煌夜の指先が紬の頬にそっと触れた。冷たい指先が、優しく頬を撫で、彼の瞳が紬を見つめていた。

「……煌夜さん。私の力が……少しでも、あなたのお役に立てたなら嬉しいです」
 紬はそっと微笑んだ。

 煌夜の紫色の瞳が、溶けるように柔らかな眼差しで紬を見つめていた。
「君の力はこの世で最も美しい光だ。そして、その力を持つ君はさらに美しい」

 彼の言葉に紬の掌がそっと胸に当てられた。それはいつか月の下で感じた安堵と、どこか似ていた。
 けれど、あの時とは違う。紬はもうひとりではなかった。




 会場の奥から軍服の男たちが現れ、将校が深く敬礼した。
「大佐、佐伯家の対象者を、確保完了しました」
「ご苦労」

 煌夜の視線が、ゆっくりと当主へと向いた。
「……ひっ!」
 その眼差しひとつで、佐伯家の当主の膝が震えた。重く湿った音を立てて、床に崩れ落ちる。

「……ま、待ってください、霧生大佐。これは誤解です!」
 当主の声が悲鳴のように響いた。這いつくばり、煌夜の足元へと這い寄る。その姿は先ほどまでの威厳のかけらもなかった。

「どうか、どうかお許しを! 私は、紬のためを思って――」
 母は蒼白な顔で床に手をつき、嗚咽を漏らしている。

「全部、父と母が勝手にやったこと。私は何も知らないわ!」
 紬の姉の杏は、名指しで両親を指差した。
「この裏切り者が! お前も私が不正で稼いだ金で、贅沢を楽しんでいたではないか」
 醜い言い争いが、会場に響いた。

 煌夜の視線が、ゆっくりと佐伯家の三人へと向けられる。瞳には一片の慈悲もない。地を這う虫けらを見るような冷たさだった。

「……」
 紬は、目の前で繰り広げられる家族の醜態を見つめていた。

(心の色が見える……欲望に塗れた泥色。猜疑心の深緑。錆びついた黄土色。かつて、家族と呼んだ人たち――)
 紬の瞳が深い悲しみに染まった。唇を噛み締め、静かに俯いた。
 煌夜の手が、そっと紬の肩に触れた。

「お前たちが、紬を傷つけた罪」
 煌夜の感情を削ぎ落とした、冷えた声だった。だからこそ言葉は重く、静かに夜の底へと沈んでいく。

「そして、この俺に刃を向けた事をすべて償ってもらう」
 紫の瞳が、一瞬だけ紅く光った。

 三人の動きが止まる。そこには先ほどまで紬を嘲笑っていた姿は、どこにもなかった。
「ひ、ひぃっ……! お許しを……!」
 床に這いつくばった彼らの姿は、見るも無残だった。

 佐伯家の三人は、将校たちに連行されていった。その姿は醜悪そのものだった。自らの悪行を顧みることもなく、ただひたすら己の正当性を泣き喚く声が、遠く夜の闇へと溶けていった。

 紬の指先が小刻みに震えた。
(終わった……あの家との、すべての繋がりが)
 実感がようやく胸の奥へと染み入ってくる。けれど同時に、身体の芯が冷えていくようだった。

「行こう」
 煌夜の腕が、紬の肩をそっと抱き寄せる。彼の声に、紬の震えが少しずつ静まっていく。紬は小さく頷いた。

 月光に照らされた白い外套が、肩に掛けられる。布地が身体を包み込んだ瞬間、煌夜に残された僅かな温もりが、紬を守るように染み渡った。

 彼の仕草は、凍えていた紬の内側を溶かしていくように、優しかった。

「寒くないか」
「……はい。大丈夫です」

 二人は会場を後にした。
 隣を歩く煌夜の月明かりに浮かぶ姿。紬には何よりも力強く、頼もしく見えた。

 紬は外套を握りしめた。そして、――ふと気がついた。
(ひょっとして、今夜の夜会は……私を救うために)

 煌夜が佐伯家の罪を暴いたのは、すべては紬を救うため。紬を彼らから自由にするためだったことに。

(……あなたは、私のために)

 夜会の喧騒が音を失っていく。庭園に満ちる静寂と夜の深淵が、周囲を包み込んだ。
 紬は、ようやく深く息を吸い込めた。冷たい夜気が肺を満たしていった。

「紬……」
 煌夜が自分の名を呼ぶ声が、静かに聞こえた。

 紬が顔を上げると、紫の水晶のような瞳が紬を見つめていた。彼の眼差しには、深い想いが揺れていた。

「もう、紬を脅かす者はどこにもいない。……君を縛っていたあの実家も、過去も」
 煌夜の声が夜気に溶けていく。
 どこまでも優しく、けれど、――寂しげにも聞こえる声だった。

「だから、今後は俺に従う義務はない」
 煌夜の言葉が、紬の胸に降りてくる。

「明日になれば、好きな場所へ行くといい……君は自由だ」

 紬の指先が無意識に胸元へと伸びた。着物の布が、指の中で小さく皺になる。
(なぜだろう。胸の奥が、ひどく痛い……)

 まるで、大切な何かが零れ落ちていくような――そんな痛みだった。

 月が、雲間から顔を出す。煌夜の横顔を照らした光が、儚く美しかった。白い外套が月光を纏い、彼の黒髪をさらに際立たせている。

「……煌夜さん」
 紬は彼の心の色を見た。
 深い紅に黒が混じっている。孤独の色が、夜の闇のように深く揺らいでいた。

 そして、その奥にきらきらと透き通るように輝く透明な色。
 まるで、誰にも触れられない場所で、ひとり佇んでいるかのような――そんな色だった。

(この色は……)
 紬の呼吸が浅くなる。
 遠い記憶の底で、同じ色を見た。

「……私を、解放してくださるのですか」
 紬の声が揺れた。夜気に消えていきそうなほど細くなり、喉が締め付けられる。 

「ああ、そうだ」
 煌夜が紬を見つめている。彼の眼差しは紫水晶の奥で揺れる光のようで、紬という存在だけをその深みに映し続けていた。

「でも……あなたの心の色は」
 紬の声が、かすれる。

「とても寂しそうな色をしています。まるで、あの夜に出会った……」
 紬の声が途切れ、心臓が大きく跳ねる。

 記憶が蘇ってくる。月の夜の木の下。そして深い紅と黒が混じり合った、あの寂しげな色。

『お兄ちゃんの心の色は、とても綺麗だから』
 幼い自分の声が、記憶の中で響いた。あの時、怖がって逃げ出した後また戻って行った。

 それは、彼の心の色の奥に『透明な光』が揺れていたから。――孤独と寂しさの奥に、誰よりも優しく、透き通った美しい光を。

「輝くような透明な色……まさか、あなたはあの時の……」

 紬の瞳から涙が零れ落ちた。煌夜の輪郭が涙で歪んでいく。
 煌夜の睫毛が、ほんの少しだけ伏せられた。その影が白い頬に落ちている。

「君だけだった」
 煌夜の声には、長年抱えてきた孤独が滲んでいた。

「俺を化け物と呼ばず、心の色が綺麗だと言ってくれたのは」
 煌夜の指先が、わずかにふるえていた。

「あの言葉が、絶望の底にいた俺をどれほど救ってくれたか――」

 彼の声が途切れた。長い年月をかけて積み重ねられた想いが、言葉のひとつひとつに重く滲んでいる。

「……覚えて、いてくださったのですか」
 紬は涙を止めることができなかった。

「忘れられるわけがない。君の声も、笑顔も、温もりも――すべてが、この身に刻まれている」
 煌夜の声が囁くように響く。その手が紬の手を取った。冷たい指先が、紬の温もりを探るように重なる。

「紬は俺にとって、たったひとつの光だった。今も、これからも」
 紬の喉が熱く詰まり、息がうまくできない。

「……出会った時から、俺はずっと紬を見守ってきた。だが、君の前に現れてはならないと……紬の人生に、俺という闇を持ち込んではならないと思っていた」
 煌夜の声が夜風に溶けていく。

「けれど、君があの場所で金で値踏みされると知った時……もう、耐えられなかった」
 煌夜の声が、かすれた。

「君を他の誰かに渡すくらいなら、この手で君を奪い去ってやると……そう思った」
 抑えきれない感情が、言葉の端々から零れ落ちる。

 紬の胸が熱くなり、涙がまた溢れた。

「……あなたの心は、あの夜と同じ優しい色をしています。ずっと綺麗なまま――」
 紬は煌夜を見上げた。紫の瞳が揺れている。その瞳には、迷いと、恐れと、そして深い愛情が映っていた。

「……あなたは、私に自由をくれました。けれど――私が選ぶ自由も、くださいますか」

 紬の声が庭園に静かに響く。煌夜の瞳が、大きく見開かれた。その瞳に驚きが浮かぶ。

「私は、あなたの傍にいたい。あなたの花嫁になりたい」

 紬は自分のほおに添えられた煌夜の手を、両手に取り包み込んだ。彼の冷たい手を、自分の温もりで包むこみように。

「これは、誰かに強いられた選択ではありません。私が、自分で選んだ答えです」
 紬の声には、確かな意志が宿っていた。紬の手が煌夜の手をぎゅっと握りしめる。

 煌夜の喉が詰まった。

「……本当に、いいのか。俺は――」
 その声には恐れがあった。信じられないという想いと、希望が滲んでいた。

「ええ」
 紬が、涙で濡れた顔で微笑む。
「あなたは私にとって、もう一度会いたいと願い続けた方ですから」

 その言葉を聞いた瞬間、煌夜の腕が紬を抱き寄せた。強く、そして優しく、二度と手放すまいとするように。紬の身体が、煌夜の胸元に包まれた。

「……もう、離さない」
 煌夜の力強い声が、紬の心に届く。

「君は俺の花嫁だ。この世で、たったひとりの――」

 紬は煌夜の腕の中で顔を上げた。紫の瞳が紬だけを映している。彼の眼差しに、もう迷いはなかった。ただ紬への深い愛情だけがあった。

 紬の目が、そっと閉じられた。
 庭に咲く花々が夜風に揺れている。その香りが、甘く二人を包み込んだ。
 紬は煌夜の腕の中で、生まれて初めて――本当の安らぎを感じていた。

「煌夜さん……」
 紬の唇が、小さく動いた。

「……ずっと、俺のそばにいて欲しい」
 煌夜の声が優しく応える。彼の胸に顔を埋めたまま、紬が囁く。

「ええ。あなたと共に」
 煌夜の腕が紬を抱く力を強める。紬の身体が、さらに煌夜の胸元へと引き寄せられた。

「君のすべては俺のものだ。もう二度と、離さない」
 煌夜の手が紬の髪に触れる。その仕草は、大切な宝物を慈しむようだった。 

 紬は煌夜の腕の中で顔を上げた。月明かりに照らされた煌夜の横顔が、いつもより穏やかに見える。

 ――あの時、欅の木の下で出会った少年と同じ、孤独に震えていた彼が、今は微笑んでいる。
 紬は煌夜の心の色をもう一度見た。

 深い紅。そして、孤独を示していた黒が少しずつ薄れて、代わりに透明な光が広がっていた。それは誰よりも温かく、優しい光。

「煌夜さんの笑顔が……とても素敵です」
 紬が囁くと、煌夜の瞳が揺れた。

「……君が傍に居てくれると、笑う事が出来るんだ」
 自分でも信じられないとでも言うように、煌夜の声は、驚きに満ちていた。 

 煌夜の腕の中で、紬は幸せそうに微笑んだ。

「私は、あなたの花嫁です。これからも、ずっと」
 紬は目を閉じた。――もう、怖いものは何もない。二人で共にいられるのだから。

 煌夜の指先が紬の顎をそっと持ち上げる。冷たい指先が、紬の肌に触れた瞬間、身体の芯が震えた。
 唇に、口づけが落とされる。
 それは深く、熱を帯びていて、紬の呼吸が止まる。煌夜の唇と触れ合う場所が、熱く溶けていくようだった。

 紬の指先が煌夜の軍服の袖をぎゅっと掴む。膝から力が抜けて、身体が傾いた。
 煌夜の腕が、崩れ落ちそうな紬をしっかりと抱きとめる。

「紬だけを愛している」
 煌夜の腕が、紬をさらに深く抱きしめる。

「君は俺の光だ。永遠に消えない、たったひとつの――」

 耳元で囁かれた声が、紬の全身に染み渡っていく。紬は、煌夜の胸にそっと顔を埋めた。黒い軍服に顔を押し当てると、わずかに冷たい夜気の匂いがした。
 紬の目から、ひとすじの涙が零れ落ちた。それは幸せな温かな涙だった。

 月の夜に交わした約束が、ふたりを永遠に結びつけた、優しい夜の物語。