軍服の吸血鬼は、ただひとりの花嫁に愛を捧げる


 煌夜の執務室に、月明かりが満ちていた。
 窓の外、帝都の夜空は雲ひとつなく澄んでいる。煌夜の黒い軍服は、夜と一体になるように闇に溶け込む。

「彼女の実家――佐伯家の動きは?」
 振り返らぬまま、煌夜は問う。声は低く、穏やかで、感情の色をほとんど帯びていない。

「大佐の予測通り、刺客(しかく)を雇った形跡があります」
 彼の屋敷に報告に訪れた部下の声が、かすかに緊張を帯びていた。

「佐伯家の当主は――紬さまが、大佐のもとへ渡ったその翌日から、動き始めたようです」
「……横領(おうりょう)の件が、露見(ろけん)したと思ったのだろうな」
 煌夜の声は静かだった。

「おそらくは。紬さまが大佐に、なにかを漏らしたと」
「夜会で仕掛けてくるだろう」
 当然の帰結として、煌夜はそう告げる。

「会場の警備は、どうされますか?」
「万全にしろ。ただし――表に出すな。奴らが動くまで、泳がせろ」
「……了解しました」
 部下が深々と一礼して退室した。扉が閉まる音が、遠くなる。

 煌夜は、ゆっくりと息を吐いた。
「紬を傷つけた佐伯家の者たちには、必ず(つぐな)わせる」




 帝都の中心地に、そびえる帝国ホテル。今夜は華族や政財界の重鎮たちを集めた夜会が、盛大に開催されている。この夜会に招かれるのは誰もが憧れる、最高の名誉だった。

 天井から吊るされた硝子細工のシャンデリアが、無数の星のように会場を照らしている。
 軍服に身を包んだ将校たち、実業家の青年、絹のドレスを纏った華族の令嬢たちが、金と銀の装飾に彩られた空間を行き交っていた。

「……私は、あの……場違いではないでしょうか」
 会場は、目が眩むばかりの煌びやかな光に満ちていた。紬は、その光景に躊躇する自分の気持ちを抑えきれなかった。

「緊張しているのか」
 低く囁かれた声が、耳朶を撫でる。紬は思わず顔を上げた。
 月光を宿したような紫水晶の瞳が、紬だけを見つめている。

「……はい」
 紬の声が、か細く漏れた。
 煌夜の唇がわずかに綻ぶ。その表情に紬の胸の奥が熱を持つ。

「俺の隣にいる君が、この世で最も美しい。それだけで十分だ」

 煌夜の言葉が、紬の胸に落ちた。
 耳が一気に熱くなる。顔全体が、火照っていくのが分かった。

「そ、そんな……私は」
 紬の指先が、煌夜の腕をぎゅっと掴む。
 恥ずかしさと緊張で、息がうまくできない。喉の奥が、熱く詰まっていた。

 煌夜の腕の感触だけが、やけに鮮明に伝わってくる。
「……っ」
 紬は俯いた。けれど、煌夜の腕を掴む手は離せなかった。

 そんな紬の様子を案じたのか、煌夜の指が紬の手の上に重ねられた。冷たい指先が揺れる手を包み込む。
 大切な宝物を扱うような仕草に、紬の心臓がさらに跳ねる。

(……煌夜さん)
 彼の方に、そっと視線を上向けてみる。
 煌夜はこの場で最も目を引く存在だった。

(整った顔立ち、切れ長の紫色の瞳、夜の闇よりも深い漆黒の髪……)
 どこを見ても、美しいとしか言いようがない。

 方耳に揺れる耳飾りが、光を受けて煌めいている。その華麗な姿は、闇夜に降り立った夜の化身を思わせた。

 紬の胸に残るのは、その美しさだけではなかった。紬の手をそっと包み込んでくれる彼の指先。
 壊れ物を扱うような慎重な力加減。彼の自分を気遣ってくれる優しさに触れるたび、紬の胸は温かくなる。

 煌夜の腕に支えられ、紬は会場へと足を踏み入れた。

「あれは、――霧生大佐だ」
 誰かが声を上げると会場の視線が、一斉に二人へと注がれる。人々の視線が煌夜に対し、畏怖(いふ)と、憧憬(どうけい)と、恐怖を湛えて集まっている。
 ざわめきが波紋のように広がっていった。

「噂の女性を、連れているぞ」
 囁き声が紬の耳に届く。だが、煌夜はそれらの視線をまるで意に介さない様子で、紬を導いていく。

「霧生大佐。お待ちしておりました」
 会場の奥から、部下である将校たちが近づいてくる。声がかけられると煌夜は足を止め、わずかに顎を引いた。

「手はずは整っております。標的はすでに会場内に」
 将校が小声で告げる。その視線が紬へと向いた。

「こちらのご令嬢は……噂の方ですね。初めて正式にお目にかかります」
 紬の身体が、わずかに強張る。口を開きかけた刹那、煌夜の腕が彼女の腰を引き寄せた。

(えっ……!)
 紬の呼吸が乱れる。抱き寄せられた腕のたくましさに、ほおへと熱が上った。

「――俺の花嫁だ」

 煌夜の声が静かに響く。
 将校たちの間に、ざわめきが広がった。霧生大佐に花嫁が。そういった浮いた話など、ひとつも聞いたことがなかったのに、――と言った驚きの色が、その表情に浮かんでいる。

 紬の身体が彼の胸元へと収められた。軍服の硬い感触が、紬の背を支える。月光に照らされた煌夜の腕が、まるで紬を守るように彼女を包み込む。

(こ、煌夜……さん……花嫁って)
 紬は顔から火が出そうになった。赤く染まっていく自分の表情を隠すように、顔を伏せる。

(こんなに、……大勢の人の前で、彼に抱き寄せられ、宣言されるなんて……)
 煌夜の胸元に触れると、彼の低い体温と自分の熱が溶け合うような、感覚に襲われた。

「彼女と言葉を交わす前に、俺の許可を得ろ」
 紫の瞳が冷たく輝く。その眼差しだけで、将校たちの背筋に冷たいものが走った。

「……失礼いたしました。で、では後ほど」
 将校たちが、後ずさるように立ち去っていく。
 紬の顔は、まだ熱い。煌夜の腕に包まれたまま、息をすることさえ忘れていた。

「あ……あの、私」
 煌夜の指先が、紬の頬にそっと触れた。冷たい指が、火照った肌を優しく撫でる。

「紬は、俺の傍にいればいい」

 その言葉に、紬のほおがさらに熱を帯びる。
 窓から差し込む月光を映して、彼の瞳が優しく細められた。煌夜の瞳は紬だけを映す鏡のようだ。
 紬が胸に手を当てると、心臓が激しく早鐘を打っていた。

(このままでは、煌夜さんに自分の胸の高鳴りが聞こえてしまう……)
 紬は俯きながら告げた、顔を上げられなかった。煌夜の瞳を見れば、また心臓が跳ねてしまう。

「あの……少し、お化粧を直してまいります」
 紬はふるえる声で告げた。煌夜の瞳が、細められ優しく紬を見つめる。

「すぐに戻ります」
「ああ。待っている」
 紬は、会場の隅と足を向けた。少しだけ、この高鳴りを落ち着かせたかった。




 給仕をしていた使用人に化粧室の場所を尋ねる。だが、背中に投げつけられた聞き覚えのある声が、紬の背筋を凍りつかせた。

「なぜ、お前がここにいるんだ」

 紬は、恐る恐る振り返った。そこに立っていたのは、佐伯家の当主で、紬の父だった。
 豪商として名を馳せ、軍部の社交界にも顔を出す男。実の娘の紬を、金で売った父。

「……!」
「おや、まだ生きていたのか。驚いたな」
 父の声は紬への侮蔑を含んでいた。声には、あからさまな冷酷さが滲む。

「お父さん……」
 父の隣には、母と姉が立っていた。三人とも社交界に相応しい贅を尽くした装いをしている。  

 紬を売り飛ばした金で、借金を返し、豪奢な生活を取り戻したのだろう。こうしてまた夜会にも平然と足を運んでいる。
 彼らは紬を値踏みするような、笑みを浮かべていた。

「ねえ。家族に売られた気分というのは、どんな感じなのかしら?」
 姉の杏が、紬を嘲るように言った。心をえぐる言葉を平然と口に上げる。

「まあ、まだ死んでいないのね。それとも、ただ捨てるのが面倒なだけかしら」
 母が紬を小さな虫でも見るような目で見た。

「黒い噂の多い男だ。あの軍人は冷酷で知られている。毎晩どんな扱いを受けてるんだ? ――面白そうだな。聞かせてくれ」

 佐伯家の当主である父が、疑いを込めた鋭い視線を、紬に向ける。
「お前は、まさか我が家の商売について、霧生大佐に余計なことを言ったのではあるまいな?」

 彼らの言葉が、鋭い(とげ)となって紬の胸に突き刺さる。

(痛い。苦しい)
 けれど、声にならない。紬の身体が真冬の極寒のようにふるえる。辛い記憶が蘇る。

『化け物』
『お前なんて、生まれてこなければよかった』
『気味が悪い』

 家族から浴びせられ続けた、数え切れないほどの罵倒(ばとう)。愛されたことなど、一度もなかった。求めても、求めても、何も返ってこなかった。

「それにしても、お前でも役に立つことがあったんだな」
 父が心底愉快(ゆかい)そうに笑った。
「お前を売った金で、借金も全て返せた。おかげでこうしてまた夜会にも顔を出せる」

 姉が声を上げて笑った。
「お前が生まれて初めて、家の役に立ったわね」
「化け物の娘に、ようやく使い道があった。高値で売れて本当によかったわ」

 紬は唇を噛んだ。声が、胸の奥でかすれ出てこない。身体が動かない。ただ、過去の恐怖が紬を縛りつける。

「どうした、返事もできないのか。相変わらず使えない娘だ」
 自分を侮蔑の眼差しで見ている家族の姿に、紬は立っているのも、やっとだった。膝が砕けそうになる。紬の視界が揺らぎ、涙が溢れそうになった。

 でもここで泣いてしまえば、また嘲笑われる。紬は、揺れる唇を必死に噛み締めた。
 指先がドレスの裾をぎゅっと握りしめた。

 ――その時だった。

「彼女に、俺の許可なく話しかけるな」
 低い声が、紬の背後から降ってきた。紬の息が喉の奥で止まる。
 煌夜がいつの間にか、紬の背後に立っていた。

「こ、こう…………や、さ」
 かすれる唇が、やっとのことで彼の名を紡ぐ。

「紬。俺の隣へ」

 白い外套が紬を庇護し、包み込むように広がった。
 低く囁かれた自分の名前に、紬の身体から力が抜ける。彼の言葉に紬は頷いた。

 煌夜の腕が、紬の腰に回された。そのまま、彼の傍へと引き寄せられ、紬の身体が煌夜の胸に預けられた。
 煌夜の腕に包まれた瞬間、紬の喉から小さな息が漏れる。

「……よく、彼女の前に顔を出せたものだ」
 煌夜は紬を抱いたまま、佐伯家の三人を見下ろした。
 紫の瞳が、氷を湛えたように冷たく光る。

 煌夜の怒気を感じ取ったのか、佐伯家当主が慌てて弁明を始めた。
「ま、待ってください、霧生大佐。娘が、何をあなたに伝えたのかは知りませんが、これが言うことはデタラメで……」

「――娘だと?」
 煌夜の声が、一段と低くなる。

 紬の身体を抱く腕に、静かな力が込められた。凍てつくような冷気が、会場の空気を凍らせる。
「彼女を娘と呼ぶ、資格があるのか」

 ざわめいていた会場が静まり返った。人々の視線が、一斉に煌夜へと注がれる。

「紬は、もう俺の花嫁だ」

 煌夜の腕が、紬をさらに深く抱き寄せた。
 紬の胸の奥が、熱く波打つ。煌夜の言葉が胸に響いていた。
「お前たちとは、すでに何の関係もない」

 煌夜の言葉が会場に静かに木霊する。
 紬の指先が、煌夜の軍服をぎゅっと掴んだ。喉の奥が熱く詰まっていく。

「紬」
 煌夜の声が優しく降ってくる。自分の名を呼ぶ声。それだけで、紬の喉がさらに熱く締めつけられた。
「顔を上げろ」

 紬は恐る恐る顔を上げた。
 涙で揺らぐ視界に、紫の瞳が映る。煌夜の瞳が真っ直ぐに、紬だけを見つめていた。
「君が泣く必要など、どこにもない」

 煌夜の指先が、そっと紬の涙を拭う。それは羽が頬を撫でるように優しかった。

「紬。――君は、俺が守る」

 その言葉が、紬の胸に染み込んでいく。

(煌夜さんの……言葉が、温かい)
 家族からの言葉で傷つけられた胸が、彼の優しさで熱く満たされていく。煌夜の言葉が、紬の全てを包み込んでいた。

(家族に捨てられ、売られた……)
 あの時の絶望が、紬の胸に蘇る。
(けれどそんな自分を、今、煌夜さんは守ると言ってくれた。この人は私を守ると――)

 紬の視界が滲んだ。涙が頬を伝い、煌夜の胸に静かに落ちる。
(泣いては、いけないのに……)
 けれど、溢れ出す涙をどうしても止められなかった。