軍服の吸血鬼は、ただひとりの花嫁に愛を捧げる


「――申し訳ございません、霧生さま」
 老執事の声が、書斎の静寂を破った。
 煌夜は窓辺に立ったまま、振り向きもせず、無言の許可だけを示した。

「お訊ねしてもよろしいでしょうか」
 執事の声音に、わずかな躊躇いが滲む。
「ああ」
 短い言葉だが、拒絶ではない。執事は深く息を吸い込んだ。

「なぜ、お連れになられたあの方を……下僕になさらなかったのですか」
 長年この屋敷に仕えてきた執事は、煌夜の正体を知る数少ない人間のひとりだった。

「これでは、まるで……本当の『花嫁』のように見えてしまいます」
 煌夜は、ゆっくりと振り返った。月光が横顔を冷たく照らし出す。

「彼女は、俺にとって、ただひとりの女性だ」
 執事の息が飲み込まれる。

「下僕など欲しくはない。意志を奪われた人形に、何の価値がある」
 煌夜の声に、わずかな棘が宿った。

「彼女の笑顔も、怯えも、すべて――彼女自身の意志から生まれたものでなければ、意味がない」

 煌夜の指が胸元を押さえる。心臓はもう幼少期の頃に止まったはずだった。なのに、そこには名前のつけられない疼きがあった。
 拳をゆっくりと握りしめた煌夜の声が、揺れる。

「俺が尊ぶのは彼女の魂だ。紬の心――彼女の、すべてだ」
 月が雲に隠れていき、書斎が深い闇に沈んだ。

「俺が、それを奪うことは決してない」
 煌夜の瞳だけが、暗闇の中で紅く光っていた。

「――たとえ、彼女が自らの意志で、俺を『拒絶』したとしてもだ」

 執事は、主人の意思に納得したように深く頭を垂れた。
 煌夜は再び窓の外へ視線を向けた。紬の部屋に明かりが灯っている。小さく温かな光。

「来週、日曜日の夜に行われる夜会へ、彼女も同行してもらう。準備を整えておけ」
「かしこまりました」

 執事が書斎を出ていき、扉が静かに閉じられる。煌夜は、紬の温もりをまだ忘れられずにひとり、闇に立っていた。
 窓硝子に映る自分の姿が、どこまでも遠かった。そこに映るのは、人の形をした何か。

(――俺は、紬と同じ世界にいない) 
 指先を見つめる。さっきまで確かにあった、彼女の柔らかな感触。けれどもう掴むことが出来ない。

 煌夜の身体は、温もりを留めておくことができなかった。触れた瞬間は確かに感じるのに、すぐに零れ落ちていく。
 いつから、触れたものの感触が消えてしまうようになったのだろう。




 戦場に立つたび、煌夜は何かを失っていった。
 感情が少しずつ削り取られていく。それが、彼の日常だった。

「俺は、人を殺すために生まれた。いや――生まれたのではない。作られたのだ」
 煌夜の声が夜気に溶けていく。

 帝国の敵を屠る刃として。夜に紛れ、喉を裂き、血を啜る化け物として。
 敵も、味方も煌夜を恐れた。
 人の姿をしていても、彼は人ではない。感情を持つことも、誰かに触れることも、許されない存在。

 煌夜の指先が、窓枠を撫でた。冷たい硝子が彼の体温を奪っていく。いや――もともと、この身に温もりなどない。

「いつしか、自分が何のために生きているのかさえ、わからなくなった」

 煌夜の瞳が、虚空を見つめる。
 戦場で血を流すたび、心の何かが欠けていく。いつか、この胸に何も残らなくなる日が来るのだろうか。

「――そう思っていた。あの夜、月の下で彼女に出会うまでは」
 煌夜の喉が、わずかに詰まった。

『お兄ちゃんの心の色は……誰よりも、綺麗』
 小さな声が、煌夜の胸を()くように()み込んだ。

 化け物と呼ばれ続けた彼の心を、彼女は綺麗だと言った。あの小さな手が、怯えることなく自分に触れた。黒い瞳が、恐怖ではなく安堵を湛えて自分を見上げた。

「その言葉が、俺の中で小さな灯火のように燃え続けた。心が凍りつきそうになるたび、俺はあの言葉を思い出した……」
 煌夜の声が、わずかに震える。

(――ああ、まだ俺は人でいられるだろうか)
 紬が綺麗だと言ってくれた心を、まだ持っているだろうか。

 刀を振るうたび、煌夜は自分に問いかけた。紬の言葉だけが、崩れゆく自我を辛うじて繋ぎ止めていた。

 それから、煌夜は彼女を見守るようになった。
 豪商の屋敷の塀の外で、煌夜は紬の姿を見上げた。
 ひとりでぽつんと月を見上げる彼女。

 けれどその表情は、あの夜よりも暗く沈んでいた。笑顔を見せることもなく、ただ俯いて庭を歩いている。
 時折、家族に罵られる声が聞こえてくる。紬の小さな背中がふるえているのが見えた。

 煌夜の拳が、音もなく握りしめられた。
 ――助けたい。手を伸ばしたい。あの小さな肩を、抱きしめてやりたい。
 けれど、煌夜は動けなかった。塀の外から、ただ見つめることしかできなかった。

「手を伸ばせば、届く距離。だが、その一歩が踏み出せなかった」
 煌夜の声が、自嘲するように低く響く。
 喉の奥が灼けるように熱い。心臓が止まっているはずのこの胸が、痛みを訴えている。

「……会ってはいけないと、わかっていた。紬の人生に、俺という闇を持ち込むわけにはいかない」
 月光が、煌夜の横顔を照らす。

「俺のような化け物が、彼女に触れてはいけない。紬は、光の中で生きるべき人間だ。俺のような闇に染めてはいけない」
 煌夜の瞳が揺れた。
 爪が掌に食い込む。痛みさえ、遠い。

「そう思っていたのは、ただの言い訳だったのかもしれない……」
 彼の声に痛みが滲む。
 息を吸うことさえ、苦しい。

「本当は、紬に拒絶されるのを恐れていた」

 化け物の自分が、彼女の前に現れたら。
 紬は、あの夜のように微笑んでくれるだろうか。
 それとも――恐怖に怯え、逃げ出してしまうだろうか。

 煌夜の指先が、わずかにふるえた。その時の紬を想像することすら、あまりにも辛かった。
「その答えを知ることが、怖かった……」

 ――だから煌夜は、ただ影から見守り続けた。いつか紬が幸せになる日を、祈りながら。

 任務の無い夜は、煌夜は彼女の屋敷を訪れた。塀の向こうで、紬が笑う日が来ることを願いながら。
 けれど、紬は幸せにはなれなかった。
 実家で虐げられ、誰にも愛されず、ついには金で売られようとしていた。

 それを知った時、煌夜の中で何かが弾けた。

「……もう影から見守るだけでは、紬を守れない」
 言葉が夜闇に吐き出される。

「紬を、……あの優しい彼女を、金で売るだと。家族の名を騙る畜生どもが!」
 煌夜の全身に、怒りが駆け巡った。

「彼女が、あの誰よりも優しい紬が、金で値踏みされるなど――」
 煌夜の拳が握りしめられ、爪が掌に食い込んだ。冷たい血が、指の間から滴り落ちる。

 もう、耐えられなかった。

「紬を、他の誰かに渡すくらいなら。俺のこの手で、奪い去ってやる」

 煌夜の瞳に月光が映り込む。その奥で、何かが燃え上がるように煌めいた。
 迷いはもう消えていた。恐れも躊躇いも、すべて焼き尽くされた。

 残ったのは、ただひとつの渇望だけ。

「たとえ俺が、紬にとって相応しくない存在だとしても」
 雲が流れ、月が再び姿を現す。蒼白い光が煌夜の頬を照らし、黒髪に銀の筋を落とした。

「だが、もう迷わない」
 煌夜の声が、静かに夜に溶けていく。
 紬を守る。それだけが、煌夜に残された唯一の道だった。

「彼女が俺を化け物だと恐れても――それでも、俺は紬を守り抜く」

 その言葉とともに、煌夜の瞳が深い紅へと染まっていく。月に照らされた紅の瞳は、まるで紅玉のように妖しく煌めいていた。

 煌夜の指が胸元を押さえる。止まっているはずの心臓が、確かに脈打っているような錯覚を覚えた。

「それが――俺に残された、唯一の生きる意味だ」

 夜風が煌夜の黒髪を揺らす。
 彼の姿は、闇に溶けるように静かだった。その瞳だけが、揺るぎない決意を宿して、ただ紬のいる方角を見つめ続けていた。

 煌夜の唇が、かすかに動いた。
 声にならない祈りが夜に消えていく。

(――待っていてくれ、紬。もう少しだけ待っていてくれ。君を苦しめている全てのものから、俺が解放して見せる) 

 月が雲に隠れた。
 闇の中で、煌夜の瞳だけが紅く光っている。
 それは、絶望の淵で燃える、最後の灯火のようだった。