軍用車が止まった先に現れたのは、月光に浮かぶ洋館だった。
白い石造りの壁が、夜気に冷たく輝いている。天井まで届く大窓には色硝子が嵌められ、庭には見たこともない西洋の花々が植えられていた。
「ここが、あなたのお屋敷……」
煌夜が先に車を降り、紬へと手を差し伸べた。紬は躊躇いながらも、その手を取った。
「足元に気をつけて」
低い声が夜気に溶ける。
車を降りた紬の足が、石畳に触れた。草履越しに伝わる硬い感触。庭から漂うのは、甘く濃密な花の香り。昼間には決して咲かない、夜にだけ開く花々の匂い。
大きな扉が開かれる。
「お帰りなさいませ、霧生さま」
主人の帰りを出迎えた使用人たちが、一斉に頭を下げた。その所作には一分の隙もない。
だが、紬には見えてしまった。
彼らの視線には畏怖の色があった。 煌夜に向けられた、隠しきれない恐れの感情。――そして、彼らの心の色が、自分への憐憫に揺らいでいることが。
「ようこそ、霧生家へ」
執事らしき老人が深く頭を下げた。その視線が紬へと向けられる。
「こちらの方は……」
「ああ、そうだ」
煌夜の声が静かに広間を満たした。 使用人たちの間に、ざわめきが走った。
煌夜の手が、紬の背にそっと添えられる。触れるか触れないかの、紬が砕けやすい硝子細工であるかのような慎重な距離感。
「俺の屋敷を、君に案内しよう」
「……はい」
促されるまま、紬は大理石の玄関を抜けた。廊下の壁には、月光を映す鏡がいくつも飾られている。その全てが、紬の小さな姿を映し出した。
古びた着物に身を包んだ、おぼつかない足取りの自分。肩からは、煌夜が自分に掛けてくれた白い外套が静かに垂れている。紬の両手が無意識にその布をきつく握りしめた。
紬の足が、ふと止まった。
鏡の中には、紬ひとりしか映っていなかった。隣を歩いているはずの煌夜の姿が、どこにも見えない。
慌てて横を見れば、煌夜は確かにそこにいた。ステンドグラスから注ぐ月光を浴びて、紬を見つめている。
では、さっき見たものは――。
「……紬」
自分の名を初めて呼ばれて、紬は慌てて視線を戻した。
「あ、はい」
(きっと、気のせいだ。鏡の角度が悪かったのだろう)
そう自分に言い聞かせようとした時、廊下の奥から使用人たちの囁きが聞こえてきた。
「血の、花嫁……」
紬が振り返ると、使用人と目が合った。
煌夜の視線が、静かに使用人へと向けられる。
相手の顔が見る見る白くなる。あわてて口元を両手で覆い、そのまま床に視線を落として、深く頭を下げた。身を縮めるような謝罪の形。
――聞き慣れない言葉が、胸の奥で響いた。
「……血の……花嫁……?」
紬が小さく呟いた瞬間、煌夜の手が肩にそっと触れる。
「気にしなくていい」
煌夜の低く、穏やかな声。その声には紬を守ろうとする響きがあった。まるで、何かから庇おうとしているかように。
紬は思わず顔を上げた。
煌夜の紫の瞳が、静かに紬を見下ろしている。
自分を見つめる、その瞳には――深い感情が宿っていた。
切なさにも似た、温かな光。
長い時を経て、やっと辿り着いたものを見つめるような、そんな色。
(……彼の私を見る眼差しが、とても優しい)
紬には、煌夜の瞳に宿る想いの、その深さの全てを理解することはできなかった。
けれど、ひとつだけわかった。
この人の瞳は、自分を見る時だけ――ほんの少し、揺れることが。
階段を上る煌夜の足音と、紬の足音。それだけが静寂の中に木霊した。廊下の向こうに見える扉が、月の光を受けて白く浮かんでいる。
「ここが、君の部屋だ」
煌夜が扉を開けた。
「……これが、私の……」
紬は目の前に広がる光景に、驚きを隠せなかった。
天蓋付きの寝台、西洋風の調度品、窓辺には白いレースのカーテンが揺れていた。そこに和のデザインが、絶妙に組み合わされている。
部屋の隅には螺鈿細工の箪笥、青磁の花瓶に白い椿が一輪。
壁には友禅染の帯が額に入れられ、月の光を受け、きらきらと輝いていた。
西洋の優雅さと、和の繊細さが共存する空間。
全てが美しく、全てが紬の知らない世界のものだった。
「……すごく、きれいです。こんなに素敵なお部屋を私が使っても、本当に良いのですか?」
「ああ、もちろんだ」
紬が気に入ったことに安堵したように、煌夜が頷く。
部屋の中央には、美しい装飾の燭台が置かれている。蝋燭の炎が、部屋を柔らかく照らしていた。甘い蜜蝋の香りが鼻腔をくすぐる。
「疲れただろう。ゆっくり休むといい」
紬は部屋に足を踏み入れた。
煌夜は扉へと向かう。その背が遠ざかっていく。彼が、最後にもう一度だけ紬を静かに見つめた後、扉に手が掛けられる。
彼は、このまま行ってしまうのだろうか。
「あの……お、お尋ねしてもいいでしょうか?」
紬の声が、かすれた。
「先程、お屋敷の方が言われていた、血の花嫁、とは……」
煌夜の瞳が、一瞬だけ伏せられた。 静かな沈黙が部屋を満たす。
やがて、煌夜はゆっくりと口を開いた。
「……君に話しておきたいことがある」
彼の声には、いつもの冷徹さとは違う、何か迷いのようなものが滲んでいた。
紬の喉が、こくりと鳴る。
「はい……なんでしょうか……」
煌夜は、扉を静かに閉めた。
室内には深紅のビロードを張った長椅子がふたつ並び、その間に磨き上げられた黒檀のテーブルが置かれていた。
「座ってくれ」
煌夜の声に、紬は頷いた。
長椅子に腰を下ろすと、ビロードの柔らかさが身体を包む。煌夜は、テーブルを挟んだ向かい側の長椅子にゆっくりと座った。
月光が窓から差し込み、煌夜の横顔を銀色に照らしている。
煌夜の紫の瞳が、まっすぐに紬を見つめた。
「俺は、人間ではない」
言葉が空気を震わせた。煌夜の表情には、すでに迷いも躊躇いもなかった。ただ、紬の反応を見つめている。
「え……?!」
紬の全身から、血の気が引いた。
「俺の正体は、君たちの言葉で表現するなら、――吸血鬼だ」
煌夜の唇が、静かに言葉を紡ぐと蝋燭の炎が、ゆらりと揺れた。
紬の指先が、椅子を強く握り締める。
「――吸血鬼……」
(おとぎ話の中の存在。人の血を糧とする、夜の化身。……それが、目の前の美しい男性の正体だなんて……)
紬の喉が、ひきつるように渇いた。指先の感覚が、すうっと遠のいていく。
「その存在を、君は聞いたことがあるだろうか?」
煌夜の声が、静かに部屋に落ちた。
「……はい。物語の中に登場する存在として、知っていました」
「軍の上層部だけが知る秘密だ。俺は『対・異能者用兵器』として、この国のために戦っている」
煌夜の声には、何の熱も宿っていなかった。
まるで、朽ちた書物を読み上げるような、乾いた響き。自分の運命を語りながら、そこに自分はいない。紬の心臓が、冷たい水に沈むように重くなる。
「だから俺は、夜の闇が降りてからでなければ、君の前に現れることができない」
紬の唇が、かすかに震えた。
(ああ……)
納得が、いくことばかりだった。
彼の、人のものとは思えない美しさ。触れれば凍えてしまいそうな、冷たい指先。鏡に映らなかった煌夜の姿は、見間違いではなかった。
以前に聞いたことがある。あやかしやそれに属するものは、鏡の裏側に使われている金属の銀を忌み、姿を映すことができないと。
そして自分が、ここに連れてこられた理由。
紬の指先が、膝の上で握りしめられる。
(私は、彼の糧になるために買われたのだ)
血の花嫁――その言葉の意味が、今ようやくわかった。
紬の心臓が早鐘を打ち始める。恐怖よりも、諦めに近い感覚が胸を満たしていった。
「……」
そんな紬を見つめる煌夜の瞳が、月光を宿して揺れていた。その眼差しには、痛みが滲んでいた。
長い沈黙が部屋を支配する。やがて、煌夜の唇が開いた。
「君を――」
煌夜の手が、胸元で握られる。溢れそうな何かを必死に押し込めるかのように、言葉を紡ぐ声は苦しげだった。
「君を、俺の花嫁にしたい」
声には、ただ紬への純粋な――切望が滲んでいた。
「だから今夜、君には儀式を受けてもらうことになる」
儀式。その言葉が、胸の奥で重く響いた。
紬は答えられなかった。怖い、という感情が正しいのかも分からない。
ただ心臓が激しく脈打ち、喉が渇き、手のひらに汗が滲んでいた。
(……彼に血を吸われるんだ)
その意味を、頭では理解している。
けれど――それでも。もう、この世界のどこにも自分の居場所はないのだ。家族に売られ、化け物と呼ばれた自分には。
「……俺が、怖いのか」
煌夜の手がテーブル越しに伸ばされ、紬の手に触れる。
彼の手は驚くほど慎重で、まるで紬が壊れてしまわないかと恐れているかのようだった。
冷たい、氷のように冷たい指先。触れた手は冷たく、だが――その冷たさの中に、なぜか温かさが感じられた。
「無理強いは、しない」
煌夜の声が、静かに降りてくる。
紬は煌夜を見つめた。
その時。ふと、これまでどうしても見えなかった、彼の心の色がはっきりと見えた。
寂しげな深い紅に、僅かな黒。
それは孤独を示す色だった。
遠い昔、月の夜に欅の木の下で出会った、あの少年。彼の心も、これに似た色をしていた。
ひとりぼっちで寂しいのに、それでも優しい魂の色をしていた。
(ああ。煌夜さんも、私と同じなのかも知れない)
誰にも触れられない場所で、ひとりで痛みを抱えている。
あの時、少年が自分を救ってくれたように、今度は自分が。
何の価値もない自分でも、最後にこの孤独な人の役に立てるのなら――それでもいい。
どうせもう自分には、行く先も帰る家もないのだから。
「……わかり、ました」
紬の声が、か細く部屋に溶けた。
返事を聴いた、煌夜の瞳に灯る光。煌夜の心の色が、柔らかく輝いた気がした。
「ありがとう」
そう囁いて煌夜は立ち上がる。そして紬の前に膝をつき、そっと腕を差し出した。
「立てるか」
紬は震える手で、煌夜の手を取った。煌夜に支えられながら立ち上がると、そのまま彼の腕の中に軽々と抱き上げられた。
「きゃっ……!」
煌夜は紬を横抱きで抱いたまま、ゆっくりと部屋の奥へと歩いていく。
月光が差し込む窓の近くに、白い天蓋つきのベッドがあった。
寝台――それを目にした瞬間、紬の顔が燃えるように熱くなる。目を逸らしたいのに、視線がそこに釘付けになってしまう。
「こ、煌夜さん……あの」
煌夜はベッドの端に腰を下ろし、紬を自分の膝の上に座らせる。背に回された腕が、紬の身体を優しく支えていた。
(こんなにも近くで、男性に抱かれたことなどこれまで一度もなかった……)
紬の耳やほおが、熱く染まっていく。
同時に、これから起きることへの畏れも、胸の奥で脈打っていた。
「……!」
触れている腕も胸も、彼の全ての体温が低い。
紬の鼓動だけが、ふたりの間で激しく打ち続けている。
「恐ろしいなら、俺の目を見ているといい」
煌夜の手が、紬の髪をそっと撫でた。
紬に触れる手つきは、あまりにも慎重で――触れることさえ許されない、貴重な宝物に触れているかのようだった。
紬が煌夜を見上げると、彼の紫の瞳が月光を映して揺れていた。
紬を見つめる彼の瞳に宿っているものは、自分への深い、深い感情だった。
切なさと、慈しみと、そして――名前のつけられない温かなもの。
(この人は、私を傷つけようとはしていない……)
紬にはそう感じられた。紬の呼吸が浅くなった。心臓が、早鐘を打っている。
煌夜の顔が、紬にゆっくりと近づいてくる。
「……あ……っ」
煌夜の唇が、首筋にそっと触れた。
羽が撫でるような軽い口づけ。それは優しく、けれど紬の全身を硬直させるには十分だった。
やがて、彼の吐息が湿り気を帯びた感触に、紬の肌が栗立つ。
紬は息を吸うことさえ、忘れてしまいそうになった。怖いと思う心が全身を駆け巡り、紬の目蓋が、ぎゅっと閉じられる。
もう、煌夜の瞳を見つめ続けることができなかった。紬の睫毛が揺れ、ゆっくりと瞳が閉じられていく。
――紬が目を閉じた、その静かな動きを見届けて、煌夜の瞳が、紅へと変わった。
月光さえ呑み込むような、深い紅。吸血鬼の紅い宝石の瞳。
燃えるような、人ならざる者の証。
だが、紬の瞼は固く閉じられていて、彼の変化を知ることはなかった。
「大丈夫だ」
低い声が耳元で囁かれた。煌夜の赤い瞳が、そっと紬を見下ろしている。
「……あ、あ……」
紬の瞳から、涙が零れた。
煌夜の手が紬の背を撫で始めた。ゆっくりと、ゆっくりと。まるで子を宥めるように、一定のリズムで撫で続ける。その手の動きには、言葉にならない優しさがあった。
煌夜は紬を抱き締め続けていた。紬の強張った肩が、少しずつ緩んでいく。
――紬の首筋に鋭い痛みが走った。紬の身体がびくりと跳ねる。牙が白い肌を貫いている感覚がわかった。
その感覚は恐ろしいはずなのに、不思議と恐怖は湧いてこなかった。むしろ、身体の奥から何かが溶けていくような、甘い脱力感。
「……っ……」
紬の喉から小さく息が漏れた。紬の指先が煌夜の肩にそっと触れる。掴もうとしても力が入らない。
紬の意識が、夜の闇に溶けていくように遠くなっていく。
やがて首筋から牙が離れると、煌夜の瞳からゆっくりと紅い光が消えていく。理性と共に、瞳が元の紫色へと戻った。
煌夜の腕が、力を失った紬の身体を抱き締める。低い声が、遠い水底から聞こえてくるようだった。
「いい子だ……よく耐えた」
煌夜の手が、紬の頬にそっと触れた。零れた涙を指先で優しく拭う。
「今夜は、何も考えず眠ればいい」
煌夜の腕が、紬をさらに深く抱き寄せる。
冷たい身体だった。――でも不思議と、彼に抱きしめられていると心が安らいだ。
「……煌夜、さ……ん……」
紬の力が、すうっと抜けていく。張り詰めていた糸が、静かにほどけていった。
煌夜が紬の額に滲んだ汗をその手で拭う。その所作は丁寧で、優しかった。
やがて、紬の体が冷えぬように、紬が纏っていた自らの白い外套で包み込んだ。布地が紬の肌に触れ、煌夜の香りが静かに、紬の鼻腔をくすぐった。
「――もう、君は俺だけのものだ。俺の花嫁だ」
煌夜の言葉は、闇の中で求める祈りに似ていた。彼の唇が、小さく切なげな吐息を漏らす。
「紬……君の存在だけが、こうして俺を今も人でいさせてくれる……」
煌夜の腕に力が込められる。紬を抱き締める腕が、ふるえていた。
そんな彼の声が、紬の半ば闇の中にあった中で聞こえた。
(なぜ……)
紬の朦朧とした意識の中で、疑問が浮かぶ。
(会ったばかりの……はずなのに。どうして、この人はこんなにも私の事を……)
煌夜の頬が、紬の髪にそっと触れた。紬の意識が、深い眠りへと落ちていく。
最後に感じたのは、自分を抱きしめる煌夜の腕の強さだった。それが心地よくて、紬はそのまま目を閉じた。
夜が、静かに更けていく。
煌夜は紬をずっと離さなかった。夜明けの光が窓から差し込むまで――その腕は、ずっと紬を抱き続けていた。
紬が目を覚ました時、部屋には朝の光が差し込んでいた。
紬は寝台の上で、ゆっくりと身体を起こす。掛けられていた彼の白い外套が、膝の上に滑り落ちた。
煌夜の姿は、どこにもなかった。
紬の手が自分の首元に触れる。昨夜のことが、鮮明に蘇った。
(彼の冷たい指先、ふるえる声。自分の背を撫でてくれた大きな手)
そして訪れた一瞬の、鋭い痛み
頬が、熱を帯びる。
鏡で恐る恐る見た首筋には、何の痕もなかった。痛みも違和感もない。ただ指先で触れると、そこだけが僅かに温かい気がした。
紬は彼が残した外套を、そっと手に取る。
月光のように白い布地。煌夜の香りが、僅かに残っていた。夜の花の香りと、冷たい夜気の匂いがする。
『――君の存在だけが、こうして俺を、いまも人でいさせてくれる』
彼の声が耳によみがえってくる気がして、紬の胸が、ぎゅっと締め付けられた。
紬の指が、外套を強く握り締める。
(なぜ、煌夜さんはあんなにも――)
彼の声が、まだ胸の奥で響いている。切なげに揺れた、まるで何かを懇願するような声音。
(私は、血の花嫁になるための儀式を受けた。それなのに――こんなにも優しく扱われた……)
触れることさえ躊躇うような、煌夜の手つき。紬が消えてしまうことを恐れるかのような、慎重さ。
窓の外では、朝の光が庭を照らしていたが紬の心は、まだ夜の中を彷徨っていた。
煌夜の紫の瞳に映った自分を、何度も思い返してしまう。あの瞳に宿っていた、痛みにも似た光を。
彼に抱きしめられていた腕の記憶が、今も紬の体に宿っていた。

