佐伯家は、帝都で商売を営む豪商だった。
表向きは裕福で立派な家柄。帝都の社交界にも顔が利き、軍への物資納入も手がける、名の通った商家だった。
だが、その内側は――父の放蕩と、母の見栄と、積み重なった嘘で、芯から腐りきっていた。
そして佐伯紬の力は、そんな家族から忌み嫌われていた。
けれど父だけは、その力を自分のために利用していた。商談の場に紬を連れ出し、相手の心の色を読ませる。その時は、世間に恥をかかない程度の着物を与えられた。
「紬、あの男の心は何色だ?」
父の声には、いつも命令の冷たさがあった。温もりのかけらもない、値踏みするような目。
「……深い茶色です。嫉妬と、欲が混ざっています」
紬が小さく答えると、父は満足そうに頷く。そして、用が済めば遠ざけた。
「気味の悪い娘だ」
父の言葉は、いつも短く重かった。
――母はそれより残酷だった。
「お前の食事なんて、用意してないわ」
食卓に紬の席はなく、家族の笑い声の輪に、彼女だけが入ることを許されなかった。
夜明け前から床を磨かせ、使用人同様に下働きを命じ、用が済めば「見えないところにいなさい」と追い払った。
――姉の杏が、さらに紬を傷つけた。
父の取引相手が帰った夜、杏は紬の髪を、がしっと掴んだ。
「また読んだの? 人の心の色を」
廊下の暗がりに引きずられ、壁に押しつけられた。
「気持ち悪い。お母さんはね、あなたを産んだことを後悔してるって言ってたわ」
紬は、ひとりで声を殺して泣いた。
やがて紬は、年頃になると逃げられないように、屋敷の奥の座敷に閉じ込められるようになった。必要な時だけ呼び出される。人としてではなく、都合のいい道具として。
(お願い……こんな暗い部屋に、私をひとり閉じ込めないで……)
誰にも届かない言葉が、紬の唇の内側で溶けていった。
灯りの消えた座敷で、紬はひとりで膝を抱えた。外から差し込む月明かりだけが、彼女の輪郭をかすかに照らしていた。
紬の心は、少しずつ凍えていった。
温もりを知らぬまま、誰にも触れられぬまま。
ただ、小さな灯り取りの窓から見える月だけが紬を見下ろしていた。
(あの時の、お兄ちゃんはいまどうして居るんだろう……)
月の夜に欅の木の下で出会った少年の面影が、紬の記憶の中で揺らめく。
優しい心の色をした、誰よりも綺麗な魂。紬が唯一、心を通わせることのできた存在。
思い出せたその時だけは、ほっと息をつくことができた。
(――でも、あれからもう二度と、出会うことは無かった……あれは夢だったのかもしれない)
紬はそう思うことで、辛うじて日々を生きていた。
事態が暗転したのは、春を迎えた頃だった。
父の商いが傾き、佐伯家に借金取りが押し寄せたのだ。怒号が屋敷を揺らし、母の叫び声が廊下に響く。
「そうだ! 紬を売ればいい」
父の声が、襖を隔てた向こうから聞こえた。紬の指先が氷のように冷たくなった。
「あれにも、まだ使い道があったわね」
母の声も同意するように続く。紬の喉が干上がった。
(ああ、やはり)
紬の目蓋がゆっくりと閉じられた。涙は、もう枯れていた。
(家族に愛されていないことは、ずっと前から知っていた。……けれど、実の親に売られる――人買に引き渡されるなんて)
紬の心が、音を立てて砕けていった。
三日後、紬は煌びやかな社交場に連れてこられた。
灯りが、紬の顔を容赦なく照らしていた。
社交場の華やかさが、今宵ばかりは残酷な舞台装置に成り果てている。
金糸の刺繍が施された緋色の絨毯、水晶の燭台が放つ柔らかな光、壁を飾る油彩画の数々。
美しいものに囲まれながら、紬は家畜のように値踏みされていた。
「さあ、皆様。本日はめずらしい娘をお連れいたしました」
人買いの男が、紬の肩に手を置く。その指先が、商品を確かめるように髪を撫でた。
紬は背筋を駆け上ってくるおぞましさに唇を噛みしめ、ただ俯いた。
「心の色が見えるという、誠に稀有な力を持つ娘でございます」
男の声が会場に響き渡ると、ざわめきが広がった。オークション会場に居合わせる人々の視線が、一斉に紬へと注がれる。針で刺されるような痛みを、全身の肌に感じた。
(…………っ!)
視線の重さに耐えかねて目を伏せた。
抑えきれない恥ずかしさが、紬の全身を焼いていく。もう、逃げ場はどこにもなかった。
「召使いにでも、夜のお相手にでも。お好きなようにお使いくださいませ」
紬の指先が冷たくなっていく。呼吸をするたびに、喉の奥が痛んだ。
(――これが、私の終わりなんだ)
家族に愛されず、誰からも疎まれ、そして人買に売られる。
競売が始まった。物珍しい娘に興味を示した客たちの声が、次々と金額を告げていった。紬の価値が数字で測られていく。
その残酷さに、紬はただ唇を噛むことしかできなかった。視界が滲んだが、ぐっと堪える。
(……涙を見せてはいけない。こんな場所で泣いたら、もっと惨めになるだけ)
紬は奥歯を噛みしめ、必死に堪えた。
その時だった。
「金で人を売る。まるで家畜市だな」
会場の空気が一瞬で凍りつき、ざわめきが、嘘のように止まった。
紬はゆっくり顔を上げ、人々の視線の先に目を向ける。扉が静かに開いていた。
そこに立っていたのは月光を纏ったような、美しい男だった。
漆黒の軍服に、純白の外套。片耳に揺れる西洋風の耳飾り。
長い黒髪が燭台の光を受けて、艶やかに揺れていた。切れ長の瞳は紫水晶のように透き通り、その美貌は完璧だった。
美しい――あまりに美しすぎて、触れれば指先から凍えて砕けてしまいそうな。
だが、その美しさには、何者も近寄りがたい冷気が宿っていた。まるで、毒を湛えた氷花の気配に近いと、紬は思った。
会場が、水を打ったように静まり返る。
「……霧生、大佐」
誰かが、震える声で呟いた。名が囁かれた瞬間、会場が凍りついた。
霧生煌夜――帝都の若き英雄にして、華族筆頭の公爵家の当主。
戦場では鬼神のごとき強さを誇り、社交界では誰もが畏怖する存在。
「帝都の黒い狼か。……たった一人で、戦場の敵陣を壊滅させたという……」
「戦場の英雄であり、軍の番犬でもある。不正を嗅ぎつけ、容赦なく喉笛を食い破る――」
「どれだけの将校が、あの男に粛清されたか……」
囁きが波紋のように広がっていく。
彼の名は、誰もが知っていた。最年少で帝国軍大佐の位に就き、爵位までその功績で手に入れた。帝の勅命により帝都の監査権をも与えられた男。
敵国の兵も、帝国の腐敗も等しく屠る――その名の裏には畏怖と憎悪が、いくつも張り付いていた。
「あやかしの血が入っている、とか……」
「人ではない、化け物だそうだ」
噂の真偽など、誰にもわからない。
ただひとつ確かなのは、彼に逆らった者が、誰ひとりとして無事では済まなかったという事実。
――煌夜は、ゆっくりと会場の中へ足を踏み入れた。
軍靴の音が、静まり返った空間に規則正しく響く。その足音だけが、紬の鼓膜を打った。
煌夜の視線が、紬を捉えた。珍しい色彩を放つ紫色の瞳。
紬はその瞳に射抜かれて硬直した。冷たく、しかし、どこか深い場所で何かが燃えているような瞳。
「彼女は、俺のものだ」
煌夜の静かな声が、会場全体を支配した。
人買いの男が、狼狽えた声を上げる。
「し、しかし大佐。こちらの娘は現在、競売中で――」
「金額を言え」
煌夜の声が、男の言葉を遮った。
「君たちが提示した額の、十倍を今すぐ支払おう」
会場が再び静まり返った。誰も何も言えなかった。霧生煌夜という男に敵対したいと思うものは誰もいない。沈黙するしかない。
人買いの男が、慌てて頷いた。
「か、かしこまりました。では、娘は霧生さまにお売り致します」
彼が手を上げると、煌夜の従者と思わしき男が金貨の入ったいくつもの袋を運んできた。
煌夜が紬の前まで歩み寄る。そして紬の顎に、冷たい指先を添えた。
「もう、俯かなくていい」
穏やかな声音だが、そこには有無を言わせぬ響きがあった。紬は煌夜の瞳を見上げた。紫水晶の瞳が紬だけを映していた。
「君は、俺の花嫁だ」
煌夜の言葉に、会場にどよめきが広がった。
「霧生大佐が、花嫁……?」
「しかも、競売にかけられていた娘を……」
紬の唇が小さく開いた。
「は、花嫁……? あの、それは……どういう……」
言葉が続かない。花嫁という響きが、あまりに現実離れしていた。
「今日から、君のすべて――涙の一滴、吐息のひとつまで俺のものだ」
紬の喉が、ふるえた。煌夜の指先が紬の頬をそっと撫でる。冷たく凍えるような手なのに、なぜか驚くほど丁寧な仕草だった。
紬は思わず彼の心の色を見ようとした。だが、目が眩んで何も見えなかった。
(……どうして…)
それは紬にとって、初めてのことだった。
(これまで、どんな人の心の色も見えていたのに……)
いや、見えなかったのではない。あまりの色の濃さに、瞳が焼けるような錯覚に襲われたのだ。
これまで見てきた人々の心とは、まるで違う。あまりに複雑で、あまりに深くて――。
深すぎる紅、濃すぎる闇。
紬の喉が小さく揺れる。
(初めて見た深い色……まさかこの方は、人々の噂のように……人では無いのだろうか)
煌夜の手が紬の手を取った。その動きは、羽毛に触れるように優しかった。
「行くぞ」
低い声が、紬の耳元で囁かれる。煌夜は自らの外套を取り、紬の肩に広げて包み込んだ。白い布地が、紬の小さな体を優しく覆う。
もはや誰の視線にも晒させまいと、煌夜の腕が外套ごと、紬を己の傍へと引き寄せた。
「あ、あの……貴方は、どうして私を」
煌夜は答えず、冷たい指で紬の手を包み込む。問いかけは、沈黙に呑まれた。
紬は頷くことしかできなかった。煌夜に促され、舞台を降りる。
会場の視線とざわめきが、二人を追いかけてきた。紬は思わず竦んだが、煌夜は振り返らなかった。まるで、紬以外の存在など、最初から彼の視界には入っていないかのようだった。
豪奢な軍用車の中で、紬は煌夜の外套に身を埋めるようにして、小さくなっていた。窓の外では、街のガス灯が次々と流れていく。黒塗りの車体に金の装飾、軍の紋章が月光を弾いている。運転席では、黒い軍服を着た運転手が無言で運転をしていた。
後部座席には、紬と煌夜。
ビロードの座席、革の内装。どれもが高級品で、紬が今まで見たこともないような贅沢なものだった。
紬は自分の隣に座る煌夜を、そっと横目で見る。
どこを取っても完璧な美貌。だが、そこには人間らしい温もりが感じられなかった。
氷の彫刻――そんな言葉が、紬の心に浮かんだ。
煌夜は無言のまま、窓の外を見つめている。月光が横顔を照らし、その美貌を際立たせていた。
(――彼は、いったい何者なのだろう)
社交場の人々の囁きは、紬にも聞こえていた。それによれば、彼は華族で軍人だという。
でも、ならどうして自分のような、取るに足らない娘を、あれほどの金額で買い取ったのか。
「……なぜ、私を」
紬の声が、夜気に溶けそうなほど細く零れた。煌夜の視線が、ゆっくりと紬へと向けられる。
「俺には、君が必要だったからだ」
短い答えだった。そして、その声には不思議な優しさが滲んでいるように思えた。
「……」
紬の唇が、わずかに開きかけて、また閉じた。
訊きたいことは山ほどあった。――けれど、この先の自分がどうなるのかを想像すると、とてつもなく怖かった。言葉が喉に詰まって、出てこなかった。
煌夜の手が、ふるえる紬の体に伸ばされた。傷ついた小鳥を包み込むように、大きな手の平がそっと頭に触れる。
「……怖がらなくていい」
囁くような声だった。紬の瞳が、見開かれる。
(この人の、その触れ方は……)
壊れ物に触れるような、優しいあの手。
記憶の底に沈んでいた夜が、にわかに浮かび上がってくる。
月の光の下、傷つきひとりで座っていた少年。彼もこんなふうに、紬の頭にそっと手を置いてくれた。
自分を怖がらせないように。傷つけないように。
あの少年の面影が、なぜか今この瞬間によみがえる。
(……似ている)
うまく言えない。ただ、どこか同じ匂いがした。
――でも、違う。
暗い森のはずれで、ひとりで居た少年。それが高貴な公爵で、軍人のような身分であるはずがない。
それに――何より、瞳の色が違っていた。
あの夜に出会った少年の目は、闇の中でも紅く煌めく宝石のような、紅い色をしていた。
紬を見つめるこの人の瞳は、月光を映した透き通るような紫色。
(……違う。ただの、思い過ごし)
紬は小さく首を振り、込み上げてきた小さな期待を打ち消した。紬の喉が熱を帯び、涙が滲んでくる。煌夜の手を――冷たく、でもどこまでも優しい指先をじっと見つめていた。
車が、闇の中を走り続ける。外の世界から切り離されたような静寂の中で、紬の運命が音もなく動き始めていた。
続く
続きは25日の夜、公開です

