「帝都の黒い狼」と呼ばれる帝国軍大佐・煌夜。
その正体は、吸血鬼。
彼に救われた夜。
人の「心の色」が見える、紬だけが分かった。
帝都で最も恐れられる男の心が、
誰よりも孤独で、誰よりも優しい色を持つことを。
物語は、ふたりが出会った幼い日へと遡る――。
霧生 煌夜 イメージイラスト
***
『せめて、一度だけでいい。誰かに、ただ在るままの私を見てほしかった』
幼い紬は、いつもひとりだった。
誰にも理解されず、誰とも心を通わせることができず――ひとりで満月を見上げていた。
銀色の光が、屋敷の夜を静かに照らしている。木々の影が長く伸び、冷たい秋風が紬のほおを撫でていった。今夜もまた、紬は屋敷を抜け出していた。
「家の中にいると、息が出来なくなる……」
母の冷ややかな視線。父の侮蔑。姉の嘲笑。すべてが、紬の心を締めつけた。
「人の心が、色として見える――こんな力、欲しくなかった」
紬は人それぞれの心が放つ色を、幼い頃から感じ取ることができた。優しい人の心は温かな橙色。穏やかな人は、柔らかな水色。
けれど、紬の周りにいる人々の心は、いつも濁っていた。父の心は、欲望に塗れた泥のような茶色。母の心は、人を疑う猜疑心の深緑。
姉の心は、虚栄に染まった鈍い黄土色。
そして誰もが、紬を見る目に嫌悪を滲ませていた。
『気味が悪い』
『化け物のような娘だ』
家族の声が、耳の奥で反響する。
紬は両耳を塞ぎ、小さく息を吐いた。冷気が白く揺れて月明かりに溶けていく。
ふと、視線を感じた。
「……誰か、いるの?」
木立の奥、そこに影が蠢いていた。
紬の足が引き寄せられるように、影の方へと歩を進める。
やがて大きな欅の木の根元に、少年が座り込んでいるのが見えた。
月光が、その姿を浮かび上がらせる。
漆黒の髪が、夜の光を弾いて艶めいていた。磁器のように白く透き通った肌、美しく整った顔立ち。
でも、あまりにも――美しすぎる。
人が持ってはならぬほどの美。まるで、この世ならぬものが人の姿を借りているような。
そして闇の中で、紅玉のように妖しく光る瞳に紬の息が、止まった。
「……!」
あることに気がつく。
――少年の周りには、誰もいなかった。鳥も、虫も、すべての生き物が、本能的に避けているようだった。
静寂が、少年だけを包んでいる。
美しさと恐怖が、渾然一体となっている矛盾した存在に、紬の身体が硬直した。
紬は一歩、後ずさった。
少年の視線が紬を捉える。紅い瞳が、まっすぐに紬を見つめていた。
(怖い……)
紬の足が地面を蹴った。一目散に、屋敷へと駆け戻る。草を踏む音だけが、静かな夜に響いた。
縁側に辿り着き、紬は荒い息を整えた。
けれど――。
紬の脳裏に、あの少年の姿が焼きついて離れない。
「紅い瞳、真っ白い肌。そして……」
紬は思い出していた。
「一瞬だけ見えた、あの心の色は」
深い紅に、わずかな黒が混ざった色。それは――誰よりも、孤独な色だった。
(私と、同じ……)
誰にも理解されず、ひとりで夜を過ごしている自分と同じ色。
気がつけば、紬の足は再び森へと向かっていた。
怖くないと言えば、嘘になる。だけど――あの孤独な色を見て、放っておくことができなかった。
欅の木の下に、少年はまだいた。
今度はゆっくりと近づく。
少年が顔を上げた。紅い瞳が、月明かりを映して揺れている。
「……お前は、俺が怖くないのか」
低い声が夜気に溶けた。
少年の声は幼さを残しながらも、どこか疲れ切ったような響きを持っていた。
紬は首を横に振った。
「怖くない……です」
声が震えていた。それでも、紬は少年の前に膝をついた。目線を合わせる。紅い瞳が、紬の黒い瞳を映していた。
「お兄ちゃん、血が……出てる」
少年の腕に、赤黒いひどい痕があった。服の袖が破れ、傷口が月光に晒されている。
紬は懐から、いつも持ち歩いている手巾を取り出した。そっと、少年の腕に巻きつける。
「大丈夫……?」
少年の瞳が、大きく見開かれた。
まるで、人に優しくされることに慣れていないような――張り詰めていた糸が、ゆっくりとほどけていくような。そんな驚愕の色が浮かんでいた。
「なぜ……」
少年の声が、囁くように紡がれる。
「お前は――俺を見て、逃げないんだ」
紬は少年の心の色をもう一度見つめた。
(深い紅。孤独を示す黒。そして、その奥に透明な光が揺れている)
優しさだ。
透き通っていて、優しい光。
「お兄ちゃんの心の色は……誰よりも、綺麗だから」
紬がそっと微笑むと少年の瞳が、大きく揺れた。
「俺の……心の……色?」
「うん」
紬は、こくりと頷いた。
「私、人の心の色が見えるの。みんなの心の色は……怖いのばかりで」
紬の指先が、自分の胸元を握る。
「だから、みんな私を気持ち悪いって……避けるの」
紬の視界がぼんやりと滲んだ。唇をそっと噛み締める。
「でも、お兄ちゃんの色は――優しくて、温かい」
少年の手が、ふるえていた。
やがて、手がゆっくりと持ち上げられ紬の頭に、そっと触れた。冷たい手だった。
「ひょっとしたら……お前も、ひとりなのか」
少年の声が静かに響く。
紬は頷いた。涙が滲んでくるのを、必死で堪える。
「私の力……みんな、怖がるの。だから、いつもひとり」
少年の手が、紬の頭を優しく撫でた。
「なら、俺たちは同じだ」
少年の声に、初めて温もりが宿った。
「……うん」
紬が小さく頷く。
初めて――心から、安心した気持ちになれた。
(この人は、私を拒まない。私と同じ孤独を抱えている)
紬の頬に涙が伝った。それは悲しみの涙ではなく、安堵の涙だった。
少年の指が、紬の涙をそっと拭う。
冷たい指先が、紬の頬に触れる。その冷たさが、なぜか温かく感じられた。
「……お前は、もうひとりじゃない」
少年の声が、夜風に乗って紬の耳に届く。
「俺が、お前を見守る」
紬の瞳が、大きく見開かれた。
少年の紅い瞳が、月光を映して輝いている。瞳の奥に――確かな誓いが宿っていた。
「ずっと……?」
紬の声がふるえる。少年は頷いた。
「ああ、ずっとだ」
言葉が、紬の心に深く刻まれた。
やがて東の空が白み始めると、少年が立ち上がった。
「――俺は、もう戻らないと行けない」
紬も立ち上がる。少年の姿が、朝靄に溶けていくようだった。
「また……会える?」
紬が問いかける。
少年は振り返らなかった、でも――。
「ああ、必ず」
一言だけが、静かに響いた。少年の姿が、木立の向こうに消えていく。
紬はそこに立ち尽くしていた。
心の奥で、何かが温かく満たされていく感覚があった。
(もう、ひとりじゃない)
あの少年が自分を見守ってくれる。
紬の頬に、ほっとしたような微笑みが浮かんだ。
朝日が昇る前に、紬は屋敷へと戻った。
早朝の風に身をふるわせたが、胸の奥には温もりが残っていた。
(冷たいけれど、優しい手。孤独だけれど綺麗な心の色)
そして――。
『お前を、見守る』
あの誓いの言葉。紬の指先が、胸元を握る。
(いつか、また会える)
その想いが、紬の心を支えていた。
紬はそれから何年か過ぎても、あの夜の少年を忘れることができなかった。時々、思い出しては心の奥で少年の姿を思い描いていた。
――でも、それから再び会うことはなく紬の人生は、さらに苦しいものへと変わっていった。
家族からの虐待は激しさを増し、紬は屋敷の片隅で息を潜めるように暮らした。
だが、その時の紬はまだ知らなかった。
月の夜、いつも誰かの気配がそっと紬を見守っていることを。
優しい瞳が、紬だけを見つめ続けていたことを。
やがて十七歳になった紬の人生は、大きな転機を迎えることになる。
――再会の時が、静かに近づいている。長い夜が明ける時がもうすぐ訪れようとしていた。

