猫かぶりな兄の親友はブラコンの俺を構いたい

 何コール目かの呼び出し音の後、俺は靴を履いて玄関を飛び出した。
 三月の夜の空気は、ひんやりと冷たい。でも、上着も着ずに出てきた俺の胸のざわつきは、一向に収まらなかった。
 久登先輩ならすぐに電話に出てくれそうなのに、今は全くその気配がない。

 もしかして、久登先輩に何かあった?
 それとも、俺が電話するのが、遅かった?
 呆れて、俺の電話には出たくない?
 心細さで、胸が潰れそうだ。
 もし、このまま連絡が取れなかったら、どうしよう。
 久登先輩もこんなに不安だったんだろうかと思ったら、心が千々に乱れた。
 玄関アプローチを駆けながら、さらに目頭が熱くなった。

 でも、道路に出たところで、誰かのスマホのバイブ音が聞こえた気がした。
 音が聞こえた方を見れば、電柱の近くに座り込む人影がある。
 街灯の明かりで照らされたその人は、茶色いカーディガンと白シャツ、黒のズボンを着ていた。体つきが良くて、薄茶色の髪は少し長くて……俯いていてもそれが、誰か分かる。
 縮まり込むように膝を抱えて俯く姿は、震えているようで、胸が締め付けられた。

「……久登先輩」

 通話ボタンを切って、俺は唇を震わせながら、名前を呼んだ。
 久登先輩の肩が、ぴくりと跳ねる。一拍おいて、先輩はおずおずと顔を上げた。

「ごめん、ここまでは来たんだけど。ちょっと……怖くて……電話、出られなかった」

 久登先輩は眉尻を下げて、力無く笑った。
 そこに、いつもの泰然自若な先輩はいない。いたのは、俺と何ら変わらない、普通の高校生の先輩だった。
 そんな先輩を見て、俺は居ても立っても居られなかった。勢いよく、抱きしめていた。
 
「すみません、久登先輩。俺……自分のことで頭いっぱいで、先輩のこと考えられてませんでした。理由ちゃんと話してなくて、ごめんなさい」

 久登先輩を抱きしめる腕に、ぎゅっと力が入る。
 すると、久登先輩はこれまで聞いたことがないくらいか細い声で呟いた。

「ちぃちゃん……俺のこと、嫌いになったわけじゃないの……?」
「……っ! 嫌うわけないじゃないですか! 久登先輩のことが大好きなのにっ!」

 胸がぐっと詰まって、思わず声が大きくなった。
 ほんの少し体を離して、久登先輩の顔を見つめる。
 先輩は一昨日、犬の感動映画でも泣かないって言っていた。
 けど、やっぱり、涙脆いんじゃないだろうか。
 いつも柔らかな薄茶色の瞳には、涙の膜が張っている。目の端に溜まって、瞬く間にぽろりと一粒、頰を伝うように落ちていく。

「ほんとに?」
「はい。久登先輩のこと嫌うわけ、ないです。酷いことした俺にも優しくて、こんな風に泣いちゃうような人……もっと好きになるに決まってる」

 その涙に吸い寄せられていた。俺は頰に指を伸ばしていて、肌に触れる。
 その瞬間、久登先輩は自分が泣いたことに驚いたように、目を見張った。
 でも、すぐにふっと笑う。いつもの、久登先輩が戻ってきたみたいな、柔らかで軽やかな笑み。

「じゃあさ、ちぃちゃん。俺を泣かせたんだから、責任とってよ」

 軽口を叩くような声だけど、久登先輩は本気で言っていると、俺は思う。だって、まさに今、先輩の腕は俺の腰に伸びてきて、俺を離そうとはしないから。
 廊下で初めて抱きしめられた時みたいに、それはもうがっしりと。離さまいって意思を感じる。
 だから、俺はもう間違えたりしない。
 この人が大事だから、大好きだから、絶対に伝えなきゃ。
 心臓がドキドキしてうるさくてたまらないけど、この音も愛おしく思える。
 久登先輩の肩に両手を置きながら、ほんの少し姿勢を正す。すぅ、と小さく息を吸って、俺のできる愛の告白を口にする。

「久登先輩、好きです。大好きです。俺と、これからもずっと一緒にいてください」

 やっと、久登先輩に伝えられた。その達成感で、胸がいっぱいになる。
 だけど、久登先輩からの返事は、俺の想定するものとは違った。

「……ふふっ。ちぃちゃん、今めっちゃ、やってやったぞ! って顔してるけどさ、ごめん。一言いい?」

 なんだか、嫌な予感がする。

「な……なんですか」
「言い忘れてるよ、ちぃちゃん」
「言い忘れ?」
「んー? 俺に、何に(・・)なって欲しいの? すっごーく、大事なこと忘れてる」

 久登先輩の言葉で、俺はどこまでいっても詰めが甘いことを思い知らされた。
 久登先輩がニヤニヤと口元を緩めながら、期待した目で俺を見つめている。
 なんというか、ほんと何から何まで恋愛音痴な自分に、色んな意味で恥ずかしくなった。

「うあー! もう! 恋人にっ……なってください!」

 俺はヤケクソになって叫んだ。
 すると、まるでこの瞬間が、世界で一番幸せって言っているみたいに、久登先輩は満面の笑みを浮かべてくれた。

「喜んで!」

 弾んだ声と共に、さらに力強く抱きしめられた。
 そのまま、久登先輩のくすぐったい声が俺の耳をくすぐる。

「……捕まえた。もう離してあげる気、ないからね」
「えっ」
「ちぃちゃんはずっと、俺だけのちぃちゃんだよ。誰にも渡さな〜いっ」

 久登先輩の腕の中で、心臓が跳ねた。
 こんなこと言われたら、もっと好きになるに決まってる。
 きっとこれから一生、俺はこの人に揶揄われ続けるんだろう。
 でも、それでいい。むしろ、そうであって欲しい。
 久登先輩の揶揄いは愛があって、俺を安心させてくれるから。
 これからもずっと、俺の隣で笑ってて欲しい。

 ……と思ったのも束の間。家の方から、妙な気配がした。次の瞬間、ガララッと窓が勢いよく開く音が響く。

「千茅、おめでと──! おかあさん、千茅に恋人できたから、赤飯炊いて!」

 リビングの方から、近所迷惑にも程があるにいちゃんの大声が聞こえた。
 それだけじゃない。

「和久、千茅が誰かに告白したのか!?」
「え、千茅? 和久ちゃん、赤飯? 今のどういうこと? あの子、誰に告白したって?」

 父さん母さんたちの声まで、俺たちの元に届く。
 俺の家族は仲が良い。ものすごーく、仲が良い。夕飯の準備中に、家の前で大騒ぎをした俺が悪い。

「ちぃちゃん、これって……大丈夫?」
「すみません。やらかしました。たぶんだけど、久登先輩が大変な目に遭うかも」

 とりあえず、先に謝っておくことにした。
 きっとこれから、久登先輩は俺の家族に連行されて、揉みくちゃにされるだろうから。