人生は、思い通りにいかないのがデフォルトだ。
にいちゃんと向き合おうと思っていたのに、久登先輩の誕生日から二日経った今も、俺たちはまだ話が出来ていない。
というのも、俺は暇さえあれば、リビングのソファに座って、にいちゃんの恋バナに付き合わされているからだ。
一昨日、久登先輩の誕生日パーティーから帰ってきたにいちゃんに、俺はつい「にいちゃんって、好きな人いるんだよね?」と聞いてしまった。
久登先輩の話をする前のワンクッションが欲しくて、質問したんだけど──まぁ、そこからの、惚気が凄い。
最初は軽く聞いただけだったから、にいちゃんは「あー、うん。好きな人はいるけど……」と少し照れた様子で、頬を赤らめながら言っていた。
でも、俺がこれまであまり恋バナをしてこなかったからなのか。はたまた、にいちゃんが自分の気持ちを吐き出す場が欲しかったからなのか。一度、好きな人について口にしたにいちゃんは、見事に止まらなくなってしまった。
「あいつ、身長が高いし顔が良いから、初めて会った時は凄く威圧感あったんだけどね。仲良くなったら実はめちゃくちゃ優しくて」
「へぇ」
「僕のことちゃんと見てくれるし、何かあったらさりげなく助けてくれるんだよ。もう惚れるしかないじゃん」
「ほぉ」
「しかもさ、甘い物が好きって可愛くない? 僕がワクチョコたくさん食べられない分、食べてくれるんだよ。もう、そこもたまらないっていうか……」
「ふぅん」
何とか相槌を打ち続けたものの、デレデレ話すにいちゃんの好きな人は、やっぱり全部久登先輩に当てはまる。
にいちゃんが話すたびに、俺の頭には久登先輩が浮かぶし、その度に虚無状態に陥ってしまった。きっと今ならチベットスナギツネも、俺を仲間として認識してくれるだろう。
そんなこんなで、にいちゃんがそこまで久登先輩を好きなんだなって思ったら、いくら覚悟を決めて臨んでも、俺たちのことを伝えるのを躊躇ってしまった。
下手したら、仲を違えるかもしれないのだ。それはもう慎重にもなる。
ただ、俺が相槌を打っていたことで、にいちゃんが俺と恋バナをするのにハマってしまったらしい。
気づけば、俺は何一つ伝えられないまま──今夜も変わらず、にいちゃんの惚気話を聞いている。
「でね、テスト終わったばっかりだし、明日は一緒に放課後デートする約束したんだよね」
にいちゃんは、本当に久登先輩が好きなんだろう。ついこの前の般若顔が嘘みたいに、にっこにこの可愛い笑顔だ。
ただ、デートという単語はいただけない。
動揺のあまり、俺は「で、デート!?」と、素っ頓狂な声をあげていた。
デートって、あのデートだよな? まさか、俺が距離置いたせいで、たったの二日で、久登先輩が心変わり……?
心がざわつくと共に、じわりと俺の背中に嫌な汗が滲んでしまう。
でも、心変わりされても仕方がないのかもしれないと、俺は密かに思った。
だって、久登先輩の誕生日に『久登先輩、しばらく距離を置きます』とメッセージに送って以来、俺は一度もアプリを開いていないのだ。
通知をオンにしたら絶対に揺らぐから、あえて見ないようにしてるだけだけど。もしその状況で、こんなに可愛いにいちゃんからデートに誘われたら……そっちにコロッといってもおかしくない。
にいちゃんは、そんな俺の心配も知らず、幸せそうだった。弾けんばかりの笑顔を浮かべて、惚気を続ける。
「うん。そう! デート!」
「えぇ……デート。ちなみに、どこに?」
「それ聞くー?」
「き、聞きたいかなぁー、参考になるかなって」
俺は咄嗟に、そう言っていた。
もし、二人でデートするなら、ちょっと俺は先輩を問い詰めなければいけない。
久登先輩、二日で心変わりしたんですかって。
「えっとねー、まずは駅前のカフェで新作ドリンク飲むでしょ。あとは、僕の買い物に付き合ってもらうつもり。ほら──」
にいちゃんは、熱心に放課後デートについて話してくれる。だけど、俺はもう心ここに在らずだった。
久登先輩がにいちゃんとデート……それを知っただけで、俺の頭はすぐいっぱいになってしまう。びっくりするくらい久登先輩一色になるから、シャットアウトしようとしたのに、これじゃあ意味がない。
「千茅? ねぇ、千茅、聞いてる?」
にいちゃんに肩をつつかれて、俺は「あぁ、ごめん」と返事をした。
「なんかここ二日くらい、様子おかしくない? 大丈夫?」
「あー……テスト終わって疲れてるだけかも」
「そう? てか、千茅もだけど、久登もなーんか変なんだよねぇ」
にいちゃんの口から、はっきり久登先輩の名前が出て、ぴくりと俺の眉が動いた。
「変……?」
「昨日の予備校でさ、死んだような顔してた。誕生日の翌日にあんな顔してるとは、なーんかあったよね。ちなみに、今日なんか、メッセージ送ったのに、うんともすんとも反応来ないし」
にいちゃんはため息混じりにそう言って、こたつの上に置いていたマグカップを手に取った。
「千茅のとこには、何か連絡来てない? 最近、仲良くしてるんでしょ?」
にいちゃんはカップのコーヒーを一口飲みながら、俺の方を見てくる。
もしかして、久登先輩は俺のせいで?
背中にひやりと、冷たいものが走る。
一瞬そう考えたけど、すぐに頭の中でそんなはずないって打ち消した。
だって、あの久登先輩だ。俺のことが好きなのはわかっているけど、そこまで落ち込むはずがない。
じゃないと、明日、にいちゃんとデートをするはずがない。
正直、久登先輩が俺の好きなところをたくさん言ってくれても、なんで俺を好きなのか、自分でもよくわかっていないし。久登先輩が俺に与える影響力は絶大だけど、俺が久登先輩に何かをしているという感覚はない。
きっと、他に何か理由があるんだろう。
「来て……るか、分かんない。見てないから」
「見てないの? 前から思ってたけどさ、千茅ってあんまりSNSしないよね」
「そう?」
「そうだよ。だって、スマホなんか必需品だっていうのに、必要最低限の連絡しか来ないじゃん。あまりに来なさすぎるから、たまに来た時、うわってびっくりするし」
そう言われて、俺は久登先輩とだけはたくさんメッセージを送り合っていたことに気づいた。
たぶん、久登先輩が多愛ない話でトークを盛り上げてくれていたからなんだろうけど、本当に毎日のように連絡をとっていた。
「でも、久登先輩とだけは続いたよ」
俺の口から、静かに言葉が漏れる。その刹那、にいちゃんが心配そうに、俺の顔を覗き込んできた。
「千茅、もしかしてあいつと何かあった?」
「何かって」
「なんか、凄く泣きそうな顔してる」
にいちゃんに言われるまで、俺は自分が泣きそうになっていることに気づかなかった。
でも、自覚してしまったら、駄目だった。
唇が震える。涙は我慢できたけれど、言葉は吐きださざるを得なかった。
「にいちゃん、ごめん」
「ん? 何が」
「俺……ずっと言わなきゃいけないことがあって」
「何? なんか怖いんだけど」
にいちゃんはマグカップをこたつに置き直した。ちゃんと話を聞いてくれるみたいに、俺の方へ体をしっかりと向けてくれる。
にいちゃん相手に緊張することなんて、これまでほぼ無きに等しい。なのに、この時は心臓の音が鼓膜の内側で響いているみたいに、ばくばくと激しく聞こえる。
緊張から、胃の辺りが気持ち悪い。気を抜いたら、何かが迫り上がってきそうだ。
俺はごくりと唾を飲んで、話を切り出した。
「にいちゃん、月曜日にデートするって言ってたのに、俺、邪魔しちゃうと思う」
「え……? なんで」
「だって、にいちゃんの好きな人、俺も好きになっちゃったから」
そう伝えた途端、にいちゃんはぽかんとした。一拍置いて、我に返ったみたいに、額を押さえる。
「……えっと、ちょっと待って。僕の好きな人って誰のことだと思ってる?」
「久登先輩」
即答したら、にいちゃんはなんていうか……不快感を最大限に表したみたいに、深いしわを眉間に刻んだ。
「千茅……あのさ、マジで変な勘違いやめて? なんでそこで久登なの。天地がひっくり返ったとしても、あり得ないから」
「え? 久登先輩じゃないの?」
まさかのにいちゃんの言葉に、俺は耳を疑った。
だって、俺と久登先輩が話していると顔色を変えてきたし、久登先輩を時々、俺に近づけまいとする意思を感じる。
それに、にいちゃんはストーカー事件以来、人との距離感に敏感だ。そんなにいちゃんが、クリスマスの日に久登先輩の肩に寄りかかって眠っていたし、その恋のお相手が久登先輩だと思った。
なのに……それが、俺の勘違いだった……?
「違うよ。もー、なんでそんな勘違いするかなあ。僕が好きなのは、長谷川。長谷川明希だよ。ちなみに、彼氏」
にいちゃんはそう言って、また頬をポッと赤らめる。
長谷川先輩といえば、身長が久登先輩と同じくらいあるけど、いかつい。どちらかと言えば、人間と言うよりも、クマ。そんな印象のある先輩だ。
「……長谷川先輩って、あの?」
「そ! 硬派なイケメンでしょ? 威圧感の塊だけど、そこが好きなんだ」
にいちゃんの美的感覚と俺の感覚は少し異なるらしい。うっとりするにいちゃんを見て、俺の頭はほんの少し混乱した。
でも、この数日、生きた心地がしなかったっていうのに、にいちゃんの反応でホッとした。気が抜けて、俺はへにょへにょになってしまう。
「なんだ……俺の、勘違い」
「そう。勘違い。……千茅ってさ、昔からちょっとズレてるよね。恋愛音痴というか……中学の時だって、自分が告白されてるのに僕に告白してるって思って、伝えとくね? って言ってたし」
「うー、ごめん」
にいちゃんの指摘に、俺は何の反論もできない。
「あぁ、こっちこそごめん。怒ってるわけじゃないからね。……てことは、もしかして久登が元気なかったのも、千茅が関係してる?」
「いや……俺、久登先輩に距離置こうとは言ったけど、それくらいじゃ別に……」
と言った瞬間、にいちゃんが目をまん丸にして叫んだ。
「はぁぁぁ!? 好きなのに距離置いたの!? なんでそんなことしたの!? てか、久登ってたぶん、千茅のこと好きだよね!?」
流石に、一昨日の般若のようなにいちゃんとは違うけど、詰め寄るように俺に近づいてくる。
普段、兄弟喧嘩なんてしないから、こんなにいちゃんに耐性のない俺は、ちょっと怯んでしまう。
「だ……だって、久登先輩で頭いっぱいになったら、流されるから」
「なにその変な考え! なんでそんな考えになったの!」
「え、いや、俺も自分の思考回路がわからない……」
「いやいや、わかんないじゃないよ! どーすんの、久登、絶対にそれで凹んでるよ!」
「……やっぱり、俺のせい?」
戸惑う俺を前に、にいちゃんは「はぁー……」と、盛大にため息をこぼした。額を押さえて、やれやれといったように首を振る。
「千茅が久登の魔の手に落ちないようにって守ってきたつもりが……僕の弟の方が危ない子だったよ。久登が不憫だ」
俺は久登先輩に、とんでもないことをやらかしてしまったらしい。
俺の頭に、久登先輩の傷ついた顔が浮かんで、慌ててこたつに置いていたスマホを手に取った。
にいちゃんと向き合おうと思っていたのに、久登先輩の誕生日から二日経った今も、俺たちはまだ話が出来ていない。
というのも、俺は暇さえあれば、リビングのソファに座って、にいちゃんの恋バナに付き合わされているからだ。
一昨日、久登先輩の誕生日パーティーから帰ってきたにいちゃんに、俺はつい「にいちゃんって、好きな人いるんだよね?」と聞いてしまった。
久登先輩の話をする前のワンクッションが欲しくて、質問したんだけど──まぁ、そこからの、惚気が凄い。
最初は軽く聞いただけだったから、にいちゃんは「あー、うん。好きな人はいるけど……」と少し照れた様子で、頬を赤らめながら言っていた。
でも、俺がこれまであまり恋バナをしてこなかったからなのか。はたまた、にいちゃんが自分の気持ちを吐き出す場が欲しかったからなのか。一度、好きな人について口にしたにいちゃんは、見事に止まらなくなってしまった。
「あいつ、身長が高いし顔が良いから、初めて会った時は凄く威圧感あったんだけどね。仲良くなったら実はめちゃくちゃ優しくて」
「へぇ」
「僕のことちゃんと見てくれるし、何かあったらさりげなく助けてくれるんだよ。もう惚れるしかないじゃん」
「ほぉ」
「しかもさ、甘い物が好きって可愛くない? 僕がワクチョコたくさん食べられない分、食べてくれるんだよ。もう、そこもたまらないっていうか……」
「ふぅん」
何とか相槌を打ち続けたものの、デレデレ話すにいちゃんの好きな人は、やっぱり全部久登先輩に当てはまる。
にいちゃんが話すたびに、俺の頭には久登先輩が浮かぶし、その度に虚無状態に陥ってしまった。きっと今ならチベットスナギツネも、俺を仲間として認識してくれるだろう。
そんなこんなで、にいちゃんがそこまで久登先輩を好きなんだなって思ったら、いくら覚悟を決めて臨んでも、俺たちのことを伝えるのを躊躇ってしまった。
下手したら、仲を違えるかもしれないのだ。それはもう慎重にもなる。
ただ、俺が相槌を打っていたことで、にいちゃんが俺と恋バナをするのにハマってしまったらしい。
気づけば、俺は何一つ伝えられないまま──今夜も変わらず、にいちゃんの惚気話を聞いている。
「でね、テスト終わったばっかりだし、明日は一緒に放課後デートする約束したんだよね」
にいちゃんは、本当に久登先輩が好きなんだろう。ついこの前の般若顔が嘘みたいに、にっこにこの可愛い笑顔だ。
ただ、デートという単語はいただけない。
動揺のあまり、俺は「で、デート!?」と、素っ頓狂な声をあげていた。
デートって、あのデートだよな? まさか、俺が距離置いたせいで、たったの二日で、久登先輩が心変わり……?
心がざわつくと共に、じわりと俺の背中に嫌な汗が滲んでしまう。
でも、心変わりされても仕方がないのかもしれないと、俺は密かに思った。
だって、久登先輩の誕生日に『久登先輩、しばらく距離を置きます』とメッセージに送って以来、俺は一度もアプリを開いていないのだ。
通知をオンにしたら絶対に揺らぐから、あえて見ないようにしてるだけだけど。もしその状況で、こんなに可愛いにいちゃんからデートに誘われたら……そっちにコロッといってもおかしくない。
にいちゃんは、そんな俺の心配も知らず、幸せそうだった。弾けんばかりの笑顔を浮かべて、惚気を続ける。
「うん。そう! デート!」
「えぇ……デート。ちなみに、どこに?」
「それ聞くー?」
「き、聞きたいかなぁー、参考になるかなって」
俺は咄嗟に、そう言っていた。
もし、二人でデートするなら、ちょっと俺は先輩を問い詰めなければいけない。
久登先輩、二日で心変わりしたんですかって。
「えっとねー、まずは駅前のカフェで新作ドリンク飲むでしょ。あとは、僕の買い物に付き合ってもらうつもり。ほら──」
にいちゃんは、熱心に放課後デートについて話してくれる。だけど、俺はもう心ここに在らずだった。
久登先輩がにいちゃんとデート……それを知っただけで、俺の頭はすぐいっぱいになってしまう。びっくりするくらい久登先輩一色になるから、シャットアウトしようとしたのに、これじゃあ意味がない。
「千茅? ねぇ、千茅、聞いてる?」
にいちゃんに肩をつつかれて、俺は「あぁ、ごめん」と返事をした。
「なんかここ二日くらい、様子おかしくない? 大丈夫?」
「あー……テスト終わって疲れてるだけかも」
「そう? てか、千茅もだけど、久登もなーんか変なんだよねぇ」
にいちゃんの口から、はっきり久登先輩の名前が出て、ぴくりと俺の眉が動いた。
「変……?」
「昨日の予備校でさ、死んだような顔してた。誕生日の翌日にあんな顔してるとは、なーんかあったよね。ちなみに、今日なんか、メッセージ送ったのに、うんともすんとも反応来ないし」
にいちゃんはため息混じりにそう言って、こたつの上に置いていたマグカップを手に取った。
「千茅のとこには、何か連絡来てない? 最近、仲良くしてるんでしょ?」
にいちゃんはカップのコーヒーを一口飲みながら、俺の方を見てくる。
もしかして、久登先輩は俺のせいで?
背中にひやりと、冷たいものが走る。
一瞬そう考えたけど、すぐに頭の中でそんなはずないって打ち消した。
だって、あの久登先輩だ。俺のことが好きなのはわかっているけど、そこまで落ち込むはずがない。
じゃないと、明日、にいちゃんとデートをするはずがない。
正直、久登先輩が俺の好きなところをたくさん言ってくれても、なんで俺を好きなのか、自分でもよくわかっていないし。久登先輩が俺に与える影響力は絶大だけど、俺が久登先輩に何かをしているという感覚はない。
きっと、他に何か理由があるんだろう。
「来て……るか、分かんない。見てないから」
「見てないの? 前から思ってたけどさ、千茅ってあんまりSNSしないよね」
「そう?」
「そうだよ。だって、スマホなんか必需品だっていうのに、必要最低限の連絡しか来ないじゃん。あまりに来なさすぎるから、たまに来た時、うわってびっくりするし」
そう言われて、俺は久登先輩とだけはたくさんメッセージを送り合っていたことに気づいた。
たぶん、久登先輩が多愛ない話でトークを盛り上げてくれていたからなんだろうけど、本当に毎日のように連絡をとっていた。
「でも、久登先輩とだけは続いたよ」
俺の口から、静かに言葉が漏れる。その刹那、にいちゃんが心配そうに、俺の顔を覗き込んできた。
「千茅、もしかしてあいつと何かあった?」
「何かって」
「なんか、凄く泣きそうな顔してる」
にいちゃんに言われるまで、俺は自分が泣きそうになっていることに気づかなかった。
でも、自覚してしまったら、駄目だった。
唇が震える。涙は我慢できたけれど、言葉は吐きださざるを得なかった。
「にいちゃん、ごめん」
「ん? 何が」
「俺……ずっと言わなきゃいけないことがあって」
「何? なんか怖いんだけど」
にいちゃんはマグカップをこたつに置き直した。ちゃんと話を聞いてくれるみたいに、俺の方へ体をしっかりと向けてくれる。
にいちゃん相手に緊張することなんて、これまでほぼ無きに等しい。なのに、この時は心臓の音が鼓膜の内側で響いているみたいに、ばくばくと激しく聞こえる。
緊張から、胃の辺りが気持ち悪い。気を抜いたら、何かが迫り上がってきそうだ。
俺はごくりと唾を飲んで、話を切り出した。
「にいちゃん、月曜日にデートするって言ってたのに、俺、邪魔しちゃうと思う」
「え……? なんで」
「だって、にいちゃんの好きな人、俺も好きになっちゃったから」
そう伝えた途端、にいちゃんはぽかんとした。一拍置いて、我に返ったみたいに、額を押さえる。
「……えっと、ちょっと待って。僕の好きな人って誰のことだと思ってる?」
「久登先輩」
即答したら、にいちゃんはなんていうか……不快感を最大限に表したみたいに、深いしわを眉間に刻んだ。
「千茅……あのさ、マジで変な勘違いやめて? なんでそこで久登なの。天地がひっくり返ったとしても、あり得ないから」
「え? 久登先輩じゃないの?」
まさかのにいちゃんの言葉に、俺は耳を疑った。
だって、俺と久登先輩が話していると顔色を変えてきたし、久登先輩を時々、俺に近づけまいとする意思を感じる。
それに、にいちゃんはストーカー事件以来、人との距離感に敏感だ。そんなにいちゃんが、クリスマスの日に久登先輩の肩に寄りかかって眠っていたし、その恋のお相手が久登先輩だと思った。
なのに……それが、俺の勘違いだった……?
「違うよ。もー、なんでそんな勘違いするかなあ。僕が好きなのは、長谷川。長谷川明希だよ。ちなみに、彼氏」
にいちゃんはそう言って、また頬をポッと赤らめる。
長谷川先輩といえば、身長が久登先輩と同じくらいあるけど、いかつい。どちらかと言えば、人間と言うよりも、クマ。そんな印象のある先輩だ。
「……長谷川先輩って、あの?」
「そ! 硬派なイケメンでしょ? 威圧感の塊だけど、そこが好きなんだ」
にいちゃんの美的感覚と俺の感覚は少し異なるらしい。うっとりするにいちゃんを見て、俺の頭はほんの少し混乱した。
でも、この数日、生きた心地がしなかったっていうのに、にいちゃんの反応でホッとした。気が抜けて、俺はへにょへにょになってしまう。
「なんだ……俺の、勘違い」
「そう。勘違い。……千茅ってさ、昔からちょっとズレてるよね。恋愛音痴というか……中学の時だって、自分が告白されてるのに僕に告白してるって思って、伝えとくね? って言ってたし」
「うー、ごめん」
にいちゃんの指摘に、俺は何の反論もできない。
「あぁ、こっちこそごめん。怒ってるわけじゃないからね。……てことは、もしかして久登が元気なかったのも、千茅が関係してる?」
「いや……俺、久登先輩に距離置こうとは言ったけど、それくらいじゃ別に……」
と言った瞬間、にいちゃんが目をまん丸にして叫んだ。
「はぁぁぁ!? 好きなのに距離置いたの!? なんでそんなことしたの!? てか、久登ってたぶん、千茅のこと好きだよね!?」
流石に、一昨日の般若のようなにいちゃんとは違うけど、詰め寄るように俺に近づいてくる。
普段、兄弟喧嘩なんてしないから、こんなにいちゃんに耐性のない俺は、ちょっと怯んでしまう。
「だ……だって、久登先輩で頭いっぱいになったら、流されるから」
「なにその変な考え! なんでそんな考えになったの!」
「え、いや、俺も自分の思考回路がわからない……」
「いやいや、わかんないじゃないよ! どーすんの、久登、絶対にそれで凹んでるよ!」
「……やっぱり、俺のせい?」
戸惑う俺を前に、にいちゃんは「はぁー……」と、盛大にため息をこぼした。額を押さえて、やれやれといったように首を振る。
「千茅が久登の魔の手に落ちないようにって守ってきたつもりが……僕の弟の方が危ない子だったよ。久登が不憫だ」
俺は久登先輩に、とんでもないことをやらかしてしまったらしい。
俺の頭に、久登先輩の傷ついた顔が浮かんで、慌ててこたつに置いていたスマホを手に取った。

