ちぃちゃんのことを考えながら走っていたら、気づけば一年の校舎に着いていた。
全速力だったせいで、肺が焼けるみたいに熱いし、苦しい。はぁ、はぁと荒くなった呼吸を整えながら、俺はちぃちゃんの教室の前で足を止めた。
たしか、ちぃちゃんは廊下側の席だったはずだ。ついこの前、「廊下側って、寒いから嫌なんですよね」なんて口を尖らせていたのを思い出す。
採光窓からそっと中を覗くと、すぐにあの可愛い後ろ姿が見つかった。
ただ、その肩に、誰かの腕が乗っている。
それを見た瞬間、あっという間に頭に血がのぼった。
は? なんで勝手に触ってんの。俺でさえ、今日はまだ一度も触れてないのに。
気づけばギリッと奥歯を噛み締めていて、優等生の仮面が剥がれそうになっていた。
落ち着け、俺は優等生……俺は優等生。
ちぃちゃんの前では散々、無様な姿を見せてはいるけど、やっぱりかっこいい先輩でもありたい。
何度も心の中で唱えて、無理矢理にでも呼吸を整えた。
コンコン、と窓を叩く。
けれど、ちぃちゃんは友達と話すのに夢中で、全く俺に気づいてくれない。
代わりに気づいたのは、隣にいた男──えっと……たしか、山本。
和久が「千茅の友達の山本くんって、クール系イケメンなんだよ」って言っていただけあって、なかなかの男前だ。そんな彼は困惑したみたいな顔して、俺を見ていた。
ちぃちゃんが俺に気づかないのは仕方ない。昼休みくらい友達と話したいだろう。
でも、山本が先に気づいた挙句、ちぃちゃんの肩に触れたままなのは嫌だった。
気づけば、勢いよく窓を開けていた。そのガラッという音で、ちぃちゃんの肩がびくっと跳ねる。
「千茅くん、驚かせてごめんね」
言い訳みたいに声を出すと、ちぃちゃんがこちらを向いた。ただでさえ大きな目を、丸くしている。
「久登先輩、何でここに?」
すぐに山本の腕を引き剥がしてくれたのはいいけれど、その声が、ほんの少し戸惑って聞こえて、胸がちくっと痛んだ。
急に来たら、驚くのは当たり前だ。
でも、ちぃちゃんが自分からメッセージを送ってきてくれたから、俺はてっきりちぃちゃんも同じ気持ちだと思っていた。
だけど、この反応は俺だけが会いたかったみたいに思える。
期待して来た分だけ、落差がきつい。
「あー……えっと、やっぱ帰る」
居た堪れなくなって、逃げるみたいに窓を閉めようとした瞬間、ちぃちゃんが俺の腕を掴んできた。
「帰るんですか?」
「いや、やっぱ帰らない」
恥ずかしいことに、即答してしまった。
いや、だってちぃちゃんに呼び止められたら、そう言う以外選択肢がない。
「帰らないんだ」
くすっとちぃちゃんに笑われる。その笑顔が可愛すぎて、俺もつられて目元が緩んだ。
「ちぃちゃんのいったん木綿、生で見たくてきた」
「そうなんですか? わざわざ来なくても、帰りに見せたのに」
ちぃちゃんはさも当たり前みたいに、放課後の時間を俺と過ごしてくれるらしい。
なんだろ、胸がいっぱいになる。
前みたいにウザがられることなく、素直に受け止めてくれるちぃちゃんが、愛おしい。
そんなちぃちゃんの成長に感動していたら、お呼びじゃない男が会話に割って入ってきた。
「もしかして、白川先輩もワクワクマンシール集めてるんですか?」
山本の声は、驚きと戸惑いが半々に混ざっていた。
「集めてるけど、何か変?」
「いえ! 白川先輩が集めてるって……なんか、イメージと違って」
その言葉に、ちぃちゃんがすかさず口を挟んだ。
「山本、なんか俺の時と反応違う」
ちぃちゃんが拗ねたような声を上げた瞬間、前の席にいたクラスメイトが「あははっ」と笑い出した。
「当たり前じゃん、千茅。こいつな……白川先輩に憧れてんの」
「うるせえ、相嶋! ご本人の前で言うな!」
山本は耳まで真っ赤にして叫ぶ。
クールそうに見える外見に反して、その反応があまりに素直で、なんか少し悪い気はしなかった。
ただ、ちぃちゃんの時と反応が違うというのは、気になる。
「千茅くん。俺の時と違うって、なんかあったの?」
そう聞くと、ちぃちゃんも山本も、同時に俺から目を逸らした。余程、言いづらいことらしい。
だが、相嶋というクラスメイトは容赦がない性格みたいだ。悪気ゼロの声で、説明してくれた。
「あー、たぶん、俺と山本が千茅に『小学生かよ』とか『お子ちゃまな千茅に合わせて買ったるわ』とか言ってワクワクマンシール買ったからっすね」
「へーえ」
俺はただ、そう返す。でも、顔に必死に出さないようにしているだけだ。
心の中では、はぁー? お前らちぃちゃんに何を言ってくれてんだよ。と、静かに毒づいていた。
もしかして、駄菓子屋でワクチョコを買おうとした時に反応が悪かったのは、そのせいだろうか。
自分の好きなものを否定されるのは、誰しも嫌だ。軽口でも、それが相手を傷つけることもある。
久慈先生もそうだけど、人の好きなものを否定するやつには、一発お見舞いしたくなる。
誰が何を好きだって、お前に関係ないだろ。好きなものを好きでい続けるって、それだけで才能だってのにって。
俺は、ちぃちゃんに自分の好きなことで、もう二度と傷ついて欲しくない。
ただ、彼らはちぃちゃんの友達だ。傷つけるわけにはいかない。
なら、できることと言えば、これくらいだ。
「じゃあ、山本くんにこれをあげようかな」
胸ポケットから生徒手帳を取り出して、今朝引いた子泣き爺のシールを取り出す。
「これを機に、ワクワクマンシールの魅力にハマってくれると嬉しいし」
にっこり笑って差し出した、その瞬間。
「あっ、ずるい! それ子泣き爺のパラレル!」
ちぃちゃんの声が教室に響いた。
「ん? パラレル……?」
俺は手元のシールを見下ろす。
正直、この子泣き爺よりも、前にちぃちゃんがくれたブラウニーの方が何倍も可愛いと思う。
でも、ちぃちゃんにとって、これはお宝らしい。
「パラレルです! 普通の子泣き爺は白背景のノーマルなんですよ。でもパラレルは同じ白背景なのに、なぜかレアの丸型なんです!」
ちぃちゃんは好きなものになると、ほんとに饒舌だ。
普段より1.5倍速くらい早口になって、目までキラキラさせる。
「そうなんだ。パラレルまであるとか、ワクワクマンシールってやっぱ奥が深いね?」
「そうなんです! なのに、なんで……山本なんかに!」
ちぃちゃんからそう言われた山本は、すぐに噛みついた。
「はぁ? 俺が貰ったんだから、これは俺のもんなの!」
「だって、山本はワクワクマンシールの価値わかんないだろ!」
「これから集めるし! だから帰りに箱買いできる店教えろ!」
「やだよ!」
二人の言い合いがどんどんヒートアップしていく。
俺はその様子を見ながら、目を細めた。
俺の前では敬語を使っていることが多いから気づかなかったけど、ちぃちゃんって、友達の前だとちょっと子どもっぽくなる。
可愛い。本当に、可愛い。
先輩だし、ここで止めなきゃいけないはずなのに、もっと見ていたいと思ってしまった。
そんなちぃちゃんに、俺が彼を好きになったきっかけを伝えることは、これからもないだろう。
出会ったあの日からずっと、惹かれ続けてるけど、口にしてはいけないと思う。
ちぃちゃんの心の傷はまだ塞がっていないから。
こうして、無邪気にワクワクマンシールについて語れるくらい、バスケの話ができる日が来るまで、絶対に隠し通す所存だ。
ただ、俺の胸を熱くしてくれたちぃちゃんの幸せだけを願ってる。
辛いことは思い出してほしくない。
真綿に包んで、大事に大事にしてあげたい。
雨が降ったら、濡れないように傘を差してあげるように、怖いものも、嫌なものも全部取っ払ってやりたい。なんだってやってあげたい。
恋愛って、すごい。
好きな人がいるってだけで、その子が笑ってくれるってだけで、俺をこんなにも人間らしくしてくれる。
「レアシール、また持ってくるから」
そう言うと、ちぃちゃんは山本との言い合いをやめて、俺の方を見た。
くりくりとした目が、嬉しそうに揺れている。
「ほんとですか? 久登先輩、結構引きがいいから、シール交換できるの、楽しみです」
前のちぃちゃんなら、遠慮したり、ツンとしたりしただろうに。ふっと頬を綻ばせて、心を許してくれているようなその返事に、じんわりと胸が温かくなる。
愛おしくて、たまらない。今すぐ抱きしめたくなる衝動を堪えなきゃいけないこの関係が、ひどくもどかしい。
でも、触れられないこの距離感も、ほんの少し心地良くもあった。
「俺も楽しみにしてる」
全速力だったせいで、肺が焼けるみたいに熱いし、苦しい。はぁ、はぁと荒くなった呼吸を整えながら、俺はちぃちゃんの教室の前で足を止めた。
たしか、ちぃちゃんは廊下側の席だったはずだ。ついこの前、「廊下側って、寒いから嫌なんですよね」なんて口を尖らせていたのを思い出す。
採光窓からそっと中を覗くと、すぐにあの可愛い後ろ姿が見つかった。
ただ、その肩に、誰かの腕が乗っている。
それを見た瞬間、あっという間に頭に血がのぼった。
は? なんで勝手に触ってんの。俺でさえ、今日はまだ一度も触れてないのに。
気づけばギリッと奥歯を噛み締めていて、優等生の仮面が剥がれそうになっていた。
落ち着け、俺は優等生……俺は優等生。
ちぃちゃんの前では散々、無様な姿を見せてはいるけど、やっぱりかっこいい先輩でもありたい。
何度も心の中で唱えて、無理矢理にでも呼吸を整えた。
コンコン、と窓を叩く。
けれど、ちぃちゃんは友達と話すのに夢中で、全く俺に気づいてくれない。
代わりに気づいたのは、隣にいた男──えっと……たしか、山本。
和久が「千茅の友達の山本くんって、クール系イケメンなんだよ」って言っていただけあって、なかなかの男前だ。そんな彼は困惑したみたいな顔して、俺を見ていた。
ちぃちゃんが俺に気づかないのは仕方ない。昼休みくらい友達と話したいだろう。
でも、山本が先に気づいた挙句、ちぃちゃんの肩に触れたままなのは嫌だった。
気づけば、勢いよく窓を開けていた。そのガラッという音で、ちぃちゃんの肩がびくっと跳ねる。
「千茅くん、驚かせてごめんね」
言い訳みたいに声を出すと、ちぃちゃんがこちらを向いた。ただでさえ大きな目を、丸くしている。
「久登先輩、何でここに?」
すぐに山本の腕を引き剥がしてくれたのはいいけれど、その声が、ほんの少し戸惑って聞こえて、胸がちくっと痛んだ。
急に来たら、驚くのは当たり前だ。
でも、ちぃちゃんが自分からメッセージを送ってきてくれたから、俺はてっきりちぃちゃんも同じ気持ちだと思っていた。
だけど、この反応は俺だけが会いたかったみたいに思える。
期待して来た分だけ、落差がきつい。
「あー……えっと、やっぱ帰る」
居た堪れなくなって、逃げるみたいに窓を閉めようとした瞬間、ちぃちゃんが俺の腕を掴んできた。
「帰るんですか?」
「いや、やっぱ帰らない」
恥ずかしいことに、即答してしまった。
いや、だってちぃちゃんに呼び止められたら、そう言う以外選択肢がない。
「帰らないんだ」
くすっとちぃちゃんに笑われる。その笑顔が可愛すぎて、俺もつられて目元が緩んだ。
「ちぃちゃんのいったん木綿、生で見たくてきた」
「そうなんですか? わざわざ来なくても、帰りに見せたのに」
ちぃちゃんはさも当たり前みたいに、放課後の時間を俺と過ごしてくれるらしい。
なんだろ、胸がいっぱいになる。
前みたいにウザがられることなく、素直に受け止めてくれるちぃちゃんが、愛おしい。
そんなちぃちゃんの成長に感動していたら、お呼びじゃない男が会話に割って入ってきた。
「もしかして、白川先輩もワクワクマンシール集めてるんですか?」
山本の声は、驚きと戸惑いが半々に混ざっていた。
「集めてるけど、何か変?」
「いえ! 白川先輩が集めてるって……なんか、イメージと違って」
その言葉に、ちぃちゃんがすかさず口を挟んだ。
「山本、なんか俺の時と反応違う」
ちぃちゃんが拗ねたような声を上げた瞬間、前の席にいたクラスメイトが「あははっ」と笑い出した。
「当たり前じゃん、千茅。こいつな……白川先輩に憧れてんの」
「うるせえ、相嶋! ご本人の前で言うな!」
山本は耳まで真っ赤にして叫ぶ。
クールそうに見える外見に反して、その反応があまりに素直で、なんか少し悪い気はしなかった。
ただ、ちぃちゃんの時と反応が違うというのは、気になる。
「千茅くん。俺の時と違うって、なんかあったの?」
そう聞くと、ちぃちゃんも山本も、同時に俺から目を逸らした。余程、言いづらいことらしい。
だが、相嶋というクラスメイトは容赦がない性格みたいだ。悪気ゼロの声で、説明してくれた。
「あー、たぶん、俺と山本が千茅に『小学生かよ』とか『お子ちゃまな千茅に合わせて買ったるわ』とか言ってワクワクマンシール買ったからっすね」
「へーえ」
俺はただ、そう返す。でも、顔に必死に出さないようにしているだけだ。
心の中では、はぁー? お前らちぃちゃんに何を言ってくれてんだよ。と、静かに毒づいていた。
もしかして、駄菓子屋でワクチョコを買おうとした時に反応が悪かったのは、そのせいだろうか。
自分の好きなものを否定されるのは、誰しも嫌だ。軽口でも、それが相手を傷つけることもある。
久慈先生もそうだけど、人の好きなものを否定するやつには、一発お見舞いしたくなる。
誰が何を好きだって、お前に関係ないだろ。好きなものを好きでい続けるって、それだけで才能だってのにって。
俺は、ちぃちゃんに自分の好きなことで、もう二度と傷ついて欲しくない。
ただ、彼らはちぃちゃんの友達だ。傷つけるわけにはいかない。
なら、できることと言えば、これくらいだ。
「じゃあ、山本くんにこれをあげようかな」
胸ポケットから生徒手帳を取り出して、今朝引いた子泣き爺のシールを取り出す。
「これを機に、ワクワクマンシールの魅力にハマってくれると嬉しいし」
にっこり笑って差し出した、その瞬間。
「あっ、ずるい! それ子泣き爺のパラレル!」
ちぃちゃんの声が教室に響いた。
「ん? パラレル……?」
俺は手元のシールを見下ろす。
正直、この子泣き爺よりも、前にちぃちゃんがくれたブラウニーの方が何倍も可愛いと思う。
でも、ちぃちゃんにとって、これはお宝らしい。
「パラレルです! 普通の子泣き爺は白背景のノーマルなんですよ。でもパラレルは同じ白背景なのに、なぜかレアの丸型なんです!」
ちぃちゃんは好きなものになると、ほんとに饒舌だ。
普段より1.5倍速くらい早口になって、目までキラキラさせる。
「そうなんだ。パラレルまであるとか、ワクワクマンシールってやっぱ奥が深いね?」
「そうなんです! なのに、なんで……山本なんかに!」
ちぃちゃんからそう言われた山本は、すぐに噛みついた。
「はぁ? 俺が貰ったんだから、これは俺のもんなの!」
「だって、山本はワクワクマンシールの価値わかんないだろ!」
「これから集めるし! だから帰りに箱買いできる店教えろ!」
「やだよ!」
二人の言い合いがどんどんヒートアップしていく。
俺はその様子を見ながら、目を細めた。
俺の前では敬語を使っていることが多いから気づかなかったけど、ちぃちゃんって、友達の前だとちょっと子どもっぽくなる。
可愛い。本当に、可愛い。
先輩だし、ここで止めなきゃいけないはずなのに、もっと見ていたいと思ってしまった。
そんなちぃちゃんに、俺が彼を好きになったきっかけを伝えることは、これからもないだろう。
出会ったあの日からずっと、惹かれ続けてるけど、口にしてはいけないと思う。
ちぃちゃんの心の傷はまだ塞がっていないから。
こうして、無邪気にワクワクマンシールについて語れるくらい、バスケの話ができる日が来るまで、絶対に隠し通す所存だ。
ただ、俺の胸を熱くしてくれたちぃちゃんの幸せだけを願ってる。
辛いことは思い出してほしくない。
真綿に包んで、大事に大事にしてあげたい。
雨が降ったら、濡れないように傘を差してあげるように、怖いものも、嫌なものも全部取っ払ってやりたい。なんだってやってあげたい。
恋愛って、すごい。
好きな人がいるってだけで、その子が笑ってくれるってだけで、俺をこんなにも人間らしくしてくれる。
「レアシール、また持ってくるから」
そう言うと、ちぃちゃんは山本との言い合いをやめて、俺の方を見た。
くりくりとした目が、嬉しそうに揺れている。
「ほんとですか? 久登先輩、結構引きがいいから、シール交換できるの、楽しみです」
前のちぃちゃんなら、遠慮したり、ツンとしたりしただろうに。ふっと頬を綻ばせて、心を許してくれているようなその返事に、じんわりと胸が温かくなる。
愛おしくて、たまらない。今すぐ抱きしめたくなる衝動を堪えなきゃいけないこの関係が、ひどくもどかしい。
でも、触れられないこの距離感も、ほんの少し心地良くもあった。
「俺も楽しみにしてる」

