翌日、土曜日。バレンタイン当日のこの日も、俺はいつも通りばあちゃんの駄菓子屋で店番をしていた。ただ、今日はワクワクマンシールを引いて楽しむわけでもなければ、眠りこけているわけでもない。
コタツの上には、実力テストの復習ノートがあって、それを久登先輩と一緒に作っていた。
ただ、昨日の件があって、久登先輩とは随分と気まずい。
久登先輩は何食わぬ顔して「来たよ、ちぃちゃん」と店に入って来たのに、俺だけが意識しているみたいだ。妙にドギマギしてしまっている。
そんな状態も相まってか、俺は今、全く勉強が手に付かない。
いや、違う。それは言い訳か。
特に苦手な物理基礎──斜面を滑り降りる物体の速さを求める俺の手は今、見事に止まっていた。
俺は数学や化学はそこそこ成績がいいんだけど、物理になった途端、からっきしダメだ。
mg sinθとか、エネルギー保存とか、なんか見ただけで頭が痛くなる。
なのに、抜き打ちであった実力テストは、一学期からの範囲が含まれていたから、そりゃもう大惨事だった。
ただでさえ、今やってる範囲であっぷあっぷしている。なのに、先生から「こんな初歩で躓いてどうするんだ?」と呆れられて、復習するのも嫌で放置した分野なんて、記憶の彼方だ。
おかげで、物理基礎は100点満点中の15点。
選択問題が運良く当たっただけ。自分でも、流石に引いた。
てか、やばい。ほんとに手が動かない。
なんで物理って、こうも宇宙語みたいに見えるんだよ。
久登先輩が隣にいるのに、分からない自分が恥ずかしすぎた。
そっと久登先輩を盗み見ると、先輩は俺の手元を見て、難しい顔をしている。
あぁ、どうしよ。これって、怒られるやつ? それとも、悲惨な点数すぎて呆れられてるのか?
仮にも、気になってる…人…に、こんな点数晒すとか、人生終了レベルの羞恥プレイじゃん……。
悪い方向へばかり考えて胃をキリキリさせていたら、久登先輩が静かに口を開いた。
「ねぇ、ちぃちゃんひとつ、聞いてもいい? どこらへんから躓いた?」
「えっと……あの、うっ……実は大問1の、2問目から」
柄にもなく縮こまりながら、俺は2つ目の問題を指差した。そこは一応、丸はついているものの、選択問題で運良く正解を貰えていただけだった。
「そっかぁ。もしかして……ちぃちゃん、力の分解のところくらいから、ちょっと怪しかったりする?」
久登先輩はそう言って、俺の目を見てきた。
「……なんでそれを?」
「そりゃ、ちぃちゃんの手の止まり具合でね」
久登先輩はふっと目を細めて、俺のペンケースからシャーペンを取り出した。
「ちぃちゃん、そんな悲壮な顔しないで大丈夫だよ。怒ってるわけじゃないし、呆れてもないからさ。分かるまで、いくらでも付き合うから、安心してよ」
カチカチとシャー芯を出しながら、久登先輩は物凄く優しい声で言ってくれる。
怒られるか、呆れられるかの二択だと思っていた。だって、先生ですら、俺に匙を投げたのだ。
なのに、さっきの難しい顔から一変、久登先輩は教えがいのある生徒を見つけたみたいに目元を緩めていた。
想定外の反応に驚いて、シャーペンを持つ手に、ほんの少し力が入る。
「……なんで呆れないんですか?」
「いやいや、むしろなんで呆れるの〜。誰にだって苦手なことはあるじゃん」
久登先輩はまるで俺が変なことを言ってるみたいに、くすくすと笑う。
「でも……こんな初歩の初歩ですよ。ここで躓いてたら、理系には行けないって」
「えー? 物理じゃないと理系に進めないって、誰が言った?」
「誰がって……皆、言ってるし。理系に進むなら物理で、生物は逃げだろって……」
クラスの中でも発言力の強い成績トップ層たちが、そう言っていた。クラスの大半が理系を選択するし、皆、物理を選ぶらしい。
生物を選ぶのは、文系に行く人がほとんどみたいな雰囲気だ。
「それは、その人たちが行きたい分野が物理が必要だからじゃない? T大とか旧帝とかの工学系狙ってる上位層とかでしょ」
「……そうですけど」
「なら気にしないでいいよ。そこに自分を当てはめる必要なんてない」
それって、俺がダメだから……?
なんて思ったら、そんな俺のマイナス思考を見越していたみたいだ。
「はい、ちぃちゃん。そこで、勘違いしなーい。ちぃちゃんはさ、生物基礎も、化学基礎もちゃんと点数取れてたよね。なら、無理に物理にこだわらなくてもいいってことだよ」
「……そう…なんですか?」
「うん。だって、俺も理系クラスだけど生物選択してるやつ普通にいるし。きっと口にしないだけで生物選択する理系の子もいるよ。ちなみに、俺もだし〜」
久登先輩はそう言って、俺に向けてピースサインを作ってみせた。
「……えっ! 久登先輩も!?」
驚きすぎて、声が大きくなった。
意外だった。久登先輩は二年の学年トップだし、てっきり物理なのかと。
あれ? じゃあ……今、見てもらっても大丈夫なのか? なんて思いつつも、先輩は話を続ける。
「うん。生物選択でも行けるところは普通にあるよ。医歯薬とか、農学部とか、理学部でも物理学科以外なら、全然いける。むしろ医歯薬は、生物やってた方が大学入ってから楽っぽいし」
「……意外といけるとこあるんですね」
「そうなんだよ。それに結局、受験は点数勝負じゃん。苦手科目じゃなくて、得意科目を伸ばすってのは、逃げじゃないんだよ。効率良い、正しい選択」
久登先輩から教えてもらった事は、俺からすれば目から鱗だった。
これまで、進路のことをちゃんと調べてこなかったっていうのもあるけど。俺はバスケを辞めてから、やる気なんてもの消えてしまったみたいに、皆に流されるように生きてきた。
そんな俺にとって、進路はずっと靄がかかったみたいだった。
国語も英語も好きじゃないし、得意じゃないから文系は無理そう。だからといって、理系は物理がネック。
進路相談では念のため、文転もできる理系にはしていたけど、自分の流されるような進路の選び方が物凄く不安だった。
まだ、全く進路にはピンとこなくて、やりたい事は見つからない。なのに、ほんの少しだけ未来がクリアになった感じがしてくる。
久登先輩も、生物を選んでいるのなら、なんか尚更未来が明るい気がした。
「とはいえ、ちぃちゃん。苦手でも、目の前のことをやらない理由にはならないからさ。まずは基礎だけ、一緒に分かるようにしていこ。ね?」
久登先輩は逃がさないぞとでも言いたげに、にやりと笑った。
しばらく物理なんてやっていないだろうに、久登先輩からすれば、この科目も朝飯前らしい。
仕方がない。やらないと、終わらない。
俺は覚悟を決めて、背筋を伸ばした。
「……はい」
「よし。じゃあ、理解できるように、ここに図から描いてみよっか」
久登先輩に促されて、俺は頭を捻りながら復習ノートを埋めて行くことになった。
途中で手が止まるし、頭を抱えることも多かったけど、久登先輩は最後まで優しく教えてくれた。
頭が良い人って、ちゃんと理解してるから、頭が良いんだろうか。
久登先輩の教え方は上手で──正直、担当教科の先生よりもずっと物理を面白く感じられた。
「……よし。ここまでで復習出来たなら、十分じゃないかな。ちぃちゃん、今日めっちゃ頑張ったね」
久登先輩のお墨付きも貰って、なんとか終えた復習ノートは、これまでにないほど立派に仕上がった。
久登先輩が要点も教えてくれたから、一緒にそれもまとめた。これで、次に見返した時にも分かりやすいはずだ。
「……ほんとに、ありがとうございます」
出来上がったノートを胸に抱いて、俺は深々と頭を下げた。
「いえいえー。それじゃあ、はい。ちぃちゃんへのご褒美〜」
久登先輩はペンケースの横に、そっと何かを置いてきた。
「……え?」
「ほら、約束の。昨日、バレンタインチョコの代わりって言ったよね?」
「あっ……!」
物理の復習に必死になっていて、ワクワクマンシールのことを、完全に忘れていた。
そんな自分に驚愕すると共に、俺の耳に昨日の久登先輩とのやりとりが蘇る。
──俺はもらうより、バレンタインは好きな子にはあげたい派かなぁ。
──これ、明日のバレンタインの……チョコ代わりね。
思い出した途端に、全身が燃え盛るみたいに熱くなった。
ダメだ。ダメだ。久登先輩に……俺が、す、好き、いや、気になってることがバレてしまう。
慌てて顔を背けたけど、既に遅かったらしい。
「あははっ。ちぃちゃん、耳まで真っ赤。ほ〜ら、ハッピーバレンタイ〜ン」
楽しげな久登先輩の声が、俺の耳を強く打った。
あぁ、もうほんと恥ずかしくてたまらない。
心臓の音が激しくなりすぎて、俺はどうにかなりそうだった。
コタツの上には、実力テストの復習ノートがあって、それを久登先輩と一緒に作っていた。
ただ、昨日の件があって、久登先輩とは随分と気まずい。
久登先輩は何食わぬ顔して「来たよ、ちぃちゃん」と店に入って来たのに、俺だけが意識しているみたいだ。妙にドギマギしてしまっている。
そんな状態も相まってか、俺は今、全く勉強が手に付かない。
いや、違う。それは言い訳か。
特に苦手な物理基礎──斜面を滑り降りる物体の速さを求める俺の手は今、見事に止まっていた。
俺は数学や化学はそこそこ成績がいいんだけど、物理になった途端、からっきしダメだ。
mg sinθとか、エネルギー保存とか、なんか見ただけで頭が痛くなる。
なのに、抜き打ちであった実力テストは、一学期からの範囲が含まれていたから、そりゃもう大惨事だった。
ただでさえ、今やってる範囲であっぷあっぷしている。なのに、先生から「こんな初歩で躓いてどうするんだ?」と呆れられて、復習するのも嫌で放置した分野なんて、記憶の彼方だ。
おかげで、物理基礎は100点満点中の15点。
選択問題が運良く当たっただけ。自分でも、流石に引いた。
てか、やばい。ほんとに手が動かない。
なんで物理って、こうも宇宙語みたいに見えるんだよ。
久登先輩が隣にいるのに、分からない自分が恥ずかしすぎた。
そっと久登先輩を盗み見ると、先輩は俺の手元を見て、難しい顔をしている。
あぁ、どうしよ。これって、怒られるやつ? それとも、悲惨な点数すぎて呆れられてるのか?
仮にも、気になってる…人…に、こんな点数晒すとか、人生終了レベルの羞恥プレイじゃん……。
悪い方向へばかり考えて胃をキリキリさせていたら、久登先輩が静かに口を開いた。
「ねぇ、ちぃちゃんひとつ、聞いてもいい? どこらへんから躓いた?」
「えっと……あの、うっ……実は大問1の、2問目から」
柄にもなく縮こまりながら、俺は2つ目の問題を指差した。そこは一応、丸はついているものの、選択問題で運良く正解を貰えていただけだった。
「そっかぁ。もしかして……ちぃちゃん、力の分解のところくらいから、ちょっと怪しかったりする?」
久登先輩はそう言って、俺の目を見てきた。
「……なんでそれを?」
「そりゃ、ちぃちゃんの手の止まり具合でね」
久登先輩はふっと目を細めて、俺のペンケースからシャーペンを取り出した。
「ちぃちゃん、そんな悲壮な顔しないで大丈夫だよ。怒ってるわけじゃないし、呆れてもないからさ。分かるまで、いくらでも付き合うから、安心してよ」
カチカチとシャー芯を出しながら、久登先輩は物凄く優しい声で言ってくれる。
怒られるか、呆れられるかの二択だと思っていた。だって、先生ですら、俺に匙を投げたのだ。
なのに、さっきの難しい顔から一変、久登先輩は教えがいのある生徒を見つけたみたいに目元を緩めていた。
想定外の反応に驚いて、シャーペンを持つ手に、ほんの少し力が入る。
「……なんで呆れないんですか?」
「いやいや、むしろなんで呆れるの〜。誰にだって苦手なことはあるじゃん」
久登先輩はまるで俺が変なことを言ってるみたいに、くすくすと笑う。
「でも……こんな初歩の初歩ですよ。ここで躓いてたら、理系には行けないって」
「えー? 物理じゃないと理系に進めないって、誰が言った?」
「誰がって……皆、言ってるし。理系に進むなら物理で、生物は逃げだろって……」
クラスの中でも発言力の強い成績トップ層たちが、そう言っていた。クラスの大半が理系を選択するし、皆、物理を選ぶらしい。
生物を選ぶのは、文系に行く人がほとんどみたいな雰囲気だ。
「それは、その人たちが行きたい分野が物理が必要だからじゃない? T大とか旧帝とかの工学系狙ってる上位層とかでしょ」
「……そうですけど」
「なら気にしないでいいよ。そこに自分を当てはめる必要なんてない」
それって、俺がダメだから……?
なんて思ったら、そんな俺のマイナス思考を見越していたみたいだ。
「はい、ちぃちゃん。そこで、勘違いしなーい。ちぃちゃんはさ、生物基礎も、化学基礎もちゃんと点数取れてたよね。なら、無理に物理にこだわらなくてもいいってことだよ」
「……そう…なんですか?」
「うん。だって、俺も理系クラスだけど生物選択してるやつ普通にいるし。きっと口にしないだけで生物選択する理系の子もいるよ。ちなみに、俺もだし〜」
久登先輩はそう言って、俺に向けてピースサインを作ってみせた。
「……えっ! 久登先輩も!?」
驚きすぎて、声が大きくなった。
意外だった。久登先輩は二年の学年トップだし、てっきり物理なのかと。
あれ? じゃあ……今、見てもらっても大丈夫なのか? なんて思いつつも、先輩は話を続ける。
「うん。生物選択でも行けるところは普通にあるよ。医歯薬とか、農学部とか、理学部でも物理学科以外なら、全然いける。むしろ医歯薬は、生物やってた方が大学入ってから楽っぽいし」
「……意外といけるとこあるんですね」
「そうなんだよ。それに結局、受験は点数勝負じゃん。苦手科目じゃなくて、得意科目を伸ばすってのは、逃げじゃないんだよ。効率良い、正しい選択」
久登先輩から教えてもらった事は、俺からすれば目から鱗だった。
これまで、進路のことをちゃんと調べてこなかったっていうのもあるけど。俺はバスケを辞めてから、やる気なんてもの消えてしまったみたいに、皆に流されるように生きてきた。
そんな俺にとって、進路はずっと靄がかかったみたいだった。
国語も英語も好きじゃないし、得意じゃないから文系は無理そう。だからといって、理系は物理がネック。
進路相談では念のため、文転もできる理系にはしていたけど、自分の流されるような進路の選び方が物凄く不安だった。
まだ、全く進路にはピンとこなくて、やりたい事は見つからない。なのに、ほんの少しだけ未来がクリアになった感じがしてくる。
久登先輩も、生物を選んでいるのなら、なんか尚更未来が明るい気がした。
「とはいえ、ちぃちゃん。苦手でも、目の前のことをやらない理由にはならないからさ。まずは基礎だけ、一緒に分かるようにしていこ。ね?」
久登先輩は逃がさないぞとでも言いたげに、にやりと笑った。
しばらく物理なんてやっていないだろうに、久登先輩からすれば、この科目も朝飯前らしい。
仕方がない。やらないと、終わらない。
俺は覚悟を決めて、背筋を伸ばした。
「……はい」
「よし。じゃあ、理解できるように、ここに図から描いてみよっか」
久登先輩に促されて、俺は頭を捻りながら復習ノートを埋めて行くことになった。
途中で手が止まるし、頭を抱えることも多かったけど、久登先輩は最後まで優しく教えてくれた。
頭が良い人って、ちゃんと理解してるから、頭が良いんだろうか。
久登先輩の教え方は上手で──正直、担当教科の先生よりもずっと物理を面白く感じられた。
「……よし。ここまでで復習出来たなら、十分じゃないかな。ちぃちゃん、今日めっちゃ頑張ったね」
久登先輩のお墨付きも貰って、なんとか終えた復習ノートは、これまでにないほど立派に仕上がった。
久登先輩が要点も教えてくれたから、一緒にそれもまとめた。これで、次に見返した時にも分かりやすいはずだ。
「……ほんとに、ありがとうございます」
出来上がったノートを胸に抱いて、俺は深々と頭を下げた。
「いえいえー。それじゃあ、はい。ちぃちゃんへのご褒美〜」
久登先輩はペンケースの横に、そっと何かを置いてきた。
「……え?」
「ほら、約束の。昨日、バレンタインチョコの代わりって言ったよね?」
「あっ……!」
物理の復習に必死になっていて、ワクワクマンシールのことを、完全に忘れていた。
そんな自分に驚愕すると共に、俺の耳に昨日の久登先輩とのやりとりが蘇る。
──俺はもらうより、バレンタインは好きな子にはあげたい派かなぁ。
──これ、明日のバレンタインの……チョコ代わりね。
思い出した途端に、全身が燃え盛るみたいに熱くなった。
ダメだ。ダメだ。久登先輩に……俺が、す、好き、いや、気になってることがバレてしまう。
慌てて顔を背けたけど、既に遅かったらしい。
「あははっ。ちぃちゃん、耳まで真っ赤。ほ〜ら、ハッピーバレンタイ〜ン」
楽しげな久登先輩の声が、俺の耳を強く打った。
あぁ、もうほんと恥ずかしくてたまらない。
心臓の音が激しくなりすぎて、俺はどうにかなりそうだった。

