猫かぶりな兄の親友はブラコンの俺を構いたい

 翌日、土曜日。バレンタイン当日のこの日、俺は駄菓子屋の小上がりで、頭を抱えていた。
 コタツの上には、実力テストの復習ノート。そして、隣には何食わぬ顔して本を読む、久登先輩。
 今日は成績の芳しくなかった科目を中心に、分からない箇所を見てもらうことになったのだけど、昨日の一件もあってかなり気まずい。
 ただ、なんか、俺だけ意識してるみたいだ。
 こっちはまともに顔も見れないってのに、先輩は平然とやって来て「わからないところあったら言ってね〜」なんて言ってきた。
 今なんて、ド下手な鼻歌まで歌ってるし。俺だけ振り回されてるみたいで、ムカつく。

 そもそも、こんな状況で復習ノートなんか作れるはずがない。
 昨日はもう、何も考えたくなくて速攻で布団に入って寝たけど。一夜明けたら冷静になりすぎて、逆に思考が止まらなくなってしまったのだ。
 久登先輩が女子からチョコもらわなくてホッとしたのも、誰かといてモヤつくのも、全部好きだから……?
 すぐ目で追っちゃうのも……?
 なんて考え始めたら、際限なく逡巡してしまった。
 お陰で、今も問題を解く手は止まりっぱなし。考えすぎて、頭がパンクしそうだ。思わず、はぁ、とため息をこぼした時だった。

「ちぃちゃん、なぁに? 大丈夫? わかんないとこあった?」

 久登先輩は本を閉じて、俺の方に身を乗り出してくる。
 その瞬間、洗い立てのシャツみたいな匂いがして、息が止まった。
 やばい。呼吸ってどうしたらいいんだっけ。俺は十六年の人生で初めて、そんなことを考えた。
 しかも、好きなのかもしれない……って思ってから見る久登先輩の顔面は、もはや凶器だ。

「ちぃちゃん?」

 顔を覗き込まれた途端、絶対寿命が十年くらい縮んだと思う。

「えっ、あっ、あのっ! そのっ、えっとぉ!」

 パニックに陥って、身振り手振り慌てふためく。挙動がおかしくなった挙句、俺は「これっ! ここです! 分からないとこ!」と、必死に手元の物理の問題を指差していた。
 いや、まぁ……実際に理解できていないし、嘘ではない。
 何せ、物理基礎で赤点を叩き出して、クラス順位が転がり落ちたのだから。

「あははっ。ちぃちゃん、慌てすぎ。分かんないからって、ぼーっとしてたらだめじゃん」

 久登先輩は自分のことでこうなってるとは、思っていないようで、くすくすと笑った。

「すみません」
「いいよぉ。って、ここかぁ。……うーん。ちぃちゃんって、もしかして力の分解のとこから怪しい感じ?」
 
 久登先輩は至極真面目な顔をして、ちらと俺を見てきた。
 なんか、その表情で俺の頭はすんっと落ち着く。
 今、この人は俺のために時間を割いてくれているんだ。そう思ったら、動揺するとか失礼なのかもって、急に冷静になった。
 シャーペンを握る手に、ほんの少し力が入る。

「えっと……はい。呆れましたよね。一応、理系に進もうとしてるのに」
「えぇ? 呆れないよ。誰にだって苦手ってあるじゃん。ちぃちゃんがわかるまで付き合うから、安心して」

 久登先輩は柔らかく目元を緩めながら、俺のペンケースからシャーペンを取り出す。

「あ……ありがとうございます」
「よし。それじゃあ……理解できるように、ここに図から描いてみよっか」
「ここに?」
「うん。ここに。これの時の図はね──」

 そう優しく促してくれるものだから、嫌でも物理と向き合うしかなかった。俺は久登先輩にがっつり見てもらいながら、復習ノートに取り組むことになった。
 だけど、いくら久登先輩に教えてもらっても、物理は嫌いだ。
 途中で手が止まるし、何度「無理です」「意味わかりません」って、弱音を吐いたかわからない。
 それでも先輩は、根気強く教えてくれた。まるで俺に教えるのが楽しくて仕方ないみたいな顔をしながら。
 その顔を見る度に鼓動が早まったけど、なんとか必死に集中した。お陰で、復習ノートはこれまでにないほど立派に仕上げられたと思う。
 物理も、宇宙語から英語くらいには理解できるようになった気がする。

 しかも、久登先輩は進路の相談にも乗ってくれた。
 理系に進むなら物理なのかも──って、ずっと迷ってたけど、生物好きなら、そっちでいいんじゃない? って背中を押してくれた。それだけで、なんか未来が少し明るく見えるから、不思議だ。
 晴れやかな気持ちで、出来上がったノートをにまにま見ていたら、先輩が話しかけてきた。

「お疲れ、ちぃちゃん。今日はよく頑張ったね」
「……久登先輩のお陰です。ありがとうございます」

 ノートを胸に抱いて、俺は深々と頭を下げる。

「いえいえー。それじゃあ、はい。ちぃちゃんへのご褒美〜」

 久登先輩はペンケースの横に、そっと何かを置いてきた。

「……え?」
「ほら、約束の。昨日、バレンタインチョコの代わりって言ったよね?」
「あっ……!」

 物理の復習に必死になっていて、ワクワクマンシールのことを、完全に忘れていた。
 俺にとって、ワクワクマンシールは宝物なのに、そんな自分に驚愕した。
 それと同時に、俺の耳に昨日の久登先輩とのやりとりが蘇る。
 
 ──俺はもらうより、バレンタインは好きな子にはあげたい派かなぁ。
 ──これ、明日のバレンタインの……チョコ代わりね。

 思い出した途端に、全身が燃え盛るみたいに熱くなった。
 ダメだ。ダメだ。久登先輩に……俺が、す、好き、いや、気になってることがバレてしまう。
 慌てて顔を背けたけど、既に遅かったらしい。

「あははっ。ちぃちゃん、耳まで真っ赤。ほ〜ら、ハッピーバレンタイ〜ン」

 楽しげな久登先輩の声が、俺の耳を強く打った。
 あぁ、もうほんと恥ずかしくてたまらない。
 心臓の音が激しくなりすぎて、俺はどうにかなりそうだった。