猫かぶりな兄の親友は、ブラコンの俺を構いたい


「ん? 白川か。どうしたんだ、急に」
「どうしたもこうしたも……。人の好きなものを『そんなもん』扱いするのも、人の傷を抉るような物言いも、普通に不愉快でした」

 周りの大人たちは、いつも久慈先生に対して、黙ってやり過ごそうとする。なのに、久登先輩だけは俺の隣に立つと、躊躇いもなく言い放った。
 久慈先生は一瞬、言葉を失ったように固まった。

「さ、さっきのは言葉のあやでな……」
「言葉のあやで済む話ですか? 先生の言葉、相良くんの自尊心を傷つけてるように聞こえましたけど」

 久登先輩の言葉は淡々としているのに、その声は冷たい。
 職員室の空気が、一気に張り詰めていく。
 俺の代わりに怒ってくれるような久登先輩の姿に、ぐっと胸が詰まる。ただ、他の先生たちの何事かと言うような視線を感じて、同時に焦りを覚えた。
 久登先輩は優等生だ。俺のせいで先輩に迷惑をかけたら、どうしよう。背中に嫌な汗が滲んでくる。
 だけど、久登先輩を止めようにも、俺はまだ久慈先生の言葉で随分と傷ついていたらしい。喉が張り付いたみたいに、声が出なかった。

「白川、別に俺は──」
「相良くんは我慢強いから、言わないだけですよ。俺は聞いてて嫌でしたし、他の生徒だったらキレてます」

 久登先輩はそう言って、俺の方をちらっと見た。大丈夫だからと言ってくれるみたいに、そっと俺の肩に触れてくる。
 ……そういえば、一昨日、岩渕先生に怒られた時も、久登先輩は俺を庇ってくれたっけ。
 あの時も、久登先輩はにいちゃんの弟じゃなくて、『俺』を守ってくれた。
 あ、やばい。安心して俺、また涙腺壊れたかも。
 目頭が熱くなって、じわじわと目の前が滲んで見える。
 
「……先生、生徒を励ますなら、もう少し言葉は選んだ方がいいと思います。あと、相良くんのフォローは俺がするので、この辺で失礼します」

 久登先輩はそう言うと、俺の肩を抱いたまま、くるりと方向転換をした。
 背後で、久慈先生の「お、おい! 何を勝手に……!」という声がする。
 だけど、久登先輩は立ち止まらなかった。

「ちぃちゃん、こんなところから逃げちゃおう」

 悪戯っぽく笑いながら、久登先輩は俺の肩を抱き寄せたまま、小走りになった。
 
 さっきまでの俺は、暗い場所でぬかるみに足を取られたみたいに、動けなかった。だけど、今は久登先輩のおかげで、暗闇に光が差したようだ。目の前が明るい。痛みで重くなっていた俺の足も、随分と軽かった。
 不思議だ。水底に沈んでいたような心が、先輩の手で、少しずつ浮かんでいくみたいだ。
 今なら、久登先輩とどこまでも走っていけそうな気がする。
 この温かな手が、俺から離れていかないで欲しい。そんな風に強く思ったら、自分でも驚くくらい心臓がうるさくなった。
 

 職員室の扉を閉めた途端、久登先輩はふぅっと息を吐いた。俺の肩から手が離れると、なんとも言えない名残惜しさが俺の胸に残った。

「ごめんね、ちぃちゃん」

 そう言って俺の方を向く久登先輩は、申し訳なさそうに眉尻を下げている。
 なんで、久登先輩が謝ってるんだろう。岩渕先生に注意された後も、同じように謝ってきた。久登先輩は謝ってばかりだ。

「なんで……久登先輩が謝るんですか。助けてくれたのに」
「……だって、かっこ悪かったでしょ。あんな風にしか、言えなくて」
「どの辺りが……?」

 かっこ悪いとか、かっこいいとか、よく分からない。
 久登先輩は二度も、俺を助けてくれた。
 今回は職員室にはたくさんの大人がいて、でも誰も俺を助けてくれなかったのに。久登先輩だけは、俺にまっすぐ手を差し伸べてくれた。
 俺の気持ちも代弁するみたいに、久慈先生に一発どころか数発かましてくれた。
 それだけで、十分すぎる。

「だって、もっと……コンプラ的にどうなのかとか、色々詰めれる要素いっぱいあったじゃん。数え出したらキリがないくらい、あの人に言えることたくさんあったんだよ。なのに、俺はそれをしなかった」

 悔しそうに眉を寄せる先輩を見たら、その理由もわかる気がした。
 きっと、あのまま二人が口論になるようなことがあったら、久慈先生のことだ。さらに、俺にネチネチ絡んでくるだろうなって、俺ですら想像できる。
 
 たぶん、きっと久登先輩は俺の立場が悪くなるって思ったから、あそこで踏みとどまってくれたんだろう。
 そばで見てきた久登先輩は、随分と優しい人だ。俺を揶揄うことはあっても、大事にしてくれているのを感じる。
 そんな人が、俺の立場を追い詰めるようなことはしない。

「久登先輩、ありがとうございます」
「え? ありがとうございます?」
「ありがとうございます、ですよ。久登先輩はかっこ悪いって言うけど、俺にとっては凄くかっこよかったから」

 普段なら恥ずかしくて言えないけど、今なら言えるような気がして、俺は素直に口にした。
 すると、久登先輩は「ほんと?」って半信半疑みたいに言いながらも、嬉しそうに笑ってくれた。その笑顔に、胸の辺りにくすぐったさを覚える。

「ちぃちゃんの役に立てたなら、よかった。じゃあ、帰ろっか」

 ほっとしたみたいに、穏やかに笑う久登先輩。
 そんな先輩に、いつか俺の傷を話せる日が来るだろうか。
 ううん。来たら、いいな。
 
 根本的な部分の解決は、何もしていない。
 でも、俺のために先生に立ち向かおうとしてくれて、俺のことを考えてくれて、こうして優しく笑ってくれる人がいる。
 久登先輩がそばにいてくれたら、今は何もない俺でも、もう少し前を向いていけるような気がした。

「はい」と返事しながら、つられてふっと頰が緩んだ。