「あ……あの……五条様、このお部屋は……」
お屋敷に戻ると、いつも滞在させていただいている部屋とは全然違う、広く重厚な部屋へ案内された。
窓際の書机、磨かれた木の艶、整然と並ぶ書籍。
どれもが静かでいて——そして、踏み入れた瞬間にわかる。
ここが五条様のお部屋だ。
五条様の香りが、壁も調度も、空気の隅々にまで染みていて、胸の内へ招かれたみたいに息を呑む。
「晴れて正式な婚約者になった。……やっと、部屋に入れられる」
そう言って、五条様は私をソファへ座らせると、すぐに手を取る。
最初は触れているだけだった指先が、いつしか繋がれ、絡み合い、解けない形になっていく。
手の平に伝わる熱は、もうどちらのものかわからないほどで——
この手を離すなんて、未来永劫できる気がしない。
五条様は、私がいいと言ってくださった。
『無華』だと罵られ、親にすら捨てられた、この私を。
信じたい。信じさせてほしい。
五条様のために、私も変わりたい。
「五条様に、何の痛みもなく触れられるのは……私だけなんですよね?」
「……ああ」
「……私に、こんなふうに優しく触れてくださるのも、五条様だけなんです」
きっと、五条様も私と同じように、深い寂しさを抱えていらしたのかもしれない。
触れたい。触れてほしい。触れ合いたい。
その渇望を抱えたまま、やっと互いの渇きを癒せる相手を見つけた——そんな気がした。
生まれた場所も、身分も、境遇も、何もかも違う。
それでも私なら、五条様の孤独な日々に、寄り添えるかもしれない。
ずっと、何をお返しできるのか考えていた。
けれど、どう考えても、私なんかにお返しできるものはなくて……。
それなら、せめて——この優しさに、この気持ちに、応えられる自分になれたなら。
今よりほんの少しだけ、五条様の隣に立つ自信が持てるかもしれない。
「すみれ。そろそろ『五条様』はやめようか」
「え……?」
「同じ苗字になるんだ。いつまでも他人行儀だと、おかしいだろう」
!!!!!
そこまで……深く、未来のことまで、考えたことがなかった。
まさか、私なんかが……け、結婚をして、名字が変わる未来があるだなんて。
「俺の名前は、知っているな」
顔を寄せられ、耳もとで甘く囁かれる。
もちろん……知らないわけがない……。
知らないわけがないのに、恥ずかしさで顔が熱くなり、思わず振袖の裾で覆って小さく頷いた。
言葉にできずにいると、背中へ手が回り、引き寄せられるように抱きしめられる。
「呼ばないと……止められなくなるが」
「……っ!?」
背筋をぞくりと撫でるような指先。
そして、私が覆った手の上から——
頭に、額に、耳に、首筋に……熱を帯びた唇が、雨粒みたいに次々降ってくる。
「え……?え……?え……?」
名前を呼ぶどころじゃない。
離れようとしても、絡んだ指は熱に溶かされたみたいにほどくこともできない。
私を映し出す、熱を帯びた瞳が、ゆっくり近づいてくる。
「……ぁ、あきおみ、さま……!」
よ……呼んでしまった……下のお名前で……!
「残念だな。もう少しだったのに」
もう少しって……残念……って、何が……?
息も絶え絶えで、反射的にごじょ……暁臣様の胸へ顔を埋めてしまう。
暁臣様の香りが近すぎて、息をするだけで頭がふわりと痺れる。
だめだ……。
こんな状態なのに、慰み者としてお相手を……
なんて、あの時の私はなんて大胆なことを考えてしまったんだろう。
お勤めを果たす、とまで自分から口にしたことがある。
どうしてあんな恥ずかしいことをいってしまったんだろう。
とてもじゃないけれど、もう、そんな覚悟を持って、この方に向き合える気がしない。
顔を上げられない私を、暁臣様は宥めるように、頭も背中もゆっくり撫でてくれる。
——こんな扱いに慣れてしまったら、きっと私は、もう離れられなくなる。
「……暁臣様……」
確かめるように、もう一度だけ小さく呼んだ瞬間——抱き寄せる腕に、強い力がこもった。
「……二回は、反則だな。それは、俺のすべてを許すって意味だ」
「え……?」
そう告げられて、顎に触れられる。
次に来るものが何か理解するより早く——熱い唇が、私の唇に触れた。
柔らかくて、震えるほど慎重で、それでも確かに優しい熱を持った。
それは、静かな夜に一輪の花がほころぶような、透明な音のない衝撃だった。
触れた場所から、私の中の冷たさがほどけていくみたいで、息の仕方さえ忘れてしまう。
唇に残る温もりが、『ここにいていい』と言われている気がした。
「……っ、あ……」
唇が離れた瞬間、銀糸のような吐息がこぼれた。
視界が白く霞むなか、暁臣様の瞳だけが、宝物を慈しむ子供のように私を射抜いている。
目を閉じることもできず、瞬きすらできない。
頭がのぼせて、身体の芯がほどけ——へなへなと暁臣様へ倒れ込んだ。
「すみれ!?大丈夫か!」
抱き留められた胸の中は、これ以上ないほど居心地がよくて。
名前を呼ばれるたび、胸が苦しいほど幸せになる。
この腕の中で——私は初めて、自分の居場所を見つけられた気がした。
『無華』の私には、ずっと『色』も『名前』もなかった。
けれど今、私の名前を呼ぶ声がある。
その声が落ちるたび、私の内側にあった真っ白な空白が、暁臣様の色に、少しずつ満たされていく。
それだけで、世界は変わる。
「……暁臣様」
「なんだ?」
「……ずっと、おそばに置いていただけますか……?」
一瞬の沈黙。 それから——腕に込められた力が、さらに強くなった。
凍てついた蔵の隅で、一人震えていた幼い私を、暁臣様の熱が迎えに来てくれた。
「俺が、そうしてほしい」
たったそれだけの言葉が、今まで受け取ったどんな言葉よりも重くて、温かくて。 私は静かに目を閉じた。
暁臣様の胸の中で、私はゆっくり息を吐いた。
居心地の良さに、泣きたくなる。
この腕の中で、私の世界に初めて花が咲いた。
お屋敷に戻ると、いつも滞在させていただいている部屋とは全然違う、広く重厚な部屋へ案内された。
窓際の書机、磨かれた木の艶、整然と並ぶ書籍。
どれもが静かでいて——そして、踏み入れた瞬間にわかる。
ここが五条様のお部屋だ。
五条様の香りが、壁も調度も、空気の隅々にまで染みていて、胸の内へ招かれたみたいに息を呑む。
「晴れて正式な婚約者になった。……やっと、部屋に入れられる」
そう言って、五条様は私をソファへ座らせると、すぐに手を取る。
最初は触れているだけだった指先が、いつしか繋がれ、絡み合い、解けない形になっていく。
手の平に伝わる熱は、もうどちらのものかわからないほどで——
この手を離すなんて、未来永劫できる気がしない。
五条様は、私がいいと言ってくださった。
『無華』だと罵られ、親にすら捨てられた、この私を。
信じたい。信じさせてほしい。
五条様のために、私も変わりたい。
「五条様に、何の痛みもなく触れられるのは……私だけなんですよね?」
「……ああ」
「……私に、こんなふうに優しく触れてくださるのも、五条様だけなんです」
きっと、五条様も私と同じように、深い寂しさを抱えていらしたのかもしれない。
触れたい。触れてほしい。触れ合いたい。
その渇望を抱えたまま、やっと互いの渇きを癒せる相手を見つけた——そんな気がした。
生まれた場所も、身分も、境遇も、何もかも違う。
それでも私なら、五条様の孤独な日々に、寄り添えるかもしれない。
ずっと、何をお返しできるのか考えていた。
けれど、どう考えても、私なんかにお返しできるものはなくて……。
それなら、せめて——この優しさに、この気持ちに、応えられる自分になれたなら。
今よりほんの少しだけ、五条様の隣に立つ自信が持てるかもしれない。
「すみれ。そろそろ『五条様』はやめようか」
「え……?」
「同じ苗字になるんだ。いつまでも他人行儀だと、おかしいだろう」
!!!!!
そこまで……深く、未来のことまで、考えたことがなかった。
まさか、私なんかが……け、結婚をして、名字が変わる未来があるだなんて。
「俺の名前は、知っているな」
顔を寄せられ、耳もとで甘く囁かれる。
もちろん……知らないわけがない……。
知らないわけがないのに、恥ずかしさで顔が熱くなり、思わず振袖の裾で覆って小さく頷いた。
言葉にできずにいると、背中へ手が回り、引き寄せられるように抱きしめられる。
「呼ばないと……止められなくなるが」
「……っ!?」
背筋をぞくりと撫でるような指先。
そして、私が覆った手の上から——
頭に、額に、耳に、首筋に……熱を帯びた唇が、雨粒みたいに次々降ってくる。
「え……?え……?え……?」
名前を呼ぶどころじゃない。
離れようとしても、絡んだ指は熱に溶かされたみたいにほどくこともできない。
私を映し出す、熱を帯びた瞳が、ゆっくり近づいてくる。
「……ぁ、あきおみ、さま……!」
よ……呼んでしまった……下のお名前で……!
「残念だな。もう少しだったのに」
もう少しって……残念……って、何が……?
息も絶え絶えで、反射的にごじょ……暁臣様の胸へ顔を埋めてしまう。
暁臣様の香りが近すぎて、息をするだけで頭がふわりと痺れる。
だめだ……。
こんな状態なのに、慰み者としてお相手を……
なんて、あの時の私はなんて大胆なことを考えてしまったんだろう。
お勤めを果たす、とまで自分から口にしたことがある。
どうしてあんな恥ずかしいことをいってしまったんだろう。
とてもじゃないけれど、もう、そんな覚悟を持って、この方に向き合える気がしない。
顔を上げられない私を、暁臣様は宥めるように、頭も背中もゆっくり撫でてくれる。
——こんな扱いに慣れてしまったら、きっと私は、もう離れられなくなる。
「……暁臣様……」
確かめるように、もう一度だけ小さく呼んだ瞬間——抱き寄せる腕に、強い力がこもった。
「……二回は、反則だな。それは、俺のすべてを許すって意味だ」
「え……?」
そう告げられて、顎に触れられる。
次に来るものが何か理解するより早く——熱い唇が、私の唇に触れた。
柔らかくて、震えるほど慎重で、それでも確かに優しい熱を持った。
それは、静かな夜に一輪の花がほころぶような、透明な音のない衝撃だった。
触れた場所から、私の中の冷たさがほどけていくみたいで、息の仕方さえ忘れてしまう。
唇に残る温もりが、『ここにいていい』と言われている気がした。
「……っ、あ……」
唇が離れた瞬間、銀糸のような吐息がこぼれた。
視界が白く霞むなか、暁臣様の瞳だけが、宝物を慈しむ子供のように私を射抜いている。
目を閉じることもできず、瞬きすらできない。
頭がのぼせて、身体の芯がほどけ——へなへなと暁臣様へ倒れ込んだ。
「すみれ!?大丈夫か!」
抱き留められた胸の中は、これ以上ないほど居心地がよくて。
名前を呼ばれるたび、胸が苦しいほど幸せになる。
この腕の中で——私は初めて、自分の居場所を見つけられた気がした。
『無華』の私には、ずっと『色』も『名前』もなかった。
けれど今、私の名前を呼ぶ声がある。
その声が落ちるたび、私の内側にあった真っ白な空白が、暁臣様の色に、少しずつ満たされていく。
それだけで、世界は変わる。
「……暁臣様」
「なんだ?」
「……ずっと、おそばに置いていただけますか……?」
一瞬の沈黙。 それから——腕に込められた力が、さらに強くなった。
凍てついた蔵の隅で、一人震えていた幼い私を、暁臣様の熱が迎えに来てくれた。
「俺が、そうしてほしい」
たったそれだけの言葉が、今まで受け取ったどんな言葉よりも重くて、温かくて。 私は静かに目を閉じた。
暁臣様の胸の中で、私はゆっくり息を吐いた。
居心地の良さに、泣きたくなる。
この腕の中で、私の世界に初めて花が咲いた。



