無華の花嫁〜蔵に囚われた少女は、黒薔薇の殿下に溺愛される〜

どれくらい、五条様の腕の中で、鼓動が静まるのを待っていたのだろう。
胸の奥がまだ熱く、室内の冷えた空気が喉に刺さる。

コンコンコン

控えめなノック。
続いて、榊原様の落ち着いた声が扉越しに届いた。
少しだけ、名残惜しさを五条様の腕の中に残し、その優しくて熱い体温から離れる。

「殿下。お連れしました」
「通せ」

そういえば、五条様は「後程、会わせたい人が来る」と仰っていた。

「……大丈夫だ」

私の不安が伝わったのか、小さく背中を押される。

扉が開く。

「失礼いたします」

女性の声——それだけで、息が止まった。
入ってきた方の姿を見た瞬間、身体が勝手に動いてしまう。
立ち上がり、声を上げそうになりながら駆け寄った。

そんな……。
何度も夢の中で会いたいと、そして謝りたいと思っていた人。

『いつか……お嬢様を大切にしてくれる方が、きっと現れます……!』

暗い蔵の中で、ほんの一瞬だけ光をくれた人。
私に文字を教えてくれた人。

「お嬢様……!ご立派になられて……」

声が、震えている。
私のほうこそ震えているのに、目の前の彼女の瞳も潤んでいて、息が詰まった。

あの時と同じだ。
優しいけれど、どこか少し困ったような笑み。
けれど頬には、あの頃より少しだけ、穏やかな艶がある。

まさか、もう一度、会える日が来るなんて。

「っ……ごめ……ごめんなさい……!
ずっと……ずっと、謝りたいって……思ってたんです……私のせいで……」
「いいえ、あれは私がやりたくてやったことですから。お嬢様は何も悪くないです」

彼女は首を振り、昔と同じ、静かな声で遮られる。
言いたいことも、伝えたい感謝も山ほどあるのに、涙で言葉にならない。

「積もる話もあるだろう。……ゆっくりするといい」

五条様が、私たちを見て、ほんのわずかに目もとを緩めた。
ハンカチを差し出され、指先が触れそうになって、私は慌てて受け取る。
そして五条様は、余計なものを残さないように、静かに席を外してくださった。

扉が閉まるとすぐに、女中さんが茶器を運び入れる。
白磁の器がかすかに触れ合い、澄んだ音が室内に落ちた。

急須からふわりと立つ、緑茶の優しい香り。
それに混じって、砂糖とバターの甘い匂いがする。
丸い焼き菓子が、上品な皿にきちんと並べられている。
私に気を遣って、ここまで整えてくださるなんて……。

十年以上、会っていなかった。
こうしてコソコソと怯え、隠れることもなく、穏やかな気持ちで向かい合える日が来るなんて。

「……お嬢様は、殿下に本当に愛されているんですね」

彼女は湯呑みに手を添えたまま、ほっとしたように笑った。

「本当に……安心しました」
「っ……そんな……」

直球すぎて、顔が熱くなる。
私は目線を上げることができず、視線を落とした。
愛されている、なんて。
五条様から受ける扱いのすべてが初めてで、どこまでが普通で、どこからが特別なのか。
そんなことを考える間もなく、想像すらできずに今日まで来てしまったのだ。

「朝霞様のお屋敷を出た後、子爵家で拾っていただき、縁あってそちらの三男の方と結婚したんです」

その表情は、朝霞の家にいた頃よりずっと朗らかで、柔らかい。
私に関わったばかりに、突然追い出されて、きっと大変だったはずなのに。
それでも、彼女の瞳は温かい光をたたえていた。

「殿下からは……お嬢様のことを、お調べになられていると伺いました」
「……私の、ことを……」
「はい。私などにもご丁寧に。……それはもう、必死なご様子でいらっしゃいました」

私が勝手に『迷惑』だと決めつけて、勝手に離れようとしていた間も。
五条様は、ただ静かに、必死に、私を手放さないようにしてくださっていた——?