無華の花嫁〜蔵に囚われた少女は、黒薔薇の殿下に溺愛される〜

「すみれ。後ほど、会わせたい人が来る。それまで——少し話をしよう」

不思議そうに首を傾げるすみれを、御所の応接室へ案内する。
天井の高い静かな部屋。
障子越しの光は淡く、香は薄い。絹張りのソファと、低い卓。
湯気の立つ白磁の茶器が用意されていたが、すみれは手を伸ばす余裕もないらしく、膝の上で指を絡めている。

こういう場所は、彼女の息をいくらか楽にする。……そう思った。
けれど、すみれは入口で立ち止まり、どこに座ればいいのか迷っている。
困った子犬のように視線を泳がせ、遠慮が先に立つ。
場違いではないかと怯えるような気配が滲み、その仕草だけで胸が疼くのに、今はまだ深く触れない。

「……ここだ」

手を引き、俺の隣のソファへ座らせる。
指先が触れただけで、すみれの肩が小さく跳ねた。
怯えの名残を確認し、胸の内で舌を打つ。

「先日、すみれの妹の『異能』が、お前に触れようとしたとき……発動しなかったのは覚えているな」
「はい……」
「あれ以降、『赤薔薇』の発火は完全に消えたそうだ」
「そんな……!?」

たった一瞬の接触で、あるはずの力が消える。
『華族』にとって『異能』は生きる根だ。それを失うのは、社会的な死に等しい。
朝霞家は娘の『異能』を失った時点で、二度と表舞台に出られない。
……当然、すみれへ伸びていた手も、ひとまず引くだろう。

「首筋に残る、この痣。母につけられたと言っていたな?」

いまだに残る、すみれの首筋にある痛々しい古傷に、そっと指先で触れる。
肌がひやりと震え、すみれの手が不安げに俺の手首へ添えられた。
夜、(うな)されるとき——すみれは譫言(うわごと)のように『おかあさん』と呼ぶ。
よほど恐ろしい目にあったのだろう。

「すみれの母親の遺骨を、調べさせてもらった」
「……遺骨……を?」
「ああ。朝霞家が懇意にしている寺に、無縁仏のように安置されていた」

自害ゆえか、墓に入れることもなく、粗末な扱いで保管されていたらしい。
朝霞殿の指示か、後妻の憎悪か——どちらにせよ、墓を暴く必要がなかったのは助かった。

「調べた結果、本来なら骨の髄にまで残るはずの『華』の残穢が……一切なかった」
「……母は、牡丹の加護だと聞いていました。……『無華』だったんでしょうか?」
「いや、それはないだろう」

宮内庁の『華見』の記録が残っている。牡丹の『華』を持っていたのは事実だ。
入手した資料には、当時の記録の写しもある。
名と年と、『華』の種類。——すみれの母は、確かにそこにいた。

それなのに残穢がない。……なら、可能性は一つだ。

「俺の推測だが。すみれが、母親の『異能』を……無効化したのではないかと考える」
「無効化……?」

俺に出会う以前、すみれが誰かに『触れられた』最初で最後の瞬間。
母に手をかけられた、あの瞬間に発現したのだろう。
発現してしまえば、触れた相手の『華』を、残穢ごと消す。だから——骨にすら残らない。
自分では気づけない。触れ合いを避けて生きてきたすみれなら、なおさらだ。

「母親は、自分の『異能』が消えたことに気づいたはずだ」
「……やはり……母が自害したのは、私のせいでは……」
「違う。——それは違う」

言葉が勝手に強くなる。
震えるすみれの手を両手で包み、断言する。

「すみれの力を、欲深い父親に利用されるのを恐れたんだ。
だから自害して、証拠ごと消した。……お前を守るために」

すみれは、まだわかっていない。
その能力がどれほど異質で、どれほど脅威かを。

俺の『黒薔薇』ですら、すみれには効かない。
『赤薔薇』の発火も、痕跡一つ残さず消した。
あらゆる『異能』を無力にし、残穢ごと奪い、ただの人間にしてしまう——

当初、『無華』が持つ能力なのかと思い、国中の『無華』を探したが、このような能力を持つ『無華』はいなかった。

この事実が世に出れば、すみれを手に入れた者が『華』の頂点に立つ。
……まさに、『華』の女王だ。
そして女王には、王冠を狙う者と、女王を恐れる者が群がる。どちらも同じくらい危険だ。
欲望も畏怖も、向けられる先が違うだけで、本質は変わらない。
その視線の一つたりとも、俺は許すつもりがない。

だから、俺はお前を、誰にも見せない。誰にも渡さない。
触れさせない。覗かせない。お前の価値を理解した気で近づく者すべてから、俺が遠ざける。

「お前の母親は、確かに手をかけようとしたかもしれない。
だが最後の最期で踏みとどまり、娘であるすみれを守った。——自分の命と引き換えに」
「……本当でしょうか……そんな……私の都合のいいように考えても……」
「もちろんだ」

すみれの瞳が揺れる。紫の光が、涙を溜めて薄く滲む。
俺はその肩を抱き寄せ、背に手の平を当てた。
心臓の音が早い。恐怖と罪悪感がまだ消えないのだろう。
ならばせめて、この腕の中にいる間だけは、何も怯えなくていいと覚えさせたい。

出会った頃は表情の乏しかった彼女が、少しずつ笑うようになり、涙を流せるようになった。
俺の前でなら泣いてもいい、と——すみれが思えたこと。
その成長だけで十分だ。

傷も痛みも、急には消えない。
それでも、少しずつでいい。
いつかすみれが、過去ごと俺に預けてくれる日まで——俺は、ここにいる。