無華の花嫁〜蔵に囚われた少女は、黒薔薇の殿下に溺愛される〜

園遊会で初めて袖を通した、淡い藤色の振袖。
その重みを肩に感じながら、私は大きな謁見の扉の前に立っていた。

分厚い木と金具でできた扉は、『ここから先は別の世界だ』というみたいに冷たい。
胸の奥で鳴る心臓の音が、板を突き抜けて向こう側へ漏れてしまいそうで、息を吸うたび喉が乾いた。

この先には、五条様のお父上。
それだけではない。お父上のお兄様——この国の最高権力者である天皇陛下。
他の宮家の方々も、重臣も、きっと揃っている。

ここにいる全員が、私が五条様の隣に立つに足るのか。
その一点を見定めるために集まっている。

……相応しいわけがない。

朝霞家は一応、伯爵家。けれど、五条宮家とは到底釣り合う身分とは言えない。
なにより私は、何の『華』の加護も持たない『無華』。
五条様の『黒薔薇』に、痛みなく触れられる——
ただそれだけの、都合のよい例外にすぎない。

もし、この婚約が反対されたら。
私は、反論できる言葉すら持たない。
『一緒にいたい』なんて、そんな子供みたいな願いを口にしたら、この場では笑われるだけだ。
紫の瞳を理由に、誰かが『穢れ』だと吐き捨てる光景まで、ありありと想像できる。

「すみれ」

耳もとに落ちた声が、驚くほど近い。
五条様の腕が、私の背を支えるようにわずかに寄り添った。

「心配はいらない。お前はこの場にいる誰よりも強い」

強い?私が?

その言葉の意味を掴むより早く、重厚な扉が厳かな音を立てて、ゆっくりと開いた。
内側から流れてきた空気が、外より少し冷えていて、背筋が粟立つ。

——視線が、刺さる。針の筵とはまさにこのことかもしれない。

広い部屋。大きな楕円の卓。
その周囲をぐるりと囲むように、数十人の人々が座している。
絹と香と権威の匂い。空気だけで息が詰まる。
茶器の縁がかすかに触れ合う音さえ、今の私には大太鼓みたいに響いた。

最奥、五条様のお父上の隣にいる方。
あの人が、天皇陛下……。

圧倒的な威圧感に、膝が笑いそうになる。
指先は冷え、振袖の中で汗が滲む。
それでも倒れずに立っていられるのは、五条様の腕に添えた手と、そこから伝わる体温のおかげだった。

腕を引かれ、数歩。
部屋の中心へ進む。

バタン——扉が閉まる音が、やけに大きく響く。
逃げ道が断たれた、と身体が理解してしまう。

「この度は、我が五条家嫡男、暁臣から皆様へご報告があり、お集まりいただきました」

五条様のお父上が口を開く。
一瞬だけ、全員の視線がお父上に集まり、すぐに——私へ戻る。
目が合うたび、瞳の奥まで測られている気がして、まつ毛の裏が熱くなった。

「この度、朝霞家長女、朝霞すみれ嬢との婚約を、正式にご報告いたします」

一瞬の静寂。
次の瞬間、喧騒が波のように押し寄せた。

「朝霞家は伯爵ではないか」
「その娘の眼……『無華』の証に他ならぬ!」
「皇族に『無華』の血を入れるなど、前代未聞!」
「『王華』たる『黒薔薇』を、軽んじすぎではないか!」

投げつけられる言葉すべてが、研ぎ澄まされた刃となり、身体と心を襲い掛かる。
どれも正しい。私自身が一番わかっている。
反論なんてできる余地も、根拠も、私にはない。

視線が、私の片目——紫の光に集中した気がして、袖の影に隠したくなる。
けれど隠せない。逃げられない。
逃げたら、五条様の背中に泥を塗ることになる。
そう思うだけで、息が浅くなる。

けれど……私は、ただ五条様と一緒にいたくて……
それだけなんです……どうか、どうか……
それ以上の贅沢は言わないので……お願いします……

喉は乾き、懇願の声は唇の裏で凍りつく。
ただ、袖の内で指を握りしめることしかできなかった。

「私は、息子の婚約に賛成する」

その一言で、空気がぴたりと変わる。

「皆様、お気づきですかな?暁臣に寄り添う、すみれ嬢の様子を」

私の……様子?
確認するように、五条様を見上げる。
五条様は迷いのない眼差しで、まっすぐ正面を見据え、勝利を確信したような表情で、正面を見つめる。

「まさか……素手……!?何の痛みもなく触れられるのか!?」
「その通り。私と陛下の持つ青薔薇をもってしても、触れることを躊躇う『黒薔薇』の『異能』。ここにお集まりの方々なら、それがどれほど危険な代物か、ご存じでしょう」

先日見せていただいた、五条様の『異能』。
触れるものを、音もなく塵芥へと変える力。

「暁臣が『蟲華』に堕ちた場合、青薔薇の私だけではない。陛下ですら、太刀打ちできないでしょう」

ざわめきは、動揺から恐怖へ変わっていく。
視線が、五条様と私の間を往復する。
測りかねるものを見る目。計算する目。逃げ腰の目。

「この場で、暁臣の『黒薔薇』を制御できる人間は、すみれ嬢のみ。暁臣、他に何か言いたいことはあるか?」
「そうですね」

五条様が、淡々と——けれど挑発するように口角をわずかに上げた。

「我が『黒薔薇』を試そうと、令嬢を差し出せるのでしたら、いつでもお相手しましょう」

……え?
背筋が冷えるより先に、胸がきゅっと縮んだ。
こんな場で、そんな——。

「ご、ご五条様……他のご令嬢がいらしたら……お、お相手、されるのですか……?」

静まり返る部屋の深い沈黙……。
しまった……!思わず心で収めるはずの不安の声が、口から出てしまった……。

国の未来を決める席で、私は何を——。
なんて浅ましいことを言ってしまったんだろう。
穴があったら、今すぐ入りたい。いえ、この場から消えてしまいたい。
耳が熱くて、頬が燃える。振袖の袖が、私の震えを隠してくれない。

「ぶははははははっ!!」

静寂を破るように、一番奥の席から大きな笑い声が響いた。
気が付けば、私が掴む五条様の腕がプルプルと震えている。
目線を上げてみると……笑いをこらえている……

「暁臣!随分と面白い娘を見つけたではないか!」
「陛下……!」

笑ったのは、天皇陛下だった。
五条様とどこか似た、深く慈悲深い眼差しが、私に向けられる。

「『黒薔薇』の制御は、この国の最重要事項だ。それが可能であるなら、婚約に反対するまでもあるまい」

陛下は軽く頷き、場を裁くように言った。

「慶事だ。みな、祝うがいい」

その言葉に促されるように、ぱらぱら、と拍手が起こる。
やがて大きく、整い、——そしてどこか形式的になる。
先ほどまで鋭かった視線が、今度は『仕方ない』と割り切るような冷えに変わっていくのも、わかってしまった。

完全に祝われていないことは、痛いほどわかっている。
私のような人間が、この場に立つこと自体、本来あり得ない。

それでも。
五条様とお父上と、そしてこの場で最も高貴なお方が——
『無華』の私に、確かに目を向けてくださっている。

その事実が、胸の奥に小さな灯をともした。
怖いのに、嬉しい。
こんな感情は、蔵の中では一度も持ったことがなかった。

瞳を閉じ、深々と頭を下げる。
震えは止まらない。
けれど、五条様の腕の温もりだけは、変わらなかった。