目の前のすみれを見て、危うく声に出して笑いそうになる。
ついさっきまで恐怖で蒼白だった顔が、言葉を噛み砕くうちに、桜の花弁みたいに薄い桃色へ変わり、いまは林檎のように真っ赤だ。
……こうなるだろうと思っていた。
だからこそ、触れたい衝動を抑えて我慢していたのに、こちらの自制だけが空回りする。
『精一杯、お側にいる間、お勤めを果たしますので……』
あの誤解に満ちた、純粋な宣言。
いっそ冗談めかして『では続きを』と先を促して——いや、駄目だ。
すみれは男女の機微も、言葉の『本来の意味』すらも、知らない可能性が高い。
知らないまま、怯えたまま、差し出してくる。
そんなことをさせたいわけじゃない。
「その顔色なら、意識は戻ったようだな。ひとまず大丈夫そうだ」
「……あの……五条様……わ、私の……は、裸を見たから、責任を取ろうとされているのですか?」
裸——。
湯殿で倒れたとき、確かに見た。否定しようがない。
一般の貴族令嬢の裸を見た、という事実だけを切り取れば、政略上『そういう話』にされることもあるだろう。
だが、今この瞬間にそれを持ち出してくるとは。
どこまで俺を煽る気だ……いや、煽っている自覚もないのだろう。
「違う。……俺は『責任』で、お前を縛るつもりはない」
虹彩の混じる紫の瞳が、不安に揺れたまま俺を見つめてくる。
親指で、涙の跡をなぞり、頬に触れる。
触れたくて、触れたいのに——乱暴に掴むのは違う。
この子は、優しさを与えられるほど、次に来る痛みを探し始める。
「俺に触れられて、痛むか?」
「……?いえ……温かいです」
「なら、これは?」
額に唇を落とす。春の野に口づけるみたいに、ただ優しく。
すみれの肩がわずかにピクリと震えたのがわかる。
「……五条様。あ、あの……痛いです……」
「……なに?」
一瞬、背筋が冷える。
『黒薔薇』の『異能』を受け入れられる『器』——それが勘違いだったのか?
いや、違う。受け入れられないなら、素手で触れてこの程度で済むはずがない。
火傷のような痛みで泣き叫ぶか、倒れるか、その前に俺が手を引く。
「胸が……苦しくて痛くて……どうしたら……」
胸、だと?
すみれが抑えるように胸もとへ寄せた華奢な手を見る。
……駄目だ、落ち着け暁臣。これは物理の痛みじゃない。別の痛みだ。
それでも、本人はそれを『痛い』としか言えない。いや、言語化できないだけだ。
百聞は一見に如かず……か。
気を紛らわすように、テーブルの花瓶に挿してあった一輪の薔薇を取った。
「見ていろ」
素手で握った瞬間、花弁がわずかに震え、数秒と経たずに萎れていく。
鮮やかな赤が、茶色へ、灰色へ。
瑞々しさを失い、音もなく塵芥みたいに崩れ落ちた。
……この美しさですら、瞬時に殺す。それが『黒薔薇』の『異能』だ。
人に触れれば、焼けるような痛みを走らせる。
力を誤れば——枯らし、壊すこともできる。
「五条様……これは……?」
「これが俺の『異能』だ。『黒薔薇』の加護、あるいは呪いと言われる力だ」
異能の力としては唯一無二の能力。強大なのは間違いない。
けれど同時に、誰に触れることも、愛することも許されない。
触れた瞬間に傷をつける——それが、この力に生まれた時から背負わされた宿命だ。
釣り合う相手がいないまま、感情を抑えきれなくなれば『蟲華』に堕ちる、とも言われる。
発現した日のことは、よく覚えている。
父を含め、その場は歓喜に沸いた。
皇族の中でも、過去に数人しか発現しなかった奇跡の『異能』だと。
だが、俺にとっては——孤独と絶望の始まりだった。
誰とも触れ合えない。いつ『蟲華』に堕ちるかもわからない。
守るはずの手が、壊す手になる。
「俺が、何の痛みもなく触れられるのは……すみれ、お前だけだ」
「私……だけ?……『無華』の私でも、お役に立てるんですか?」
「誰でもいいわけじゃない。すみれだからいい」
長年染みついた劣等感が、一日二日で消えるはずがない。
不安げに見上げるその顔を、どうすればほどけるのか——答えはまだ掴めない。
それでも。
少しだけ開いた唇に、ほんのり赤みが差しているのが目に入る。
吸い寄せられそうになる衝動を、ぐっと喉の奥へ押し戻し、俺は親指でその唇に触れた。
触れても痛まない。触れても壊れない。
そう確かめるように——そして、自分を戒めるように。
「すみれ。俺の妃になるのが、嫌か?」
「そんな……嫌なんて……こと……」
「……そうか」
言質を取るみたいな言い方になったことを、内心で舌打ちする。
だが、もう引けない。
「まぁ、嫌だと言われても、もう手放す気はないんだがな」
腕の中に収まる、何よりも大切な存在。
この『黒薔薇』の力は、きっと——すみれを守るために与えられたのだ。
そう信じたい。信じられるほどに、俺はもうお前に救われている。
だから、抱きしめる。
逃げ道を塞ぐためじゃない。震えを止めるために。
すみれの細い背を包み込みながら、俺は胸の内で静かに誓った。
俺は、お前のために生きよう。
ついさっきまで恐怖で蒼白だった顔が、言葉を噛み砕くうちに、桜の花弁みたいに薄い桃色へ変わり、いまは林檎のように真っ赤だ。
……こうなるだろうと思っていた。
だからこそ、触れたい衝動を抑えて我慢していたのに、こちらの自制だけが空回りする。
『精一杯、お側にいる間、お勤めを果たしますので……』
あの誤解に満ちた、純粋な宣言。
いっそ冗談めかして『では続きを』と先を促して——いや、駄目だ。
すみれは男女の機微も、言葉の『本来の意味』すらも、知らない可能性が高い。
知らないまま、怯えたまま、差し出してくる。
そんなことをさせたいわけじゃない。
「その顔色なら、意識は戻ったようだな。ひとまず大丈夫そうだ」
「……あの……五条様……わ、私の……は、裸を見たから、責任を取ろうとされているのですか?」
裸——。
湯殿で倒れたとき、確かに見た。否定しようがない。
一般の貴族令嬢の裸を見た、という事実だけを切り取れば、政略上『そういう話』にされることもあるだろう。
だが、今この瞬間にそれを持ち出してくるとは。
どこまで俺を煽る気だ……いや、煽っている自覚もないのだろう。
「違う。……俺は『責任』で、お前を縛るつもりはない」
虹彩の混じる紫の瞳が、不安に揺れたまま俺を見つめてくる。
親指で、涙の跡をなぞり、頬に触れる。
触れたくて、触れたいのに——乱暴に掴むのは違う。
この子は、優しさを与えられるほど、次に来る痛みを探し始める。
「俺に触れられて、痛むか?」
「……?いえ……温かいです」
「なら、これは?」
額に唇を落とす。春の野に口づけるみたいに、ただ優しく。
すみれの肩がわずかにピクリと震えたのがわかる。
「……五条様。あ、あの……痛いです……」
「……なに?」
一瞬、背筋が冷える。
『黒薔薇』の『異能』を受け入れられる『器』——それが勘違いだったのか?
いや、違う。受け入れられないなら、素手で触れてこの程度で済むはずがない。
火傷のような痛みで泣き叫ぶか、倒れるか、その前に俺が手を引く。
「胸が……苦しくて痛くて……どうしたら……」
胸、だと?
すみれが抑えるように胸もとへ寄せた華奢な手を見る。
……駄目だ、落ち着け暁臣。これは物理の痛みじゃない。別の痛みだ。
それでも、本人はそれを『痛い』としか言えない。いや、言語化できないだけだ。
百聞は一見に如かず……か。
気を紛らわすように、テーブルの花瓶に挿してあった一輪の薔薇を取った。
「見ていろ」
素手で握った瞬間、花弁がわずかに震え、数秒と経たずに萎れていく。
鮮やかな赤が、茶色へ、灰色へ。
瑞々しさを失い、音もなく塵芥みたいに崩れ落ちた。
……この美しさですら、瞬時に殺す。それが『黒薔薇』の『異能』だ。
人に触れれば、焼けるような痛みを走らせる。
力を誤れば——枯らし、壊すこともできる。
「五条様……これは……?」
「これが俺の『異能』だ。『黒薔薇』の加護、あるいは呪いと言われる力だ」
異能の力としては唯一無二の能力。強大なのは間違いない。
けれど同時に、誰に触れることも、愛することも許されない。
触れた瞬間に傷をつける——それが、この力に生まれた時から背負わされた宿命だ。
釣り合う相手がいないまま、感情を抑えきれなくなれば『蟲華』に堕ちる、とも言われる。
発現した日のことは、よく覚えている。
父を含め、その場は歓喜に沸いた。
皇族の中でも、過去に数人しか発現しなかった奇跡の『異能』だと。
だが、俺にとっては——孤独と絶望の始まりだった。
誰とも触れ合えない。いつ『蟲華』に堕ちるかもわからない。
守るはずの手が、壊す手になる。
「俺が、何の痛みもなく触れられるのは……すみれ、お前だけだ」
「私……だけ?……『無華』の私でも、お役に立てるんですか?」
「誰でもいいわけじゃない。すみれだからいい」
長年染みついた劣等感が、一日二日で消えるはずがない。
不安げに見上げるその顔を、どうすればほどけるのか——答えはまだ掴めない。
それでも。
少しだけ開いた唇に、ほんのり赤みが差しているのが目に入る。
吸い寄せられそうになる衝動を、ぐっと喉の奥へ押し戻し、俺は親指でその唇に触れた。
触れても痛まない。触れても壊れない。
そう確かめるように——そして、自分を戒めるように。
「すみれ。俺の妃になるのが、嫌か?」
「そんな……嫌なんて……こと……」
「……そうか」
言質を取るみたいな言い方になったことを、内心で舌打ちする。
だが、もう引けない。
「まぁ、嫌だと言われても、もう手放す気はないんだがな」
腕の中に収まる、何よりも大切な存在。
この『黒薔薇』の力は、きっと——すみれを守るために与えられたのだ。
そう信じたい。信じられるほどに、俺はもうお前に救われている。
だから、抱きしめる。
逃げ道を塞ぐためじゃない。震えを止めるために。
すみれの細い背を包み込みながら、俺は胸の内で静かに誓った。
俺は、お前のために生きよう。



