無華の花嫁〜蔵に囚われた少女は、黒薔薇の殿下に溺愛される〜

ばたん、と重い音がして、ようやく静寂が戻る。

その途端、緊張と安堵の糸が同時に切れ、私はへなへなと膝を折って座り込んでしまった。
床が冷たく、手の平が痺れる。足が、他人のものみたいだ。

「すみれ、大丈夫か。すぐに警備の者が来る。もう心配はいらない」

五条様が私に手を伸ばしかける。
——けれど、触れる寸前で、その手は引っ込んでしまった。

胸が、きゅうっと痛み、その指先を名残惜しそうに見つめてしまう。
触れられないのは、私がまた倒れるからだろうか……

この屋敷を、五条様のもとを離れると、自分自身で決意していたはずなのに。
さっき、強い力で抱き締められたことが、心の底から嬉しくて——。
いや、だめだ。誰かのせいにしてはいけない。
あの時、間違いなく私自身が、五条様の側に残ることを望んだのだから。

「すみれ?」

心配と焦燥が混じった声に促されても、立ち上がろうとすると脚が言うことをきかない。
足首の奥まで、力が抜けている。

「……すみません。もう少ししたら、立てますので……」

五条様の深いため息が、頭上で落ちた。
一呼吸置いたのち、諦めたように私を抱きかかえられ、身体がふわりと浮き上がる。

「……っ!あ、あの……」
「いつまでも玄関先にいるわけにいかないだろう。お前を休ませたい」

恥ずかしい。
一難去ったと思ったら、こんなにすぐ、またご迷惑をかけるなんて。

けれど——腕の中は、温かい。
礼装の布越しに伝わる体温と、胸の鼓動。
私の頬が、勝手に熱くなる。

そして、さっきの言葉が頭の中で何度も反芻される。

『未来の妃』。

そのような方がいらっしゃるのに、私をここに残してくださるなんて。
本宅があると聞いたことがある。そこに、未来のお妃様はいらっしゃるのだろうか。
——やはり、慰み者として側に置かれることを望まれたのかもしれない。

それでも、一時でもお側にいられるなら。
そんな浅ましいことを考えるなんて、私はなんて罪深いのだろう。

部屋に戻ると、五条様は私をソファへ下ろす……かと思ったのに、抱えたまま、ご自身が腰を下ろされた。
膝の上に乗せられる形になって、心臓が跳ねる。

久しぶりに触れられた五条様の手は、相変わらず大きく、優しくて——
そして心なしか熱い体温を持っていた。

「あ、あの……私、決してお妃様のお邪魔なんてしませんので……」
「妃?……何の話だ」
「はい。仰っていただけたら、いつでも黙って出ていきますので……
ご迷惑は絶対におかけしません」

五条様は不思議そうに、けれど真剣な顔で私を見下ろす。
ちゃんと身の程を弁えて、それなりの行動を心がけなければ。
この温もりに、甘えてはいけないのに——それでも、指先が震えてしまった。

「あ、あの……私、そういう経験もなく……ご満足していただけるかも、わからないのですが……」
「待て。何を言っているんだ」
「精一杯、お側にいる間、お勤めを果たしますので……」
「待て待て待て……」

そこまで言ったところで、五条様は深い苦悩の色を浮かべた。
眉間に指を当て、頭痛でも堪えるように押さえ、ふっと天井を仰ぐ。

……しまった。
また、何か失敗してしまったかもしれない。
それとも、自分からこんなことを口にするなんて、はしたないと思われてしまった?
もう、何を言うのが正しいのか、どこまでが言っていいことなのかすら、わからなくなる。

私の口は、いつも余計なことばかり言う。
そして余計なことを言うたび、私は捨てられる——そんな考えが過ってしまう。

「……いや、すまない。すみれは悪くない。俺の説明が足りていなかった」

ぐるぐると思考が暴れ出したところを、五条様の手が遮った。
怒鳴るでもなく、止めるように、落ち着かせるように。
その声が、やけに真剣で、喉の奥がきゅっと締まる。

「いいか。妃は今はいない。だが、それは形式的な問題だ」
「……形式的……」
「そして、すみれを追い出すこともない」

今は、いない。
——ということは、未来にはいる。
当然だ。五条様のようなお方に、相応しい妃が現れないわけがない。
胸がひやりと沈み、指先が冷えてくる。

「俺の未来の妃は、すみれだ」

……?
誰が、誰の妃に——?
五条様は、今、私の名を口にした?
耳が信じられなくて、言葉の意味が脳に届かない。
胸の奥で、何かが音もなく崩れそうになる。

「近い内に父上に呼び出されている。その場で——
天皇である叔父上や、他の宮家の前で、正式に婚約を宣誓するつもりだ」
「……あ……それは……おめでとうございます?」

気づけば、酷く間の抜けた言葉が口から落ちていた。
自分でも驚く。私は、何を祝っているの。

五条様の口もとが、ほんの少しだけ緩むと、笑い声が聞こえる。

「……ぷっ。自分のことなのに、ずいぶん他人事だな」
「えっ?」

自分のこと?
どこに、そんな——。

「参ったな」

五条様が、呆れたように、けれど優しく息を吐く。
そして、そのまま真っすぐに私を見つめた。

「こんなふうに混乱した顔すら、愛しくなる」

その言葉と、揺るぎない眼差しに、胸が激しく跳ねる。
待って……私、もしかして。
とんでもなく大きな勘違いを、していた?

だって『妃は今はいない』って——未来にはいる、ということで。
でも『俺の未来の妃は、すみれだ』って——その『未来』が、私?

そして、五条様が父に向かって言っていた、あの言葉。

『すみれの身には、既にある重大なことが内定している』

まさか。
もし、あの言葉を——そのまま受け取っていいのだとしたら。
それが、私の身の程知らずな夢ではないのならば……。

「……やっと、理解できたか」
「え……あの……」

五条様の声が、静かに落ちた。
喉の奥が、熱で詰まる。
嬉しいのか、怖いのか、わからない。
ただ、名前を呼ばれたところだけが、ずっと燃えるように残っていた。