父たちのもとへ歩き出そうとした、その瞬間だった。
後ろから、片手で目もとを覆われる。視界が闇に沈むのと同時に、もう片方の腕が力強く回り、身体がめり込むほど抱き締められた。
濃い香と体温が、背中から一気に押し寄せる。
「やはりだめだ。選ばせようと思ったが、俺がお前を手放せる気がしない」
五条様の声は、耳もとで切実に震えていた。
吐息が頬を撫で、その熱に、泣き崩れそうになる。
「ごじょ……ぅ……さま……」
「選ばせてやることもできない。……心が狭い俺を、お前は嫌うだろうか?」
嫌う?私が五条様を?
嫌うことなんて、できるわけがない。
あの仄暗い蔵から、日の当たる場所へ連れ出してくれた。
温かい食事、柔らかい布団、名前を呼ぶ声。
私の存在自体を、当たり前のように受け止めてくれた人。
この方の強さと優しさが、どれだけ私の心と身体を支えてくれたか。
どれだけ無償の愛と時間を注いでくれたか——。
溢れる涙は止まらず、言葉にならなくて、必死に首を振ることしかできなかった。
その時だった。五条様の腕とは別の、鋭い気配を伴う手が、私の胸もとに伸ばされたことに気がつく。
「『無華』のくせに……!お前なんて、消し炭になってしまえ!!」
「……ゆ……り……?」
百合の手の平から、パチパチ、と火花が散る。焦げた匂いが鼻を刺し、空気が一瞬で熱を帯びた。
百合の持つ『赤薔薇』の発火の『異能』。
——触れたものを一瞬で燃やし尽くす、恐ろしい力。
いけない……!!五条様を巻き込んでしまう……!!
火花が爆ぜる音が、百合の指先から私の胸元で弾ける。
燃やされる——そう思った瞬間、身体が勝手に動いた。
反射的に、百合の手首を掴み返す。
熱を覚悟したはずなのに、いつまで待っても焼け付く痛みが来ない。
パチパチ、と鋭く爆ぜていた音が、次第に弱まる。
赤く灯っていた指先が、燻る炭のように色を失い、ただ、冷えた手の平だけが残った。
「は?なんで燃えないのよ……?」
百合は信じられないという顔で腕を振り払う。
私も、何が起きたのかわからない。
何度となく見てきた。百合が触れた布が、木が、紙が——一瞬で黒く崩れるのを。
こんなふうに『異能』が不発に終わる場面など、初めてだ。
「何で燃えないのよ!燃えなさいよっ!!」
「百合!?どうしたの!」
「お母さま、炎が……炎が出ないの……!」
混乱する声が重なるより早く、五条様が私を背後から強く引き寄せた。
それは盾の内側へ押し込むように、私の身体を完全に抱え込み、守り込む。
「お前たち——今、この屋敷の中で、何をしたのかわかっているのか?」
言葉は静かだったのに、圧があった。
玄関の空気そのものが、五条様の怒りで凍りつくみたいに重い。
五条様の声が、凍った刃のように玄関ホールへ響いた。
座り込む百合と、駆け寄る継母を、見下ろす視線は冷たい。
今まで一度も聞いたことのない温度だった。
「すみれの身には、既にある重大なことが内定している。その意味がわかるか?」
……内定……?
私の身に?何のことだろう。
私の知らないところで、五条様との関係について、何かが決まってしまったのだろうか。
胸の奥が、ひやりと沈む。
何かを察したように、父の顔が一瞬で土気色に変わった。
次の瞬間には、継母と百合の頭を乱暴に床へ押さえつけ、五条様へ深々と頭を下げ始める。
髪が床に広がり、布が擦れる音がやけに大きい。
「申しわけありません!!殿下!!妻と娘が、誠に大変な無礼を……!!」
「あなた!?何を……!」
父がこんなにも頭を下げる姿など、見たことがない。
腰に回された五条様の手が、グッと力を込められるのを感じる。
安心させるためではなく、怒りを押し殺しているように思えた。
「ただ……!僭越ながら申し上げますと、朝霞家から出すのならば……」
「何だ。言ってみろ」
「結納金の方を、厚く……」
結納金?
父が何を言い出したのか、一瞬理解できない。
ただ——五条様から金を強請ろうとしている。それだけは痛いほどわかった。
さっきまで土下座していたのに、もう『得』の計算に戻っているなんて。
こんな……五条様に、お金を。
やはり私は迷惑しかかけない存在で、最後の最後まで恥の上塗りをするなんて……
あまりにも醜い父の言葉に、顔を背けてしまう。
胸の奥が焼けるほど恥ずかしい。
「……よいだろう。未来の妃を害そうとした罪を見逃すか、結納金か。どちらを取るのか、選ばせてやる」
……!?妃!?
今、確かに『未来の妃』と聞こえた気がした。耳の奥が、きん、と鳴る。
五条様には——そのような、相応しい方がいらっしゃるのだ。
それなのに私は、ここに残ることを望んでしまった。
さっきまで『望め』と言われ、心が震えて、縋ってしまって——。
やはり、今すぐ離れなければ。
全身の細胞がそう叫んでいるのに、腰を包む五条様の腕は、逃げ道そのものを塞いでしまう。
熱い手の平の重みが、私の決意を溶かしていくみたいで、息が詰まった。
父に目を向ける。
顔を上げることもできず、土気色に青ざめたまま、継母と百合を押さえる手が小刻みに震えていた。
——結局、父が選ぶのは私ではない。いつだって『得』だ。
「わかったのなら、今すぐ去るがいい。二度と、すみれに近づくな」
五条様の言葉が落ちた瞬間、父は無理矢理に継母と百合を立たせ、引きずるように玄関へ向かい始めた。
「ちょっ……お父様!?妃ってどういうことよ!」
「あなた!待ちなさい!結納金は!?」
「——黙れ!」
「————!!」
「——————!!!!」
荒い父の声と、母娘の甲高い声が絡まり合い、玄関ホールに不快な残響を残す。
扉が閉まるまで、その叫びは執拗に続いた。
後ろから、片手で目もとを覆われる。視界が闇に沈むのと同時に、もう片方の腕が力強く回り、身体がめり込むほど抱き締められた。
濃い香と体温が、背中から一気に押し寄せる。
「やはりだめだ。選ばせようと思ったが、俺がお前を手放せる気がしない」
五条様の声は、耳もとで切実に震えていた。
吐息が頬を撫で、その熱に、泣き崩れそうになる。
「ごじょ……ぅ……さま……」
「選ばせてやることもできない。……心が狭い俺を、お前は嫌うだろうか?」
嫌う?私が五条様を?
嫌うことなんて、できるわけがない。
あの仄暗い蔵から、日の当たる場所へ連れ出してくれた。
温かい食事、柔らかい布団、名前を呼ぶ声。
私の存在自体を、当たり前のように受け止めてくれた人。
この方の強さと優しさが、どれだけ私の心と身体を支えてくれたか。
どれだけ無償の愛と時間を注いでくれたか——。
溢れる涙は止まらず、言葉にならなくて、必死に首を振ることしかできなかった。
その時だった。五条様の腕とは別の、鋭い気配を伴う手が、私の胸もとに伸ばされたことに気がつく。
「『無華』のくせに……!お前なんて、消し炭になってしまえ!!」
「……ゆ……り……?」
百合の手の平から、パチパチ、と火花が散る。焦げた匂いが鼻を刺し、空気が一瞬で熱を帯びた。
百合の持つ『赤薔薇』の発火の『異能』。
——触れたものを一瞬で燃やし尽くす、恐ろしい力。
いけない……!!五条様を巻き込んでしまう……!!
火花が爆ぜる音が、百合の指先から私の胸元で弾ける。
燃やされる——そう思った瞬間、身体が勝手に動いた。
反射的に、百合の手首を掴み返す。
熱を覚悟したはずなのに、いつまで待っても焼け付く痛みが来ない。
パチパチ、と鋭く爆ぜていた音が、次第に弱まる。
赤く灯っていた指先が、燻る炭のように色を失い、ただ、冷えた手の平だけが残った。
「は?なんで燃えないのよ……?」
百合は信じられないという顔で腕を振り払う。
私も、何が起きたのかわからない。
何度となく見てきた。百合が触れた布が、木が、紙が——一瞬で黒く崩れるのを。
こんなふうに『異能』が不発に終わる場面など、初めてだ。
「何で燃えないのよ!燃えなさいよっ!!」
「百合!?どうしたの!」
「お母さま、炎が……炎が出ないの……!」
混乱する声が重なるより早く、五条様が私を背後から強く引き寄せた。
それは盾の内側へ押し込むように、私の身体を完全に抱え込み、守り込む。
「お前たち——今、この屋敷の中で、何をしたのかわかっているのか?」
言葉は静かだったのに、圧があった。
玄関の空気そのものが、五条様の怒りで凍りつくみたいに重い。
五条様の声が、凍った刃のように玄関ホールへ響いた。
座り込む百合と、駆け寄る継母を、見下ろす視線は冷たい。
今まで一度も聞いたことのない温度だった。
「すみれの身には、既にある重大なことが内定している。その意味がわかるか?」
……内定……?
私の身に?何のことだろう。
私の知らないところで、五条様との関係について、何かが決まってしまったのだろうか。
胸の奥が、ひやりと沈む。
何かを察したように、父の顔が一瞬で土気色に変わった。
次の瞬間には、継母と百合の頭を乱暴に床へ押さえつけ、五条様へ深々と頭を下げ始める。
髪が床に広がり、布が擦れる音がやけに大きい。
「申しわけありません!!殿下!!妻と娘が、誠に大変な無礼を……!!」
「あなた!?何を……!」
父がこんなにも頭を下げる姿など、見たことがない。
腰に回された五条様の手が、グッと力を込められるのを感じる。
安心させるためではなく、怒りを押し殺しているように思えた。
「ただ……!僭越ながら申し上げますと、朝霞家から出すのならば……」
「何だ。言ってみろ」
「結納金の方を、厚く……」
結納金?
父が何を言い出したのか、一瞬理解できない。
ただ——五条様から金を強請ろうとしている。それだけは痛いほどわかった。
さっきまで土下座していたのに、もう『得』の計算に戻っているなんて。
こんな……五条様に、お金を。
やはり私は迷惑しかかけない存在で、最後の最後まで恥の上塗りをするなんて……
あまりにも醜い父の言葉に、顔を背けてしまう。
胸の奥が焼けるほど恥ずかしい。
「……よいだろう。未来の妃を害そうとした罪を見逃すか、結納金か。どちらを取るのか、選ばせてやる」
……!?妃!?
今、確かに『未来の妃』と聞こえた気がした。耳の奥が、きん、と鳴る。
五条様には——そのような、相応しい方がいらっしゃるのだ。
それなのに私は、ここに残ることを望んでしまった。
さっきまで『望め』と言われ、心が震えて、縋ってしまって——。
やはり、今すぐ離れなければ。
全身の細胞がそう叫んでいるのに、腰を包む五条様の腕は、逃げ道そのものを塞いでしまう。
熱い手の平の重みが、私の決意を溶かしていくみたいで、息が詰まった。
父に目を向ける。
顔を上げることもできず、土気色に青ざめたまま、継母と百合を押さえる手が小刻みに震えていた。
——結局、父が選ぶのは私ではない。いつだって『得』だ。
「わかったのなら、今すぐ去るがいい。二度と、すみれに近づくな」
五条様の言葉が落ちた瞬間、父は無理矢理に継母と百合を立たせ、引きずるように玄関へ向かい始めた。
「ちょっ……お父様!?妃ってどういうことよ!」
「あなた!待ちなさい!結納金は!?」
「——黙れ!」
「————!!」
「——————!!!!」
荒い父の声と、母娘の甲高い声が絡まり合い、玄関ホールに不快な残響を残す。
扉が閉まるまで、その叫びは執拗に続いた。



