そこへ、扉が静かに開き、名前を呼ばれる。
「……すみれ」
五条様の、少し低く響く声。
とっさに、慌てて身体を起こそうとする。
——起きなければ。失礼があってはいけない。
叱られる前に、形だけでも整えなければ。
けれど、胃がその動きを許してくれない。
「っ……!」
「起き上がるな。そのままでいい」
あまりにも欲張って食べたから、呆れられたかもしれない。
それでいて心配そうな低い声が近づいてくる。
音もなく入ってこられて、ベッドの脇にすらりとした影が落ちた。
「具合が悪いと聞いた。顔色も少し悪いな」
「ご、ごめんなさい……私の不注意で」
反射的に、真っ先に謝罪の言葉が出る。
叱られる前に、殴られる前に——身体が勝手にそうする。
五条様がわずかに眉を寄せ、吐く息が静かに落ちた。
「謝るなと言っているだろう」
それは、いつも聞く台詞。
けれど今日は、その声にいつもの威圧感がない。
むしろ、怒りを抑えるというより、私の癖をほどこうとしているみたいに、微かに柔らかかった。
「水は飲めそうか?胃が荒れているのかもしれない。
しばらくは、甘いものは無しだな」
「……っ」
差し出されたグラスを、ぎゅっと握る手に力がこもる。
冷たい硝子が手の平に貼りつき、指先が少し震えた。水面が小さく揺れる。
だめ……また食べたい、なんて。
微塵も考えてはだめだ。
あんな贅沢は人生に一度あっただけで、天にも昇るほどありがたいことなのだから。
「そんな怯えた顔をするな」
「え……?」
「二度と食わせない、とは言っていない」
淡々とした声で、でも言葉だけははっきりと。
五条様は私の表情をじっと見て、続ける。
「今日は俺が無理をさせたせいだ。体調が良くなったらまた行こう。」
さらりと言われて、視線の置き場がなくなる。
嬉しいはずなのに、怖い。
またという言葉が、胸の奥で熱を持ってしまったように感じた。
「いえ……そんな……一度だけで、もう十分です。
一生の思い出ですから、これ以上は……」
ぎゅっと布団を握りしめる。
口に出してから、自分で驚いた。
本当に、そう思ってしまったのだ。
思い出にしてしまえば、失わずに済む——そんな卑怯な計算が、心のどこかで働いて。
「次は、俺と分け合って食べればいい」
「え……」
「俺とは嫌なのか?」
あまりにも当然のように、そして冗談めかして言われて、声が出ない。
次……?本当にまた行くの?
そして、分け合う?五条様と、『無華』の私が?
そこでようやく、五条様の口もとがわずかに緩んでいることに気づいた。
胸の奥が、ふわりと温かくなる。
あまりにも現実的で、あまりにも優しい解決策に、ふっとした小さな笑いがこぼれそうになって——
笑った途端、お腹がきゅっと痛んで、すぐに顔をしかめてしまった。
「……本当に、今日は食べ過ぎてしまいました……」
「そうだな。お前の胃が驚き過ぎたんだろう」
珍しく否定されない。
責められていない、と遅れて理解して、息が少しだけ深くなる。
「明日は消化のよい粥にしよう。厨房にもそう伝えてある」
「……はい」
「梅干しも添えてもらうか」
「はい……」
安堵から、頬が緩んでしまう。
お粥だなんて……それでも、ここでの生活では十分すぎるほどの贅沢なのに。
身体を横たえたまま、ただ天井を見上げる。
さっきまで胃袋がぎゅうぎゅうと苦しんでいたのが、不思議と少しずつ落ち着いてきた気がした。
五条様がここにいる、それだけで。
「眠れそうか」
「……はい」
重い瞼に五条様の手が添えられる。
熱を持った指先ではなく、穏やかな手の平。
その温もりが触れた途端、痛んでいたお腹まで、じんわりとぽかぽかと温かくなる気がした。
添えられた手の平の温もりを感じながら、ゆっくりと目を閉じる。
瞼の裏には、今日初めて見た宝石の輝き。
その向こうには、いつもこちらを見守る五条様の姿。
そのすべてを。繰り返し瞼の裏に思い描く。
どれもこれもが、生まれて初めてのことで。
すべてが夢のように儚いのに、今は確かに、ここにあって……消えないでほしい、と願ってしまった。
「……すみれ」
五条様の、少し低く響く声。
とっさに、慌てて身体を起こそうとする。
——起きなければ。失礼があってはいけない。
叱られる前に、形だけでも整えなければ。
けれど、胃がその動きを許してくれない。
「っ……!」
「起き上がるな。そのままでいい」
あまりにも欲張って食べたから、呆れられたかもしれない。
それでいて心配そうな低い声が近づいてくる。
音もなく入ってこられて、ベッドの脇にすらりとした影が落ちた。
「具合が悪いと聞いた。顔色も少し悪いな」
「ご、ごめんなさい……私の不注意で」
反射的に、真っ先に謝罪の言葉が出る。
叱られる前に、殴られる前に——身体が勝手にそうする。
五条様がわずかに眉を寄せ、吐く息が静かに落ちた。
「謝るなと言っているだろう」
それは、いつも聞く台詞。
けれど今日は、その声にいつもの威圧感がない。
むしろ、怒りを抑えるというより、私の癖をほどこうとしているみたいに、微かに柔らかかった。
「水は飲めそうか?胃が荒れているのかもしれない。
しばらくは、甘いものは無しだな」
「……っ」
差し出されたグラスを、ぎゅっと握る手に力がこもる。
冷たい硝子が手の平に貼りつき、指先が少し震えた。水面が小さく揺れる。
だめ……また食べたい、なんて。
微塵も考えてはだめだ。
あんな贅沢は人生に一度あっただけで、天にも昇るほどありがたいことなのだから。
「そんな怯えた顔をするな」
「え……?」
「二度と食わせない、とは言っていない」
淡々とした声で、でも言葉だけははっきりと。
五条様は私の表情をじっと見て、続ける。
「今日は俺が無理をさせたせいだ。体調が良くなったらまた行こう。」
さらりと言われて、視線の置き場がなくなる。
嬉しいはずなのに、怖い。
またという言葉が、胸の奥で熱を持ってしまったように感じた。
「いえ……そんな……一度だけで、もう十分です。
一生の思い出ですから、これ以上は……」
ぎゅっと布団を握りしめる。
口に出してから、自分で驚いた。
本当に、そう思ってしまったのだ。
思い出にしてしまえば、失わずに済む——そんな卑怯な計算が、心のどこかで働いて。
「次は、俺と分け合って食べればいい」
「え……」
「俺とは嫌なのか?」
あまりにも当然のように、そして冗談めかして言われて、声が出ない。
次……?本当にまた行くの?
そして、分け合う?五条様と、『無華』の私が?
そこでようやく、五条様の口もとがわずかに緩んでいることに気づいた。
胸の奥が、ふわりと温かくなる。
あまりにも現実的で、あまりにも優しい解決策に、ふっとした小さな笑いがこぼれそうになって——
笑った途端、お腹がきゅっと痛んで、すぐに顔をしかめてしまった。
「……本当に、今日は食べ過ぎてしまいました……」
「そうだな。お前の胃が驚き過ぎたんだろう」
珍しく否定されない。
責められていない、と遅れて理解して、息が少しだけ深くなる。
「明日は消化のよい粥にしよう。厨房にもそう伝えてある」
「……はい」
「梅干しも添えてもらうか」
「はい……」
安堵から、頬が緩んでしまう。
お粥だなんて……それでも、ここでの生活では十分すぎるほどの贅沢なのに。
身体を横たえたまま、ただ天井を見上げる。
さっきまで胃袋がぎゅうぎゅうと苦しんでいたのが、不思議と少しずつ落ち着いてきた気がした。
五条様がここにいる、それだけで。
「眠れそうか」
「……はい」
重い瞼に五条様の手が添えられる。
熱を持った指先ではなく、穏やかな手の平。
その温もりが触れた途端、痛んでいたお腹まで、じんわりとぽかぽかと温かくなる気がした。
添えられた手の平の温もりを感じながら、ゆっくりと目を閉じる。
瞼の裏には、今日初めて見た宝石の輝き。
その向こうには、いつもこちらを見守る五条様の姿。
そのすべてを。繰り返し瞼の裏に思い描く。
どれもこれもが、生まれて初めてのことで。
すべてが夢のように儚いのに、今は確かに、ここにあって……消えないでほしい、と願ってしまった。



