無華の花嫁〜蔵に囚われた少女は、黒薔薇の殿下に溺愛される〜

「殿下!」

慌てふためいた女中の甲高い悲鳴が、静寂な廊下を切り裂いた。

「す、すみれ様が……湯殿で倒れられて、意識が……!」

その一言を耳にした瞬間、理性は吹き飛ぶ。
身体が、思考よりも先に本能で動く。
呼吸が荒くなるのも構わず湯殿へ駆け、戸を乱暴に開け放った。

立ち込める白い湯気。湿った熱。
その向こうに——ぐったりと縁にもたれかかる、すみれの華奢な背中が見えた。

濡れた髪が肩に貼りつき、頬は湯の熱か、あるいは発熱か、いつもより赤く上気している。
意識は朧げで、焦点の合わない紫色の瞳が、助けを求めるように虚空を彷徨っていた。

「すみれ!」

足袋ごと湯に踏み込む。水に浸かる音がやけに大きい。
服の裾が濡れるのも構わない。
女中たちが「殿下!」と悲鳴めいた声を上げるのが聞こえた。

「殿下、いけません、お身体が——!」
「後でいくらでも拭けばいい」

それどころではない。

躊躇う暇もなく、細い肩に腕を差し入れて抱き上げる。
指先で手首を探り、脈を確かめた。——薄い。
呼吸も、糸みたいに頼りない。その軽さに、一瞬、息を呑んだ。

……やはり、こんなにも軽いのか。
骨ばかりで、温もりが消えそうで——胸の奥が、ぞっとする。

浴衣も何もまとっていない、湯に濡れた肌の感触が、組んだ腕を通じて直に伝わってくる。
湯に当てられた熱なのか、彼女自身の体温なのか判別がつかない。
頬をかすめた濡れた髪の先端が首筋を伝い、妙に生々しく現実を突きつけた。

……俺の素手が触れているのに、すみれは痛がらない。
『黒薔薇』の棘は、やはり彼女には届かない。
その事実が、今この瞬間も、俺を縛る。
——守らなければならない、と。

「殿下、せめて湯浴み着を!すみれ様が……」
「……今すぐそれを」

短く命じると、女中が慌てて大きな浴用布を広げた。
その中にすみれの身体を包み込み、改めて腕の中で抱き直す。

それでも、濡れた布越しに伝わる輪郭は隠しようがない。
華奢な鎖骨。手の平の中で頼りなく折れてしまいそうな腰のくびれ。
小さな背中が、腕の中でやけに静かに、そして胸を熱くさせる。

女だ——

瞬間、今さらのようにその紛れもない事実を思い知らされる。
いつも怯えた小動物のように震えていた少女。
『黒薔薇』による『異能』の棘を受けても傷つかない、唯一の不思議な『器』。

……違う。

『これ』は……すみれは、『道具』でも、『器』でもない。
俺が勝手に、都合のいい言葉で縛っていただけだ。

腕の中で、かすかに唇が震えるのが見えた。

「……ご、じょぅ、さま……?」

熱に浮かされた、弱々しい、子供のような声が服の袖口を濡らした。
名を呼ばれた、それだけで喉が詰まる。

「ここにいる。……もう何も心配するな」

自分でも驚くほど、声が低く、酷く掠れていた。
胸の奥で何かが決壊して、立場も理屈も、遅れて崩れていく。

皇族という立場のためでも、宮家の存続のためでも、国のためでもない。
ただ、この細い身体がもう二度と、痛みと恐怖に震えることがないように。
それが一人の男の勝手で、独善的な欲望だということも、深く理解している。

——ああ。もう、腹の底で認めるしかない。

すみれは、ただの群がってくるような『女』とも違う。
俺は、すみれをたった一人の『女』として、強く求めている。
手に入れたい。誰にも渡さず、独占したい。
すべての痛みから守り抜き、ただ、あの安堵した顔で笑っていてほしい。

すみれが好きだ。愛しているんだ……
それ以外の感情など、名前を付けられもしないし、存在すらしないと気付かされた。