「車を回してくるので、ここで待っていてください。殿下もすぐに戻られますので、ご心配なく」
お父上に呼ばれ、その場を離れた五条様の代わりに現れたのは、榊原様だった。
その落ち着いた声に頷いたものの、胸の奥はまだ氷の塊みたいに冷たい。
芝生の端——木陰の静かな場所に案内され、私は一人、五条様の帰りを待つことになった。
一人になった途端、堰が切れたように大きく息を吐く。
喉が痛いほど空気を吸っても、まだ足の裏がふわふわしている。
庭園には相変わらず人が多く、ここにまでざわめきが波のように寄せては返す。
ほんのさっきまで、あの視線と囁きの渦中に五条様と立っていたなんて——今でも信じられない。
きっと、五条様のお側にいるという『お役目』も、これで終わるだろう。
お父上の『正式な場』——
それはきっと、私をもとの場所へ押し戻すための場だ。
大丈夫。本来の私がいるべき場所に戻るだけ……
『無華』の証である紫色の瞳に手を添える。
——隠したい。見られたくない。
けれど触れた指先の冷たさが、現実を確かめさせる。
その瞬間。
背後から、忘れたくても決して忘れられない、憎悪のこもった声が突き刺さった。
「なんで忌まわしい『無華』のお姉さまが、五条殿下のお隣にいるのよ」
「……百合……」
振り向いた途端、視界が狭くなる。
目の前には妹である百合、そして……父と継母がいた。
四カ月以上、顔を合わせずに過ごしていたせいだろうか。
蛇に睨まれた蛙みたいに、脚が竦み、逃げようとする気持ちだけが空回りする。
「母と娘、二人揃って忌々しい。この朝霞家の面汚しめ」
継母の吐き捨てるような言葉に、呼吸すら上手くできなくなる。
肺がひゅうっと鳴る。心臓が痛いくらいに暴れ、手の先まで痺れていく。
腕も脚も止めどなく震えて、視線を上げることすらできない。
家の蔵の匂い、冷たい床、濡れた布の重さ——忘れたはずの恐怖が、皮膚の内側から蘇る。
「その気味の悪い眼で、どうやって殿下を誑し込んだの!」
「五条殿下は百合との縁談が進んでいたのだぞ!
お前のような『無華』が、宮家の嫡男のお側にいていいわけないだろう!!」
父と継母の怒声に近い罵倒が、周囲のざわめきをも貫いて耳に入る。
その声に反射するように身体を強張らせ、両腕で身体を庇うように身を屈めた。
次にくるのは叩く音——植え付けられた記憶が身体を勝手に縮こまってしまう。
彼らの言う通りだ……。
五条様が、ただ物珍しがって私を側に置いているだけ。
この場が終わったら、私は近い将来、ただの『無華』の慰み者として扱われて、捨てられる。
——そんなこと、私が一番わかっている。
きっと誰よりも、理解している。
「その振袖も、私の方が似合うに決まっているわ!!今すぐ脱ぎなさい!」
百合が勢いよく掴みかかろうとした瞬間、恐怖で身体が完全に固まった。
袖を引かれたら、帯が解けたら、皆の前で——。
喉の奥がこれでもかというくらい締まって、声が出ない。
「すみれ嬢!!お前たち!!なにをしているんだ!!」
車から慌てて降りてきた榊原様の、悲鳴のような声が空気を裂いた。
その声で、辛うじて意識が現実へ引き戻される。
「大丈夫ですか!?」
「……あ……あ……はぁっ……はぁっ……!」
「このお方の、お身体に触れるな!何をしているのかわかっているのか!!」
榊原様が父たちへ鋭く抗議する。
けれど私の喉は引きつって、何か言おうとしても口が開かない。
息をするのですら、やっとだった。
高価な振袖だということも忘れて、その場に崩れ落ちるように座り込んでしまう。
膝が芝を押し、袖が地面に広がる。
榊原様と父たちが厳しい表情で何か言い合っている——
はずなのに、心臓の鼓動がうるさすぎて、言葉が音にならない。
私が父と継母を止めなければならないのに。
怖くて、顔を上げられない。
あぁ……今度は榊原様にまで、ご迷惑をかけて……
私がいるから。私と関わってしまったせいで。
「すみれ!どうした……!?」
突如、空気を切り裂くような——慌てた五条様の声が響いた。
その声を認識した瞬間、強い力で抱き寄せられる。
礼装の胸に顔が押し当てられ、布越しの体温がどっと流れ込む。
あの落ち着いた香りが、息の奥まで満ちていく。
その腕の中に入った途端、周囲のざわめきも、心臓の激しい痛みも、嘘みたいに遠ざかった。
五条様の腕は私を逃がさないように、けれど痛くない強さで背を抱え込んだ。
手の平が背中を一度、ゆっくり撫でる。
それだけで、凍りついていた呼吸が少し戻る。
「……大丈夫だ」
耳もとで落とされた低い声に、涙が出そうになって、唇を噛んだ。
顔を上げると、父と継母と百合は、気が付けば既にその場から姿を消していた。
「榊原、いったい何があった」
「すみれ嬢のお父上が——」
父の言う通りに違いないのに。
私がいるだけで迷惑をかけるとわかっていながら、この場を一人で去ることすらできないなんて。
「い、いえっ!……悪いのは私なんです!……
私と、関わってしまったせいで、全部……私が、悪いんです」
やっと絞り出した言葉は、五条様の胸に吸い込まれるように、小さく震えた。
お父上に呼ばれ、その場を離れた五条様の代わりに現れたのは、榊原様だった。
その落ち着いた声に頷いたものの、胸の奥はまだ氷の塊みたいに冷たい。
芝生の端——木陰の静かな場所に案内され、私は一人、五条様の帰りを待つことになった。
一人になった途端、堰が切れたように大きく息を吐く。
喉が痛いほど空気を吸っても、まだ足の裏がふわふわしている。
庭園には相変わらず人が多く、ここにまでざわめきが波のように寄せては返す。
ほんのさっきまで、あの視線と囁きの渦中に五条様と立っていたなんて——今でも信じられない。
きっと、五条様のお側にいるという『お役目』も、これで終わるだろう。
お父上の『正式な場』——
それはきっと、私をもとの場所へ押し戻すための場だ。
大丈夫。本来の私がいるべき場所に戻るだけ……
『無華』の証である紫色の瞳に手を添える。
——隠したい。見られたくない。
けれど触れた指先の冷たさが、現実を確かめさせる。
その瞬間。
背後から、忘れたくても決して忘れられない、憎悪のこもった声が突き刺さった。
「なんで忌まわしい『無華』のお姉さまが、五条殿下のお隣にいるのよ」
「……百合……」
振り向いた途端、視界が狭くなる。
目の前には妹である百合、そして……父と継母がいた。
四カ月以上、顔を合わせずに過ごしていたせいだろうか。
蛇に睨まれた蛙みたいに、脚が竦み、逃げようとする気持ちだけが空回りする。
「母と娘、二人揃って忌々しい。この朝霞家の面汚しめ」
継母の吐き捨てるような言葉に、呼吸すら上手くできなくなる。
肺がひゅうっと鳴る。心臓が痛いくらいに暴れ、手の先まで痺れていく。
腕も脚も止めどなく震えて、視線を上げることすらできない。
家の蔵の匂い、冷たい床、濡れた布の重さ——忘れたはずの恐怖が、皮膚の内側から蘇る。
「その気味の悪い眼で、どうやって殿下を誑し込んだの!」
「五条殿下は百合との縁談が進んでいたのだぞ!
お前のような『無華』が、宮家の嫡男のお側にいていいわけないだろう!!」
父と継母の怒声に近い罵倒が、周囲のざわめきをも貫いて耳に入る。
その声に反射するように身体を強張らせ、両腕で身体を庇うように身を屈めた。
次にくるのは叩く音——植え付けられた記憶が身体を勝手に縮こまってしまう。
彼らの言う通りだ……。
五条様が、ただ物珍しがって私を側に置いているだけ。
この場が終わったら、私は近い将来、ただの『無華』の慰み者として扱われて、捨てられる。
——そんなこと、私が一番わかっている。
きっと誰よりも、理解している。
「その振袖も、私の方が似合うに決まっているわ!!今すぐ脱ぎなさい!」
百合が勢いよく掴みかかろうとした瞬間、恐怖で身体が完全に固まった。
袖を引かれたら、帯が解けたら、皆の前で——。
喉の奥がこれでもかというくらい締まって、声が出ない。
「すみれ嬢!!お前たち!!なにをしているんだ!!」
車から慌てて降りてきた榊原様の、悲鳴のような声が空気を裂いた。
その声で、辛うじて意識が現実へ引き戻される。
「大丈夫ですか!?」
「……あ……あ……はぁっ……はぁっ……!」
「このお方の、お身体に触れるな!何をしているのかわかっているのか!!」
榊原様が父たちへ鋭く抗議する。
けれど私の喉は引きつって、何か言おうとしても口が開かない。
息をするのですら、やっとだった。
高価な振袖だということも忘れて、その場に崩れ落ちるように座り込んでしまう。
膝が芝を押し、袖が地面に広がる。
榊原様と父たちが厳しい表情で何か言い合っている——
はずなのに、心臓の鼓動がうるさすぎて、言葉が音にならない。
私が父と継母を止めなければならないのに。
怖くて、顔を上げられない。
あぁ……今度は榊原様にまで、ご迷惑をかけて……
私がいるから。私と関わってしまったせいで。
「すみれ!どうした……!?」
突如、空気を切り裂くような——慌てた五条様の声が響いた。
その声を認識した瞬間、強い力で抱き寄せられる。
礼装の胸に顔が押し当てられ、布越しの体温がどっと流れ込む。
あの落ち着いた香りが、息の奥まで満ちていく。
その腕の中に入った途端、周囲のざわめきも、心臓の激しい痛みも、嘘みたいに遠ざかった。
五条様の腕は私を逃がさないように、けれど痛くない強さで背を抱え込んだ。
手の平が背中を一度、ゆっくり撫でる。
それだけで、凍りついていた呼吸が少し戻る。
「……大丈夫だ」
耳もとで落とされた低い声に、涙が出そうになって、唇を噛んだ。
顔を上げると、父と継母と百合は、気が付けば既にその場から姿を消していた。
「榊原、いったい何があった」
「すみれ嬢のお父上が——」
父の言う通りに違いないのに。
私がいるだけで迷惑をかけるとわかっていながら、この場を一人で去ることすらできないなんて。
「い、いえっ!……悪いのは私なんです!……
私と、関わってしまったせいで、全部……私が、悪いんです」
やっと絞り出した言葉は、五条様の胸に吸い込まれるように、小さく震えた。



