「では、無理に摂る必要はない。せっかくだ、ゆっくり花を愛でるとしよう」
あまりにも自然に、そして当然のことのように言われる。
私が食べられないことも、怖がることも、最初から織り込み済みだったみたいに。
花……。
確かに、ここに来るまでに、俯きながらも視界の端に映った咲き乱れる花は見事だった。
枝いっぱいに咲き誇る薄桃色の桜。淡く霞むような桃色。
その向こうで、生命力に満ちた若葉の緑が、光を透かして揺れている。
風が吹くたび、花弁がはらはらと舞い落ち、袖や肩先に触れては消える。
それだけで、胸の奥の固さがほんの少しほどける気がした。
せめて、この夢のような景色だけでも、しっかり覚えておきたい。
五条様とともにここにいた証を、心のどこかに深く刻んでおきたい。
きっと二度とこんな場に来ることはないのだから——
そう思うほど、目に映るものすべてが名残惜しい。
やっとの思いで顔を上げると、花を愛でると言っていたはずの五条様と、ふいに視線が絡んだ。
「……っ」
その視線は、春の一番暖かな日差しみたいに柔らかくて、深い。
美しく舞い散る桜も、五条様の眼差しも、私には眩しすぎて——
その光に耐えきれず、目を逸らすように、顔を背ける。
「おや。美しい花に嫌われてしまったかな」
さらりと、誰にも聞こえないほどの近さで落とされた言葉に、私の耳がじん、と熱くなる。
冗談めかした声なのに、息が触れる距離で言われると、笑うことすら難しい。
「え……?」
今、なんて言われたのだろう。
さっきのお父上との会話といい、もう頭の思考が追いつかない。
五条様の言葉の端々には、私がまだ理解しきれない真意が込められている気がして、怖いのに、聞き逃したくない。
視線を戻そうとすると、腕の中の私を引き寄せるように、五条様は身体をわずかに近づけた。
振袖の長い藤色の袖と、濃紺の袖口がかすかに触れ合う。
布と布の間に、五条様の体温だけが確かにある。
「どの花よりも、すみれの花が一番美しい」
耳もとで囁くように告げられた言葉に、体温が一気に沸騰したかのように上がる。
低くて穏やかな声が鼓膜を震わせ、耳の奥から胸の奥まで、甘い毒のようにじわりと染み込んでくる。
名前を呼ばれるのとも違う。
花と言われた途端、私はただの人間ではなく、彼の視界に咲くものになってしまうみたいだった。
「っ、そ、そんなわけは……ありません」
そんなわけは、断じてないのに。
途中すれ違った令嬢の方々の、彫刻のように整った美しさ。
磨き上げられた所作、纏う高貴な香りまで、すべてが私とは違う世界の、完全な存在だった。
彼女たちは皆、五条様を真っすぐに見つめていた。
憧れの色を含んだ、真っすぐで力強い眼差しで。
そして、どの方も私なんかより、よっぽど五条様に相応しい方ばかり——
そう思うたび、胸の奥がきしむように痛んだ。
相応しいという言葉が、刃みたいに心に刺さる。
「やっぱり嫌われてしまったか」
「……冗談がすぎます……」
やっとのことで絞り出した言葉は、情けないほど小さい。
否定したいのに、否定すると、また『期待』が減ってしまいそうで怖い。
くすり、と五条様の微かな笑い声が耳もとで響く。
責めるでもなく、拗ねるでもなく、からかうようでいて、どこか甘えを許しているような、親愛のこもった声音。
——その声だけで、私の世界が少しずつ色づき始めた気がした。
顔を上げる勇気が出なくて、はらはらとゆっくり舞い落ちる桜の花弁をただ見つめる。
足もとに落ちた薄桃色が、白い足袋のつま先を、はかなく縁取っていく。
花弁が一枚、振袖の袖に乗って、私の呼吸に合わせて揺れた。
少しだけ目線を上げる。
視界の端から、五条様の袴の裾、腰、胸もと——
そして、変わらずに私だけを見つめる眼差しが、ゆっくりと入ってくる。
五条様は本当に、寸分も違わず、私だけを見つめている。
噂の視線がどれだけ刺さっても、その一点だけは揺れない。
遠くでは、まだ私と五条様のことを噂するような視線とざわめきの中に、『無華』という残酷な言葉が微かに混じって聞こえてくる。
誰かが何かを囁き、また別の誰かがこちらを一瞥して、すぐに視線を逸らす。
そのたびに心が縮むのに、五条様の腕の中にいると、縮みきれない。
けれど、ずっと五条様の腕に寄り添っているせいか——
五条様の腕の力強さと、帯越しに伝わる体温を感じているせいか——
さっきよりは、ほんの少しだけ周囲の声が気にならない気がした。
世界の音が、遠く、静かな音に変わっていく。
桜の匂いと、五条様の落ち着いた香りだけが近い。
今、この瞬間だけは。
私の視界には、美しく咲く桜と、澄んだ春の空と、五条様しかいない——
そんな甘い錯覚すら、五条様の眼差しによって、許されてしまいそうだった。
あまりにも自然に、そして当然のことのように言われる。
私が食べられないことも、怖がることも、最初から織り込み済みだったみたいに。
花……。
確かに、ここに来るまでに、俯きながらも視界の端に映った咲き乱れる花は見事だった。
枝いっぱいに咲き誇る薄桃色の桜。淡く霞むような桃色。
その向こうで、生命力に満ちた若葉の緑が、光を透かして揺れている。
風が吹くたび、花弁がはらはらと舞い落ち、袖や肩先に触れては消える。
それだけで、胸の奥の固さがほんの少しほどける気がした。
せめて、この夢のような景色だけでも、しっかり覚えておきたい。
五条様とともにここにいた証を、心のどこかに深く刻んでおきたい。
きっと二度とこんな場に来ることはないのだから——
そう思うほど、目に映るものすべてが名残惜しい。
やっとの思いで顔を上げると、花を愛でると言っていたはずの五条様と、ふいに視線が絡んだ。
「……っ」
その視線は、春の一番暖かな日差しみたいに柔らかくて、深い。
美しく舞い散る桜も、五条様の眼差しも、私には眩しすぎて——
その光に耐えきれず、目を逸らすように、顔を背ける。
「おや。美しい花に嫌われてしまったかな」
さらりと、誰にも聞こえないほどの近さで落とされた言葉に、私の耳がじん、と熱くなる。
冗談めかした声なのに、息が触れる距離で言われると、笑うことすら難しい。
「え……?」
今、なんて言われたのだろう。
さっきのお父上との会話といい、もう頭の思考が追いつかない。
五条様の言葉の端々には、私がまだ理解しきれない真意が込められている気がして、怖いのに、聞き逃したくない。
視線を戻そうとすると、腕の中の私を引き寄せるように、五条様は身体をわずかに近づけた。
振袖の長い藤色の袖と、濃紺の袖口がかすかに触れ合う。
布と布の間に、五条様の体温だけが確かにある。
「どの花よりも、すみれの花が一番美しい」
耳もとで囁くように告げられた言葉に、体温が一気に沸騰したかのように上がる。
低くて穏やかな声が鼓膜を震わせ、耳の奥から胸の奥まで、甘い毒のようにじわりと染み込んでくる。
名前を呼ばれるのとも違う。
花と言われた途端、私はただの人間ではなく、彼の視界に咲くものになってしまうみたいだった。
「っ、そ、そんなわけは……ありません」
そんなわけは、断じてないのに。
途中すれ違った令嬢の方々の、彫刻のように整った美しさ。
磨き上げられた所作、纏う高貴な香りまで、すべてが私とは違う世界の、完全な存在だった。
彼女たちは皆、五条様を真っすぐに見つめていた。
憧れの色を含んだ、真っすぐで力強い眼差しで。
そして、どの方も私なんかより、よっぽど五条様に相応しい方ばかり——
そう思うたび、胸の奥がきしむように痛んだ。
相応しいという言葉が、刃みたいに心に刺さる。
「やっぱり嫌われてしまったか」
「……冗談がすぎます……」
やっとのことで絞り出した言葉は、情けないほど小さい。
否定したいのに、否定すると、また『期待』が減ってしまいそうで怖い。
くすり、と五条様の微かな笑い声が耳もとで響く。
責めるでもなく、拗ねるでもなく、からかうようでいて、どこか甘えを許しているような、親愛のこもった声音。
——その声だけで、私の世界が少しずつ色づき始めた気がした。
顔を上げる勇気が出なくて、はらはらとゆっくり舞い落ちる桜の花弁をただ見つめる。
足もとに落ちた薄桃色が、白い足袋のつま先を、はかなく縁取っていく。
花弁が一枚、振袖の袖に乗って、私の呼吸に合わせて揺れた。
少しだけ目線を上げる。
視界の端から、五条様の袴の裾、腰、胸もと——
そして、変わらずに私だけを見つめる眼差しが、ゆっくりと入ってくる。
五条様は本当に、寸分も違わず、私だけを見つめている。
噂の視線がどれだけ刺さっても、その一点だけは揺れない。
遠くでは、まだ私と五条様のことを噂するような視線とざわめきの中に、『無華』という残酷な言葉が微かに混じって聞こえてくる。
誰かが何かを囁き、また別の誰かがこちらを一瞥して、すぐに視線を逸らす。
そのたびに心が縮むのに、五条様の腕の中にいると、縮みきれない。
けれど、ずっと五条様の腕に寄り添っているせいか——
五条様の腕の力強さと、帯越しに伝わる体温を感じているせいか——
さっきよりは、ほんの少しだけ周囲の声が気にならない気がした。
世界の音が、遠く、静かな音に変わっていく。
桜の匂いと、五条様の落ち着いた香りだけが近い。
今、この瞬間だけは。
私の視界には、美しく咲く桜と、澄んだ春の空と、五条様しかいない——
そんな甘い錯覚すら、五条様の眼差しによって、許されてしまいそうだった。



