無華の花嫁〜蔵に囚われた少女は、黒薔薇の殿下に溺愛される〜

ふいに、私の背後から、別の、鋭い気配を感じる。
五条様の視線が、私の後ろ——庭園の入口のほうへと、静かに向けられた。

「……来たか」

五条様が、低く、ほとんどつぶやきのような声を発した。
何が来たのか質問するより早く、その強烈な存在は、私たちのすぐそばまで躊躇なく歩み寄ってきた。

「暁臣」

その呼び声は、静かな庭園の空気を切り裂くように響いた。
振り向くと、五条様によく似た、しかしさらに厳格で格式高い面影の男性が立っている。
五条様を下の名前、まして呼び捨てで呼べる人物など、この場で存在するのは皇族の血筋を持つごく限られた人だけなはず……

「父上」

五条様の口から出たその言葉に、私の心臓はひゅっと嫌な音を立てた。
五条様のお父上……ということは、天皇の弟君にあたる、この国で最も高貴なお方の一人。

五条様のお父上から、氷のような冷たい視線を私に向けられ、俯いてしまう。

「これはどういうことだ、暁臣」
「見たままですよ、父上」

五条様は、一歩も引かず、その視線を受け止める。
『これ』とは、私のことを指しているに違いない。
当然だろう……この国の未来を担う五条様のような方が、『無華』の娘をこんな場に連れているなんて。
疑問に思わない方がおかしいのだから。

「!まさか、素手で触れているのか……?」
「ええ。ご覧の通りです」

私たちの腕が組まれている様子を見て、驚愕に目を見開かれる。

素手?素手が何かそこまで問題なのだろうか。
確かに、出会ってしばらくは、五条様は常に白い手袋をされていたけれど。
いつの頃からか、私と二人で過ごすときは手袋はされなくなった。

五条様の会話の真意、そしてお父上の驚きの意味すら、私には深くは理解できない。
不安と疑問から、五条様の腕を握る手とは別の手まで添えてしまい、さらに縋るように礼装の袖を掴んでしまう。

「失礼、名を伺ってもよろしいか」

五条様のお父上が、急に目線を合わせるようにわずかに身体を屈められた。
その動作に、私の身体は驚きと恐れで大きく跳ねる。
こんなにも高貴なお方を、私なんかが屈ませるなんて……
それだけで、死罪に値するような大罪を犯した気分になる。

「……あ……朝霞……すみれ、と、申します……」
「ふむ、朝霞家のご令嬢か」

消え入りそうな声で、やっと名乗るのが精いっぱい。

五条様の面影のある、整いすぎたお顔。
私なんかがお目にかかることはもちろん、このように目を合わせるなんて恐れ多いお方。
このように覗き込まれたら、目を逸らすこともできず嫌でも目が合う。
けれど、眼を逸らしたくても、逸らすことなど、きっと無礼に思われてしまうだろう。
恐怖で身体が硬直して動けない。

「まぁ、いい。近い内に、正式な場を設ける。その際、二人で出席しなさい」
「承知しました」

場を設けるとはどういうことだろう。
きっと、詰問の場に違いない。
私のせいで五条様が問い詰められるようなこと、あってはならないのに。
五条様を見上げると、心なしか満足げな表情をされている。

お二人の会話の意味も、五条様の表情の真意も、すべてが私には理解できないまま、ただ胸の底が冷えていく。
冷たく厳しい背中を見せ、離れていく五条様のお父上の後ろ姿を見詰めながら、私はさらに五条様の腕を強く掴んだ。
そうしないと……きっと、恐怖で私はこの場に座り込んでしまう気がしたから。

「何か食べられそうか?無理はせず、喉を通るものだけでも」

そう問いかけられて、胸の奥がきゅっと痛みを伴って縮んだ。
さっきまで氷みたいな視線に晒されていたせいで、身体の芯がまだ固い。

目の前には、一口サイズの小さなお菓子や、色とりどりの具材が挟まれたサンドイッチが、白い布の上に宝石みたいに整列している。
焼き菓子の甘い香り、バターの匂い。銀のトレーが春の日差しを反射して、眩しい。

——なのに、指一本、それらに伸ばせそうにない。
緊張と、お父上との遭遇で揺さぶられた心が、まだ胃の上に重石みたいに乗っている。

「いえ……とてもじゃありませんが、今は喉を通りそうにありません」

震えそうになる声を、どうにか奥歯を噛んで押しとどめて答える。
『食べられません』ということ自体が、罪の告白みたいで、喉がひりついた。

こんなに気の弱い自分が情けない。
せっかく五条様が連れて来てくださったのに。
私は、また足手まといになっている。

きっと『もったいない』と呆れられても仕方がないのに——
お優しい五条様のことだ。私に合わせて、何も口にされないつもりかもしれない。
その想像だけで、喉が締めつけられるような強烈な罪悪感が胸いっぱいに広がっていく。
私のせいで、五条様にまで我慢をさせるなんて、そんなことが許されるはずがないのに。

けれど五条様は、ほんの少し眉を緩めただけで、私を責める気配を一欠片も見せなかった。