無華の花嫁〜蔵に囚われた少女は、黒薔薇の殿下に溺愛される〜

「行こう。すみれ」
「……はい」

差し出された手。
細く長い指……いつも、私の頬や耳に、優しく触れてくれた指。
あの温もりに触れたら、また何かが私の心に強く刻み込まれたような気がして、少し怖い。
けれど、もっと刻み込んでほしいと思う自分もいて、もっと怖い。

躊躇いがちに指先を重ねると——
五条様は私の手を引くのではなく、すべてを包み込むように、その大きな手の平で迎え入れるように握られる。
逃げる隙間のない握り方なのに、痛くない。
むしろ、震えが止まる。

小さく返事をした声は、振袖の重さに負けそうなほどか細いのに。
その手の中にいる限り、私は一歩だけ前へ出られる気がした。
振袖の袖が、わずかに触れ合うほど近い距離。
絹が擦れる、ほとんど音にもならない気配だけで、心臓が跳ねた。

緊張で足が震えた瞬間、五条様がわずかに身を屈める。
私にだけ届く、静かな声。周囲の誰にも奪われない場所へ、言葉を落とすみたいに囁いた。

「大丈夫だ。お前は美しい」
「……っ」

その一言は、帯の締め付けとは比べものにならないほど、胸の奥深くに突き刺さる。
『無華』として息を殺してきた過去と、この瞬間の、わずかばかりの幸福が——
無理やり結びつけられてしまう。
ほどけない結び目みたいに、きゅう、と。

五条様と並んで歩くのは、振袖の重さよりずっと重く、鉛のようにのしかかってきた。
長い袖が揺れるたび、視線を集めそうで怖い。
車へ乗り込むとき、五条様が軽く手を添えてくれるだけで、私の足は緊張で小刻みに震える。
その震えを隠すように、息が浅くなってくる。

五条様は微かな違和感も見逃さず、私の様子を確かめるように声をかけた。

「緊張しているのか?」
「……すみません……きっと、ご迷惑をかけると思います」
「謝るなと言っただろう。誰だって、初めての場は緊張するものだ」

叱るのではなく、言い聞かせるような、なだめるような言葉。
そう言って微笑む五条様の横顔は、どうしてこんなに穏やかなのだろう。
私の胸の方は、張り裂けてしまいそうな鼓動でいっぱいだというのに。

車が園遊会の会場に近づくにつれ、外のざわめきが、津波のように大きくなる。
窓の外へ目を向けるほど、逃げ場がなくなるのに、目を逸らすこともできない。

格式ある大きな門。
石畳の先に、宝石が砕け散ったように色鮮やかな人々がまとう衣装の数々……。
絹、ビロード、真珠の光。笑い声の粒。
どれもが、今まで私が生きてきた現実とは、かけ離れたものだった。

「すみれ」

あまりの緊張から、声も出せない。
五条様の声に顔を向けると、長い指が伸ばされ、私の帯の結び目を軽く整えた。
結び目がほんの少し持ち上がり、息が通る場所ができる。
その手付きがあまりにも自然で、あまりにも近くて、胸の奥が強く跳ねた。
触れられることが怖いはずなのに——触れられた場所だけが、逆に落ち着くのが、もっと怖い。

車が止まり、扉が開く瞬間。
外の冷たい風より先に、五条様の大きな気配がぐっと近付く。

「いいか。この場では、俺から一歩も離れないように」
「……はい」

やっと口を開けたけど、喉の奥がカラカラに乾く。
五臓様に手を添えられ、外へ足を出すと、目の前に広がる景色に、息を呑んだ。

広大な庭園。
色彩の洪水のような着物と洋装の人々。
軽やかな笑い声が飛び交う、たくさんの人の波。
優雅な音楽が流れているけど、もう自分の心臓の音しか聞こえない。
そして、その視線すべてが、刃のように鋭く、こちらへ向いている気がした。

怖い。

そう思って、身体を小さくすぼめると、五条様の手が——すっと、私の腰へ回された。

「っ……!」

帯越しにも、手の平の熱い体温が鮮明に伝わってくる。
振袖姿で、五条様に、こんなに間近に身体を寄せられるなんて……。
腰に添えられた力は強くないのに、逃げ道だけは確かに塞がれて、息を詰まりそう。

五条様はわずかに屈み、私にだけ届く、静かで低い声で囁く。

「手を」

促されるまま、震える自分の腕を、五条様の腕に組ませる。
礼装の布越しに伝わる硬い感触と、その奥の体温。
それだけで、なんとか意識を保つことができ、同時に守られているみたいでもあった。

五条様がゆっくりと歩きだすのに合わせて、私も怯えるように足を進める。
草を踏む音、袖が揺れる音、遠くの笑い声。
世界が全部、私たちへ向かって傾いていく。

ざわっ……ざわざわっ……!

広場の空気が、はっきり揺れたのがわかった。

視線が、本物の無数の針のように肌へ突き刺さる。
噂する、押さえきれない人々の囁き声が耳を刺した。

「五条家の、殿下が……」
「誰だ?あの娘は……見たことがない」
「まさか、これがお披露目だというのか……」

その言葉が、私の紫の瞳を探るように聞こえる。
見つけた瞬間に、否定される気がして、足もとが崩れ落ちそうになった。

——隠したい。消えたい。