無華の花嫁〜蔵に囚われた少女は、黒薔薇の殿下に溺愛される〜

まだ空気が冷たさを含んでいる早朝の時間帯。
屋敷全体が、息を潜めたような静寂に包まれていた。
廊下の板がきしむ音さえ遠慮がちで、どこからか湯を沸かす気配だけが微かに漂ってくる。

「失礼いたします、すみれ様」

女中さんの、静かで澄んだ声に促されて、畳のお部屋に通される。
畳の匂いがする。やわらかい藺草の香りに混じって、どこか新しい布の匂い。

そこには、畳の上に広げられた色鮮やかな布たち。
生まれてから一度も触れることのなかった、振袖という名の衣装が、天女の羽衣のように置かれていた。
袖の長さだけで、私の知っている『着物』とは別物だとわかる。
あまりにも、華やかで、重い。

「こちらが本日、お召しになられるお着物になります」

柔らかな桃色と、淡い藤色が幾重にも重なり合っている。
その上を、銀糸や金糸で施された繊細な花の刺繍が、室内の光を吸い込み、生きているようにきらりと揺らめいた。
指先が近づくだけで、怖い。触れたら壊れてしまいそうで。

それは、私がいる世界とはあまりにもかけ離れた、別世界の衣装としか思えない。
五条様のお屋敷に来てから、美しい調度品を見慣れつつあるはずなのに……
百合が仕立ててもらっていた振袖とは、あまりにも違う。
息が止まりそうになるほどの絢爛さだった。

「こんな……美しい着物、見たことない……です……」
「すみれ様に、きっとお似合いですよ」

そんなこと、あるわけない。私なんかが着てよいはずが……。
改めて、園遊会という日が来てしまったのだと実感させられる。
『今日』が過ぎたら、私はまたもとの場所へ戻るのではないか。
先日の甘さが夢だったみたいに、全部が帳尻を合わせにくるのかもしれない。

「帯はきつくないですか?苦しければすぐに仰ってくださいね」
「……だ、大丈夫です」

そう答えたけれど、本当は胸の奥までぎゅっと掴まれたように感じる。
身体的な苦しさというより、知らなかった世界へ強制的に身を置かれる極度の緊張のほうが強くて、呼吸が浅くなる。

帯が巻かれるたびに、自然と背筋が伸びていく。
布が重なり、結ばれ、ほどけない形になっていくたび、逃げ道が一つずつ閉じられる気がした。
長い袖が腕を包み込むたびに、自分がどんどん別人になっていくようで、どう振る舞っていいかすらわからない。

「本当にお綺麗ですよ、すみれ様」
「……っ」

綺麗だなんて……そんなはずがないのに。
鏡越しに女中さんが、心からの笑みを浮かべる。
鏡に映る私は、確かに、あの朝霞家の蔵にいた『無華』の娘とは思えない。
それは本当にお姫様のようで、どこにも、本来の私の卑屈な気配なんて見当たらない。
——見当たらないふりが、で来てしまっている。

それなのに、鏡に映る自分の瞳だけが、この華やかな装いの中で異質な、深い紫色の光をたたえていた。
それが、私には『華の加護』を持たない『無華』であるという現実を、容赦なく突きつけてくるようだった。
隠せない。どれだけ飾っても、私は私のままだ。

「殿下がいらっしゃいました」

その声が耳に届いた途端、心臓がどくんと大きく跳ねた。
振り向くのも怖くて、静かに膝の上で指を絡めると、驚くほど指先が冷たい。

足音が近づく。
ふと風が動くと、あの清潔で落ち着いた、五条様の香りがふわりと部屋に満ちた。
五条様に触れた、手の平の温もりまで思い出してしまい、胸の奥がきゅっと縮む。

「すみれ」

低い声で名前を呼ばれただけで、絢爛な振袖の重さより、ずっと強く苦しくなる。
聞き慣れた私の名前を呼ぶ声が、いつもより耳に響く。

顔を上げた視線の先には、五条様が立っていた。
深い紺の重厚な礼装に包まれ、その姿は完璧な威厳を纏っている。
髪型も今日は見慣れない。前髪が潔く上げられ、その涼やかな顔立ちをさらに高貴に際立たせていた。
普段は抑えられている皇族としての本質が、静かに放たれているように感じる。
——見られたら、誰もが息を呑むに違いない。

その視線が、私に触れた瞬間——
体の奥深くまで、熱が差し込むようで、息を飲んだ。
褒められる前から、もう逃げ出したいのに、ほんの少しの期待が、私をこの場に立ち止まらせる。

「よく似合っている。見立てた甲斐があった」
「……っ、あ、あの……」

声が喉の奥で絡んで、続きが出ない。
五条様はゆっくりと歩み寄ってくる。
その距離の詰め方が、私を逃がす気がないみたいで、心臓が大きく波打った。
眼の前に立つと、五条様は振袖の長い袖の端に触れる。布がかすかに鳴る。
その指先が触れた場所だけが、急に熱くなる。

「今日一日、不安がる必要はない。堂々としていればいい」

そんな……私に、堂々となどできるわけがない。
これから向かう場所では、たくさんの人の好奇や軽蔑の目にさらされるに違いないのに。
けれど、五条様の声音はいつにも増して静かで穏やかで、とても優しかった。