屋敷に戻るころには、外はすっかり夕暮れの茜色を帯びていた。
窓の向こうで空がゆっくり沈み、庭の木々の影が長く伸びている。
昼間の眩しさが嘘みたいに、世界が静かだった。
車を降りるとき、足もとがおぼつかない。
疲労とは違う重さが、胃の奥にずしりと居座っている。
少し……食べすぎたかもしれない……。
生まれて初めての紅茶。
生まれて初めての、苺が宝石みたいに光るショートケーキ。
あれだけの甘さと量を、いきなり身体に入れたら——お腹が驚くのも当然かもしれない。
部屋に入るなり、膝から力が抜けた。
いつものソファに、どさりと重たい音を立てて座り込んでしまう。
「すみません……少しだけ、横になってもよろしいでしょうか……?」
「もちろんでございます、すみれ様。帯を少し緩めましょう」
締めつけられていた帯がほどけると、胃がやっと呼吸できたように楽になった。
それでも、ベッドに身を預けた瞬間、ぐらりと世界が傾く。
吐き気ではない。ただ、贅沢が詰め込まれすぎて、重たい。
ベッドに身体を預けると、ぐらりと世界が傾いだ。
吐き気まではいかない。
けれど、とにかく中身が詰まりすぎて、石でも飲み込んだような苦しさがある。
ベッドの柔らかさに沈み込みながらも、胃だけが硬い塊のままだ。
「お水をお持ちしますね。少し落ち着くまで、どうぞ目を閉じていらしてください」
「……はい」
今日という一日が、瞼の裏で反復する。
初めての訪問着を着せてもらったときの、戸惑い。
初めて街に出かけたときの、喧騒と色鮮やかな光景。
初めての紅茶とショートケーキの、夢のようにとろける舌触り。
五条様の『次に来たとき』という言葉まで、妙に鮮明に私の中に残っている。
……そんなに、食べてないつもりだったのに……。
ここへ来てから、少しずつ食事が喉を通るようになり、だいぶ食べられるようになったと思っていた。
なのに、私のちっぽけな胃袋は「こんなに一度に贅沢品を入れてくるなんて聞いてない」と、激しく抗議している。
胃が鳴る、というより——内側から握られているみたいに、ぐっと締まる。
……楽しかった。
だからこそ怖い。
温かいものを受け取るほど、いつか全部取り上げられる気がしてしまう。
「……罰が当たったのかも」
ぽつりと、呟きが漏れた。
『無華』として、日陰で生きてきた私が、なんて分不相応な贅沢を——。
幸福感が満たされた分だけ、それを許されないという罪悪感が深くのしかかり、胸の奥がじんじんと痛んだ。
こんなに嬉しいのに、こんなに怖いなんて。
温かいものを受け取るほど、あとで全部取り上げられてしまう気がする。
そこへ、扉が静かに開き、名前を呼ばれる。
「……すみれ」
五条様の、少し低く響く声。
とっさに、慌てて身体を起こそうとする。
——起きなければ。失礼があってはいけない。
叱られる前に、形だけでも整えなければ。
けれど、胃がその動きを許してくれない。
「っ……!」
「起き上がるな。そのままでいい」
あまりにも欲張って食べたから、呆れられたかもしれない。
それでいて心配そうな低い声が近づいてくる。
音もなく入ってこられて、ベッドの脇にすらりとした影が落ちた。
「具合が悪いと聞いた。顔色も少し悪いな」
「ご、ごめんなさい……私の不注意で」
反射的に、真っ先に謝罪の言葉が出る。
叱られる前に、殴られる前に——身体が勝手にそうする。
五条様がわずかに眉を寄せ、吐く息が静かに落ちた。
「謝るなと言っているだろう」
それは、いつも聞く台詞。
けれど今日は、その声にいつもの威圧感がない。
むしろ、怒りを抑えるというより、私の癖をほどこうとしているみたいに、微かに柔らかかった。
「水は飲めそうか?胃が荒れているのかもしれない。
しばらくは、甘いものは無しだな」
「……っ」
差し出されたグラスを、ぎゅっと握る手に力がこもる。
冷たい硝子が手の平に貼りつき、指先が少し震えた。水面が小さく揺れる。
だめ……また食べたい、なんて。
微塵も考えてはだめだ。
あんな贅沢は人生に一度あっただけで、天にも昇るほどありがたいことなのだから。
「そんな怯えた顔をするな」
「え……?」
「二度と食わせない、とは言っていない」
淡々とした声で、でも言葉だけははっきりと。
五条様は私の表情をじっと見て、続ける。
「今日は俺が無理をさせたせいだ。体調が良くなったらまた行こう。」
さらりと言われて、視線の置き場がなくなる。
嬉しいはずなのに、怖い。
またという言葉が、胸の奥で熱を持ってしまったように感じた。
「いえ……そんな……一度だけで、もう十分です。
一生の思い出ですから、これ以上は……」
ぎゅっと布団を握りしめる。
口に出してから、自分で驚いた。
本当に、そう思ってしまったのだ。
思い出にしてしまえば、失わずに済む——そんな卑怯な計算が、心のどこかで働いて。
「次は、俺と分け合って食べればいい」
「え……」
「俺とは嫌なのか?」
あまりにも当然のように、そして冗談めかして言われて、声が出ない。
次……?本当にまた行くの?
そして、分け合う?五条様と、『無華』の私が?
そこでようやく、五条様の口もとがわずかに緩んでいることに気づいた。
胸の奥が、ふわりと温かくなる。
あまりにも現実的で、あまりにも優しい解決策に、ふっとした小さな笑いがこぼれそうになって——
笑った途端、お腹がきゅっと痛んで、すぐに顔をしかめてしまった。
「……本当に、今日は食べ過ぎてしまいました……」
「そうだな。お前の胃が驚き過ぎたんだろう」
珍しく否定されない。
責められていない、と遅れて理解して、息が少しだけ深くなる。
「明日は消化のよい粥にしよう。厨房にもそう伝えてある」
「……はい」
「梅干しも添えてもらうか」
「はい……」
安堵から、頬が緩んでしまう。
お粥だなんて……それでも、ここでの生活では十分すぎるほどの贅沢なのに。
身体を横たえたまま、ただ天井を見上げる。
さっきまで胃袋がぎゅうぎゅうと苦しんでいたのが、不思議と少しずつ落ち着いてきた気がした。
五条様がここにいる、それだけで。
「眠れそうか」
「……はい」
重い瞼に五条様の手が添えられる。
熱を持った指先ではなく、穏やかな手の平。
その温もりが触れた途端、痛んでいたお腹まで、じんわりとぽかぽかと温かくなる気がした。
添えられた手の平の温もりを感じながら、ゆっくりと目を閉じる。
瞼の裏には、今日初めて見た宝石の輝き。
その向こうには、いつもこちらを見守る五条様の姿。
そのすべてを。繰り返し瞼の裏に思い描く。
どれもこれもが、生まれて初めてのことで。
すべてが夢のように儚いのに、今は確かに、ここにあって……消えないでほしい、と願ってしまった。
窓の向こうで空がゆっくり沈み、庭の木々の影が長く伸びている。
昼間の眩しさが嘘みたいに、世界が静かだった。
車を降りるとき、足もとがおぼつかない。
疲労とは違う重さが、胃の奥にずしりと居座っている。
少し……食べすぎたかもしれない……。
生まれて初めての紅茶。
生まれて初めての、苺が宝石みたいに光るショートケーキ。
あれだけの甘さと量を、いきなり身体に入れたら——お腹が驚くのも当然かもしれない。
部屋に入るなり、膝から力が抜けた。
いつものソファに、どさりと重たい音を立てて座り込んでしまう。
「すみません……少しだけ、横になってもよろしいでしょうか……?」
「もちろんでございます、すみれ様。帯を少し緩めましょう」
締めつけられていた帯がほどけると、胃がやっと呼吸できたように楽になった。
それでも、ベッドに身を預けた瞬間、ぐらりと世界が傾く。
吐き気ではない。ただ、贅沢が詰め込まれすぎて、重たい。
ベッドに身体を預けると、ぐらりと世界が傾いだ。
吐き気まではいかない。
けれど、とにかく中身が詰まりすぎて、石でも飲み込んだような苦しさがある。
ベッドの柔らかさに沈み込みながらも、胃だけが硬い塊のままだ。
「お水をお持ちしますね。少し落ち着くまで、どうぞ目を閉じていらしてください」
「……はい」
今日という一日が、瞼の裏で反復する。
初めての訪問着を着せてもらったときの、戸惑い。
初めて街に出かけたときの、喧騒と色鮮やかな光景。
初めての紅茶とショートケーキの、夢のようにとろける舌触り。
五条様の『次に来たとき』という言葉まで、妙に鮮明に私の中に残っている。
……そんなに、食べてないつもりだったのに……。
ここへ来てから、少しずつ食事が喉を通るようになり、だいぶ食べられるようになったと思っていた。
なのに、私のちっぽけな胃袋は「こんなに一度に贅沢品を入れてくるなんて聞いてない」と、激しく抗議している。
胃が鳴る、というより——内側から握られているみたいに、ぐっと締まる。
……楽しかった。
だからこそ怖い。
温かいものを受け取るほど、いつか全部取り上げられる気がしてしまう。
「……罰が当たったのかも」
ぽつりと、呟きが漏れた。
『無華』として、日陰で生きてきた私が、なんて分不相応な贅沢を——。
幸福感が満たされた分だけ、それを許されないという罪悪感が深くのしかかり、胸の奥がじんじんと痛んだ。
こんなに嬉しいのに、こんなに怖いなんて。
温かいものを受け取るほど、あとで全部取り上げられてしまう気がする。
そこへ、扉が静かに開き、名前を呼ばれる。
「……すみれ」
五条様の、少し低く響く声。
とっさに、慌てて身体を起こそうとする。
——起きなければ。失礼があってはいけない。
叱られる前に、形だけでも整えなければ。
けれど、胃がその動きを許してくれない。
「っ……!」
「起き上がるな。そのままでいい」
あまりにも欲張って食べたから、呆れられたかもしれない。
それでいて心配そうな低い声が近づいてくる。
音もなく入ってこられて、ベッドの脇にすらりとした影が落ちた。
「具合が悪いと聞いた。顔色も少し悪いな」
「ご、ごめんなさい……私の不注意で」
反射的に、真っ先に謝罪の言葉が出る。
叱られる前に、殴られる前に——身体が勝手にそうする。
五条様がわずかに眉を寄せ、吐く息が静かに落ちた。
「謝るなと言っているだろう」
それは、いつも聞く台詞。
けれど今日は、その声にいつもの威圧感がない。
むしろ、怒りを抑えるというより、私の癖をほどこうとしているみたいに、微かに柔らかかった。
「水は飲めそうか?胃が荒れているのかもしれない。
しばらくは、甘いものは無しだな」
「……っ」
差し出されたグラスを、ぎゅっと握る手に力がこもる。
冷たい硝子が手の平に貼りつき、指先が少し震えた。水面が小さく揺れる。
だめ……また食べたい、なんて。
微塵も考えてはだめだ。
あんな贅沢は人生に一度あっただけで、天にも昇るほどありがたいことなのだから。
「そんな怯えた顔をするな」
「え……?」
「二度と食わせない、とは言っていない」
淡々とした声で、でも言葉だけははっきりと。
五条様は私の表情をじっと見て、続ける。
「今日は俺が無理をさせたせいだ。体調が良くなったらまた行こう。」
さらりと言われて、視線の置き場がなくなる。
嬉しいはずなのに、怖い。
またという言葉が、胸の奥で熱を持ってしまったように感じた。
「いえ……そんな……一度だけで、もう十分です。
一生の思い出ですから、これ以上は……」
ぎゅっと布団を握りしめる。
口に出してから、自分で驚いた。
本当に、そう思ってしまったのだ。
思い出にしてしまえば、失わずに済む——そんな卑怯な計算が、心のどこかで働いて。
「次は、俺と分け合って食べればいい」
「え……」
「俺とは嫌なのか?」
あまりにも当然のように、そして冗談めかして言われて、声が出ない。
次……?本当にまた行くの?
そして、分け合う?五条様と、『無華』の私が?
そこでようやく、五条様の口もとがわずかに緩んでいることに気づいた。
胸の奥が、ふわりと温かくなる。
あまりにも現実的で、あまりにも優しい解決策に、ふっとした小さな笑いがこぼれそうになって——
笑った途端、お腹がきゅっと痛んで、すぐに顔をしかめてしまった。
「……本当に、今日は食べ過ぎてしまいました……」
「そうだな。お前の胃が驚き過ぎたんだろう」
珍しく否定されない。
責められていない、と遅れて理解して、息が少しだけ深くなる。
「明日は消化のよい粥にしよう。厨房にもそう伝えてある」
「……はい」
「梅干しも添えてもらうか」
「はい……」
安堵から、頬が緩んでしまう。
お粥だなんて……それでも、ここでの生活では十分すぎるほどの贅沢なのに。
身体を横たえたまま、ただ天井を見上げる。
さっきまで胃袋がぎゅうぎゅうと苦しんでいたのが、不思議と少しずつ落ち着いてきた気がした。
五条様がここにいる、それだけで。
「眠れそうか」
「……はい」
重い瞼に五条様の手が添えられる。
熱を持った指先ではなく、穏やかな手の平。
その温もりが触れた途端、痛んでいたお腹まで、じんわりとぽかぽかと温かくなる気がした。
添えられた手の平の温もりを感じながら、ゆっくりと目を閉じる。
瞼の裏には、今日初めて見た宝石の輝き。
その向こうには、いつもこちらを見守る五条様の姿。
そのすべてを。繰り返し瞼の裏に思い描く。
どれもこれもが、生まれて初めてのことで。
すべてが夢のように儚いのに、今は確かに、ここにあって……消えないでほしい、と願ってしまった。



