喫茶店の扉を開けると、外の賑やかさが嘘のように遠のいた。
磨かれた木の床。やわらかな灯り。
どこか甘い匂いと、焙じたような香りが薄く混じっている。
席に通されると、店内には食『器』の触れ合う乾いた音だけが控えめに響いた。
私は背筋を伸ばし、膝の上で指を重ねた。
何をしていいか分からないとき、身体はいつも固くなることしか覚えていない。
「……ここは、初めてか」
「……はい」
五条様がメニューを一度だけ目で追い、迷いなく店主へ告げる。
「紅茶を。……それから、ショートケーキを一つ」
「かしこまりました」
しょーと……けーき。
聞いたことのある響きと、よく分からない響きが混ざって、頭の中で転がった。
紅茶――それは、奥様方が楽しげに語る『贅沢』の代名詞。
蔵の隙間から、遠くに聞いたことがあるだけの世界。
ほどなくして、白い皿と、細い縁飾りのあるカップが運ばれてきた。
透明な琥珀色の液体。
湯気が細く立ちのぼり、香りがふわりと鼻先に届く。
甘いのか、苦いのかすら分からないのに――その香りだけで、胸の奥がそわそわした。
五条様は先にカップを持ち上げ、何でもないように口をつけた。
その仕草が洗練されていて、絵の中の人みたいで、私はつい目を離せなくなる。
……真似を、してしまう。
両手でカップを包み、そっと口元へ運ぶ。
熱い。けれど、怖い。
怖いのは温度じゃない。失敗して、五条様をがっかりさせることだ。
ほんの少しだけ唇をつけ、口の中へ流し込んだ瞬間――
「……っ」
舌の奥が、きゅう、と縮む。
苦いのとは違う。渋い。喉の奥まで、細い布で撫でられるみたいな感触。
思わず目が潤みそうになって、慌てて飲み下した。
「どうした」
「い、いえ……」
情けない。情けないほど。
五条様は責めるでも笑うでもなく、ただ静かに私を見た。
その視線に耐えきれず、私はカップの縁を見つめたまま、小さく告げる。
「……その……少し、渋いです」
言ってしまった。
言ったことが怖くて、胸が縮む。
けれど、五条様は「そうか」とだけ言って、私の前に小さな器を寄せた。
白い角砂糖と、薄く輪切りにされたレモン。
「これを使え」
「……え?」
指先が迷いなくレモンへ向かう。
けれど、次の瞬間、その手はぴたり、と止まった。
五条様は、ほんの一拍だけ息を置き、結局レモンには触れずに言葉で示す。
「砂糖を一つ。レモンは最後でいい。……最初から、そのままで飲む必要はない」
その言い方が、紅茶だけの話に聞こえなかった。
――合わせなくていい。
無理に、同じでなくていい。
胸の奥に、ひやりと熱いものが広がる。
「……はい」
角砂糖を一つ、そっと落とす。
白い塊が琥珀色の底へ沈み、ゆっくり溶けていく。
その様子が不思議で、じっと見つめてしまう。
レモンを浮かべるのは、怖かった。
触れたことのない香り、触れたことのない世界。
でも――五条様が『最後でいい』と言ったのは、私の心の準備まで計ってくれたみたいで。
もう一度、カップを口元へ。
今度は、渋さが少し丸くなっていた。
香りはそのままに、角が取れて、舌の上をすべる。
喉の奥が、さっきより痛くない。
「……飲めます」
「そうか」
五条様の声は短いのに、胸の奥がほどける。
「……それに、いい香りがします」
「紅茶は香りを楽しむものだ」
言葉の端が、どこか柔らかい。
私はもう一口、確かめるように飲む。
さっき刺さった渋みが、砂糖の甘さに縁取られて、舌の上でほどけていった。
「……飲めます」
「そうか」
「はい……。美味しいです」
こんなお砂糖を入れるだけで飲みやすくなる、魔法みたいな飲み物があるなんて……蔵の生活では想像もできなかった。
「最初から、こっちにしておけばよかったな」
「い、いえ……!」
ぶんぶんと首を振った。
「……その……五条様と同じものをいただけて、嬉しかったので……
飲めなかったのは、私が……」
「またそれか」
やれやれと言わんばかりの目で見られる。
けれど、その眼差しは冷たくない。逃げ場のない優しさ、とでも言えばいいのか。
「いいか。俺の前では、飲めないものは飲めないと言っていい。
無理に合わせる必要はない」
言葉が胸の奥に、まっすぐ落ちてくる。
『俺の前では』——その一節だけが、妙に熱を帯びて聞こえ、小さく頷く。
「……はい」
『ここはもう蔵じゃない』と、わかっている。
わかっているはずなのに。
遠くない、いつか手放す日がくる——
その影が、ふいにテーブルの端に落ちる気がした。
ふと顔を上げると、五条様は黙ってこちらを見守っていた。
目が合うと、叱るでも急かすでもなく、小さく微笑まれる。
——それだけで私は、もう一口、飲む勇気をもらった。
カップの中の紅茶が、半分ほどになったころ。
「お待たせいたしました」
店主が皿を置く。
「……甘いものは、嫌いか」
「い、いえ……嫌いでは……」
「なら、何か持ってこさせよう」
嫌いも何も……甘いものを食べたのは、先日のお正月に頂いた、あんこと黄な粉をまぶしたお餅くらい。
それ以外の甘いものは、口にした記憶すらない。
『嫌い』か『好き』かを考える以前に、そもそも選ぶことがなかった。
「い、いえ……その……」
白いクリームに……黄色の……何が挟まっているんだろう?
その上に鮮やかな赤い苺が一粒。
銀のフォークが、澄んだ音を立てた。
……眩しい。
これが、さっき仰っていたしょーと……けーき?
磨かれた木の床。やわらかな灯り。
どこか甘い匂いと、焙じたような香りが薄く混じっている。
席に通されると、店内には食『器』の触れ合う乾いた音だけが控えめに響いた。
私は背筋を伸ばし、膝の上で指を重ねた。
何をしていいか分からないとき、身体はいつも固くなることしか覚えていない。
「……ここは、初めてか」
「……はい」
五条様がメニューを一度だけ目で追い、迷いなく店主へ告げる。
「紅茶を。……それから、ショートケーキを一つ」
「かしこまりました」
しょーと……けーき。
聞いたことのある響きと、よく分からない響きが混ざって、頭の中で転がった。
紅茶――それは、奥様方が楽しげに語る『贅沢』の代名詞。
蔵の隙間から、遠くに聞いたことがあるだけの世界。
ほどなくして、白い皿と、細い縁飾りのあるカップが運ばれてきた。
透明な琥珀色の液体。
湯気が細く立ちのぼり、香りがふわりと鼻先に届く。
甘いのか、苦いのかすら分からないのに――その香りだけで、胸の奥がそわそわした。
五条様は先にカップを持ち上げ、何でもないように口をつけた。
その仕草が洗練されていて、絵の中の人みたいで、私はつい目を離せなくなる。
……真似を、してしまう。
両手でカップを包み、そっと口元へ運ぶ。
熱い。けれど、怖い。
怖いのは温度じゃない。失敗して、五条様をがっかりさせることだ。
ほんの少しだけ唇をつけ、口の中へ流し込んだ瞬間――
「……っ」
舌の奥が、きゅう、と縮む。
苦いのとは違う。渋い。喉の奥まで、細い布で撫でられるみたいな感触。
思わず目が潤みそうになって、慌てて飲み下した。
「どうした」
「い、いえ……」
情けない。情けないほど。
五条様は責めるでも笑うでもなく、ただ静かに私を見た。
その視線に耐えきれず、私はカップの縁を見つめたまま、小さく告げる。
「……その……少し、渋いです」
言ってしまった。
言ったことが怖くて、胸が縮む。
けれど、五条様は「そうか」とだけ言って、私の前に小さな器を寄せた。
白い角砂糖と、薄く輪切りにされたレモン。
「これを使え」
「……え?」
指先が迷いなくレモンへ向かう。
けれど、次の瞬間、その手はぴたり、と止まった。
五条様は、ほんの一拍だけ息を置き、結局レモンには触れずに言葉で示す。
「砂糖を一つ。レモンは最後でいい。……最初から、そのままで飲む必要はない」
その言い方が、紅茶だけの話に聞こえなかった。
――合わせなくていい。
無理に、同じでなくていい。
胸の奥に、ひやりと熱いものが広がる。
「……はい」
角砂糖を一つ、そっと落とす。
白い塊が琥珀色の底へ沈み、ゆっくり溶けていく。
その様子が不思議で、じっと見つめてしまう。
レモンを浮かべるのは、怖かった。
触れたことのない香り、触れたことのない世界。
でも――五条様が『最後でいい』と言ったのは、私の心の準備まで計ってくれたみたいで。
もう一度、カップを口元へ。
今度は、渋さが少し丸くなっていた。
香りはそのままに、角が取れて、舌の上をすべる。
喉の奥が、さっきより痛くない。
「……飲めます」
「そうか」
五条様の声は短いのに、胸の奥がほどける。
「……それに、いい香りがします」
「紅茶は香りを楽しむものだ」
言葉の端が、どこか柔らかい。
私はもう一口、確かめるように飲む。
さっき刺さった渋みが、砂糖の甘さに縁取られて、舌の上でほどけていった。
「……飲めます」
「そうか」
「はい……。美味しいです」
こんなお砂糖を入れるだけで飲みやすくなる、魔法みたいな飲み物があるなんて……蔵の生活では想像もできなかった。
「最初から、こっちにしておけばよかったな」
「い、いえ……!」
ぶんぶんと首を振った。
「……その……五条様と同じものをいただけて、嬉しかったので……
飲めなかったのは、私が……」
「またそれか」
やれやれと言わんばかりの目で見られる。
けれど、その眼差しは冷たくない。逃げ場のない優しさ、とでも言えばいいのか。
「いいか。俺の前では、飲めないものは飲めないと言っていい。
無理に合わせる必要はない」
言葉が胸の奥に、まっすぐ落ちてくる。
『俺の前では』——その一節だけが、妙に熱を帯びて聞こえ、小さく頷く。
「……はい」
『ここはもう蔵じゃない』と、わかっている。
わかっているはずなのに。
遠くない、いつか手放す日がくる——
その影が、ふいにテーブルの端に落ちる気がした。
ふと顔を上げると、五条様は黙ってこちらを見守っていた。
目が合うと、叱るでも急かすでもなく、小さく微笑まれる。
——それだけで私は、もう一口、飲む勇気をもらった。
カップの中の紅茶が、半分ほどになったころ。
「お待たせいたしました」
店主が皿を置く。
「……甘いものは、嫌いか」
「い、いえ……嫌いでは……」
「なら、何か持ってこさせよう」
嫌いも何も……甘いものを食べたのは、先日のお正月に頂いた、あんこと黄な粉をまぶしたお餅くらい。
それ以外の甘いものは、口にした記憶すらない。
『嫌い』か『好き』かを考える以前に、そもそも選ぶことがなかった。
「い、いえ……その……」
白いクリームに……黄色の……何が挟まっているんだろう?
その上に鮮やかな赤い苺が一粒。
銀のフォークが、澄んだ音を立てた。
……眩しい。
これが、さっき仰っていたしょーと……けーき?



