鏡の中で、真珠が頬のそばで小さく光る。
それだけで、私が私ではないみたい……
「……!?あ、あの!?これ、私に?」
あまりの光景にあっけにとられて、この時まで、どれもが自分に用意されたものだと気付くのが遅れてしまった。
おそるおそる尋ねると、五条様は一瞬だけ目を細め、ふっと息を吐いた。
「当たり前だ」
短い言葉なのに、逃げ道を塞がれる。
五条様の手が伸びて、ビクッと身構えると、優しくイヤリングに触れられる。
「悪くない。いや……とてもいい。
すみれの雰囲気なら、これくらい控えめなほうが、かえって目を引く」
自分の耳なんて意識したこともなかったのに、急にそこが熱くなる。
褒められたのは真珠なのに、私自身を撫でられたみたいで、心臓が落ち着かない。
「では、こちらの真珠のイヤリングと、同じシリーズのブレスレットをお包みいたしますか?」
「ああ、それで頼む。それから、もう一点——少しだけ華やかな場面にも使えるブローチを」
話はどんどん決まっていく。
私が『高そう』とか『勿体ない』とか思う隙間もないほど、滑らかに。
止めたら、怒られるわけじゃないのに、口を挟む勇気が出ない。
……でも、どこかで、ほんの少しだけ嬉しい。五条様が、私のために迷わないことが。
「続いて、春以降にお召しいただけるお洋服をご用意しております」
別のラックには、柔らかな色合いのお洋服が並んでいた。
白や生成り、淡いラベンダーや水色——。
どれも、見ているだけで胸の奥がふわりと軽くなるような色ばかり。
こんな色を、私が着るなんて想像できない。
これは……すかーとというものなのだろうか?
問いが浮かんだ途端、五条様の低い声が、すぐ傍で落ちる。
「すみれ。好きなものを選べ」
——好き、なんて。
そんな言葉、私の世界にはなかった。
「こちらなどはいかがでしょう。
丈も長めで、立場のある方のご同行にも差し支えないデザインでございます」
差し出されたのは、淡いクリーム色のお洋服だった。
腰の位置が少し高く、裾に向かってやわらかく広がっている。
指先で生地をつままれると、さらりと落ち、光を受けてほのかに艶が立った。
——洋服。私が?
思考が追いつくより先に、胸の奥がきゅっと縮む。
「……そんな、洋服なんて……」
「試してみればいい」
五条様の声は短く、揺れがない。逃げ道を塞ぐようでいて、怖がらせるための圧ではない。
むしろ——大丈夫だ、と背中に手を置かれたみたいな。
「似合わなければ、選び直せばいいだけだ」
試着室に通される。
帯が潰れないように、上から羽織る形で慎重に袖を通すと、布が肩にふわりと乗った。
新しい布の匂い。石鹸とも花とも違う、清潔で、知らない匂い。
「あ、あの……私、これがなんという名前なのかもわからなくて……」
「こちら、ワンピースになりますよ」
これが……わんぴーす……
鏡の中の自分は、まだ見慣れない訪問着の上に、さらに『よそ行き』を重ねられていく。
何枚も重ねるほど、私が私でなくなってしまいそうなのに——
同時に、ほんの少しだけ『このまま壊れずにいられるかもしれない』と思ってしまう。
ワンピースを数着。
カーディガンを二枚。
落ち着いた色味のパンプスと、歩きやすそうなローヒールの靴。
試すたびにお店の方が「お似合いでございます」「お顔色が明るく見えます」と、優しい言葉を重ねてくださる。
その一つ一つが、贈り物というより……私には扱い方のわからない、眩しいものみたいだ。
「日傘はこちらなどいかがでしょう。お肌もお綺麗ですし、これから暑くなりますので」
「帽子も一点、お持ちになっていて損はございません。園遊会のときでなくとも、お出かけの際に」
繊細なレースの縁取りがついた日傘を広げると、その下の空気まで、少しだけ涼しくなったような気がした。
影が柔らかく落ちて、これなら……眼を少しでも隠せるような気がして、息がしやすくなる。
麦わらではない、上品な布製のつば広帽子を頭に載せてもらうと、鏡の中の自分は、どこか知らないお嬢様のように見えた。
——知らない。知らないけれど、どこか憧れるような。
その気持ちに気づいた瞬間、胸がちくりと痛んだ。
けれど、消せない証のような紫の瞳だけが、『無華』という立場を忘れるな、と冷たく囁くように見える。
どれほど飾っても、そこだけは隠せない。私のまま、だ。
結局、春から初夏にかけて着られそうな服を数点と、靴、日傘、帽子まで。
あっという間に、山のような荷物ができあがった。
「お荷物はすべて、ご自宅のほうにお送りしておきます」
「頼む」
五条様は迷いなく頷き、私の代わりに話を進めていく。
てきぱきと箱詰めが始まるのを横目に、私はただ黙って、ぽかんとその光景を眺めるしかできない。
自分のためのものが、こんなにもたくさん積み上がっていくなんて——本当にどうしたらいいのだろう。
嬉しいと素直に思えたらよいのに、どうしても怖いが勝ってしまう。
園遊会が終わったあと、私は捨てられるだろうに。
着る機会は、ひょっとしたらないのかもしれないのに。
それなのに、こうして『私のもの』が増えていく。
「……少し、疲れたか?」
会計の手続きが済んだらしく、五条様がこちらに視線を向ける。
その目は相変わらず静かで、けれど、私の小さな動揺まで拾うみたいに。
「いえ、その……ただ、びっくりして」
「だろうな」
五条様はふっと目もとだけで笑ってから、腕時計にちらりと視線を落とした。
「このビルの中に、落ち着いた喫茶店がある。少し休んでから、帰ろう」
喫茶店……?
その一言に、胸の鼓動がまた一段と速くなる。
休む、という言葉の響きさえ、私には甘い。
買い物だけで終わるはずだった今日が、まだ五条様と二人きりで続いていくのだと、ようやく実感した。
それだけで、私が私ではないみたい……
「……!?あ、あの!?これ、私に?」
あまりの光景にあっけにとられて、この時まで、どれもが自分に用意されたものだと気付くのが遅れてしまった。
おそるおそる尋ねると、五条様は一瞬だけ目を細め、ふっと息を吐いた。
「当たり前だ」
短い言葉なのに、逃げ道を塞がれる。
五条様の手が伸びて、ビクッと身構えると、優しくイヤリングに触れられる。
「悪くない。いや……とてもいい。
すみれの雰囲気なら、これくらい控えめなほうが、かえって目を引く」
自分の耳なんて意識したこともなかったのに、急にそこが熱くなる。
褒められたのは真珠なのに、私自身を撫でられたみたいで、心臓が落ち着かない。
「では、こちらの真珠のイヤリングと、同じシリーズのブレスレットをお包みいたしますか?」
「ああ、それで頼む。それから、もう一点——少しだけ華やかな場面にも使えるブローチを」
話はどんどん決まっていく。
私が『高そう』とか『勿体ない』とか思う隙間もないほど、滑らかに。
止めたら、怒られるわけじゃないのに、口を挟む勇気が出ない。
……でも、どこかで、ほんの少しだけ嬉しい。五条様が、私のために迷わないことが。
「続いて、春以降にお召しいただけるお洋服をご用意しております」
別のラックには、柔らかな色合いのお洋服が並んでいた。
白や生成り、淡いラベンダーや水色——。
どれも、見ているだけで胸の奥がふわりと軽くなるような色ばかり。
こんな色を、私が着るなんて想像できない。
これは……すかーとというものなのだろうか?
問いが浮かんだ途端、五条様の低い声が、すぐ傍で落ちる。
「すみれ。好きなものを選べ」
——好き、なんて。
そんな言葉、私の世界にはなかった。
「こちらなどはいかがでしょう。
丈も長めで、立場のある方のご同行にも差し支えないデザインでございます」
差し出されたのは、淡いクリーム色のお洋服だった。
腰の位置が少し高く、裾に向かってやわらかく広がっている。
指先で生地をつままれると、さらりと落ち、光を受けてほのかに艶が立った。
——洋服。私が?
思考が追いつくより先に、胸の奥がきゅっと縮む。
「……そんな、洋服なんて……」
「試してみればいい」
五条様の声は短く、揺れがない。逃げ道を塞ぐようでいて、怖がらせるための圧ではない。
むしろ——大丈夫だ、と背中に手を置かれたみたいな。
「似合わなければ、選び直せばいいだけだ」
試着室に通される。
帯が潰れないように、上から羽織る形で慎重に袖を通すと、布が肩にふわりと乗った。
新しい布の匂い。石鹸とも花とも違う、清潔で、知らない匂い。
「あ、あの……私、これがなんという名前なのかもわからなくて……」
「こちら、ワンピースになりますよ」
これが……わんぴーす……
鏡の中の自分は、まだ見慣れない訪問着の上に、さらに『よそ行き』を重ねられていく。
何枚も重ねるほど、私が私でなくなってしまいそうなのに——
同時に、ほんの少しだけ『このまま壊れずにいられるかもしれない』と思ってしまう。
ワンピースを数着。
カーディガンを二枚。
落ち着いた色味のパンプスと、歩きやすそうなローヒールの靴。
試すたびにお店の方が「お似合いでございます」「お顔色が明るく見えます」と、優しい言葉を重ねてくださる。
その一つ一つが、贈り物というより……私には扱い方のわからない、眩しいものみたいだ。
「日傘はこちらなどいかがでしょう。お肌もお綺麗ですし、これから暑くなりますので」
「帽子も一点、お持ちになっていて損はございません。園遊会のときでなくとも、お出かけの際に」
繊細なレースの縁取りがついた日傘を広げると、その下の空気まで、少しだけ涼しくなったような気がした。
影が柔らかく落ちて、これなら……眼を少しでも隠せるような気がして、息がしやすくなる。
麦わらではない、上品な布製のつば広帽子を頭に載せてもらうと、鏡の中の自分は、どこか知らないお嬢様のように見えた。
——知らない。知らないけれど、どこか憧れるような。
その気持ちに気づいた瞬間、胸がちくりと痛んだ。
けれど、消せない証のような紫の瞳だけが、『無華』という立場を忘れるな、と冷たく囁くように見える。
どれほど飾っても、そこだけは隠せない。私のまま、だ。
結局、春から初夏にかけて着られそうな服を数点と、靴、日傘、帽子まで。
あっという間に、山のような荷物ができあがった。
「お荷物はすべて、ご自宅のほうにお送りしておきます」
「頼む」
五条様は迷いなく頷き、私の代わりに話を進めていく。
てきぱきと箱詰めが始まるのを横目に、私はただ黙って、ぽかんとその光景を眺めるしかできない。
自分のためのものが、こんなにもたくさん積み上がっていくなんて——本当にどうしたらいいのだろう。
嬉しいと素直に思えたらよいのに、どうしても怖いが勝ってしまう。
園遊会が終わったあと、私は捨てられるだろうに。
着る機会は、ひょっとしたらないのかもしれないのに。
それなのに、こうして『私のもの』が増えていく。
「……少し、疲れたか?」
会計の手続きが済んだらしく、五条様がこちらに視線を向ける。
その目は相変わらず静かで、けれど、私の小さな動揺まで拾うみたいに。
「いえ、その……ただ、びっくりして」
「だろうな」
五条様はふっと目もとだけで笑ってから、腕時計にちらりと視線を落とした。
「このビルの中に、落ち着いた喫茶店がある。少し休んでから、帰ろう」
喫茶店……?
その一言に、胸の鼓動がまた一段と速くなる。
休む、という言葉の響きさえ、私には甘い。
買い物だけで終わるはずだった今日が、まだ五条様と二人きりで続いていくのだと、ようやく実感した。



