無華の花嫁〜蔵に囚われた少女は、黒薔薇の殿下に溺愛される〜

「帯はきつくないですか?」

腰のあたりを、ぐっと支えられる。
細い帯板が当てられ、幾重にも布が巻きついていくたびに、自分の身体の形が、少しずつ別のものに整えられていく気がした。
息を吐く場所まで、決められていくみたいに。

「だ、大丈夫です……」

そう答えると、女中さんは頷き、「では、もうひと締めだけ」と声をかけた。
帯がきゅうっと引き寄せられる。
肋骨のあたりがきしむようで、息がふっと浅くなる。

けれど、不思議と嫌な苦しさではない。

先日、五条様が仕立てをお願いした訪問着を着せられる。
まだ袖を通したこともない、よそ行きどころか『別の世界』の衣。
蔵で着ていた、重く湿った布と違う。
絹の生地はさらりとしていて、肌に吸いつくように沿ってくれる。

淡い若草色の地の上に、藤や柳、流れるような流水の模様。
光を吸い込むみたいに優雅で、目を近づけると、細い糸が幾度も重なっているのがわかる。
裾を払うたび、金糸が織り込まれた部分がきらりと揺れ、自分の動き一つで模様が生き物のように表情を変えた。

——こんなの、私が着ていいはずがない。
喉の奥で小さく呟いたのに、声にはならなかった。

「帯も、こちらで間違いございませんね。殿下がお選びになったお色です」

帯まで合わせてもらったけれど……
帯紐にまで金糸が織り込まれているように光っている。
布地に指先を滑らせると、ほんの少し、刺繍のふくらみがわかる。
こんなもの、朝霞の家ですら見たことない。

「お背中を失礼いたしますね。……はい、これでお着物はおしまいです」

背中で帯結びが形になっていく感触だけが頼りで、何をされているのか想像もつかない。
けれど、一つ一つの手つきは丁寧で、慈しむようで、静かな確かさがあった。
身体の中心を固く支えられていくうちに、自分のなかの頼りなさまで、ほんの少しだけ隠してもらえた気がする。

——このまま、崩れずに立っていられるかもしれない。
そんなこと、考えたこともないのに。

「お化粧もよろしいですか?」
「お化粧!?」

予想外の言葉に、大きな声が出てしまった。
女中さんは、くすりと笑ってから、小さく首を振った。

「本日ばかりは、ぜひ。……殿下がお望みでございますので」

殿下。
その名を聞いただけで、胸のどこかが温かくなる。
同時に、そこへ触れられるのが怖くて、反射みたいに背筋が強ばった。

小さな几帳のような衝立が立てられ、その向こうに座らされる。
膝の前には、見たこともない道具が整然と並んでいた。
丸い蒔絵の入った小箱、白い粉の入った『器』、紅皿、小さな刷毛や筆……。

一つ一つが小さな宝物みたいに綺麗で、息を呑む。
お化粧をした後の自分の顔が、全く想像できず、指先を膝の上で固く握った。

「では、目を閉じていただけますか」

初めて頬を滑る白粉は、ほのかに甘い匂いがした。
米とも花ともつかない、やわらかな香り。
ふんわりとした刷毛が、額から鼻筋、頬へとすべるたび、くすぐったい。
肌と空気のあいだに薄い膜が、優しく一枚、かぶさっていくような感覚がある。

首筋やうなじに、ひやりとした感触。
そのあとを追うように、白粉がぽんぽんと重ねられていく。

くすんだ色も、母に付けられた痣も、すべてその下に隠されてしまった気がして、少し、心細くなる。
隠してしまえば、ここにいる私まで、どこかへ消えてしまいそうで。

「こちらはお紅でございます。少しだけ、失礼いたしますね」

見たこともない粉や紅を唇に引かれる。
指先にとった紅が、唇の輪郭をなぞる。
最初は冷たくて、次第に体温でとろりと溶け、柔らかく広がっていく。

いつもは血の気のない、自分の唇。
そこに、かすかな、生命の色が宿っていくのがわかった。

「頬にも、少しだけ」

刷毛の先で、頬に淡い色がさっと足される。
ほんのりと火照っているように見せるためなのだと、うっすら想像がついて、自分の頬が本当に熱くなっていくのが、なんだか可笑しかった。

前髪を上げられ、櫛で髪を梳かれる。
艶を出す油を少し含ませた櫛が通るたび、絡まりがほどけて、黒髪がするりと肩のあたりで流れ落ちる。
指が頭皮に触れるたび、びくりとしそうになるのに……女中さんの手は、驚くほど優しい。

「完成しました。とてもお綺麗ですよ」

お綺麗なんて……そんなことあるはずがない。
鏡を見ると、否応なしに、片目だけ紫色の、歪な自分の瞳が目に入ってくる。
改めて『無華』であることを確認するのが恐ろしくて、いつものように、目を逸らす。

こんな素敵な着物が似合う自分なんて、想像できるわけがない。
そんなことあるわけがない。
そういう理屈が、身体に染みついている。

けれど……この着物を、この模様を選んでくださったのは五条様。

——もし、五条様が今の私をご覧になったら、何というだろう。
『似合う』と、言ってくださるだろうか。
そんな言葉、私には過ぎるとわかっているのに、聞きたくなってしまう。

恐怖の中に混じる、ほんの少しだけ、初めての感情。
淡い期待が胸の奥で灯り、消えないように息を潜める。
やっぱり自分の姿が気になってしまい薄目で、鏡の中の自分を確かめた。

鏡の中には、相変わらず歪な瞳の私。
けれど、いつか見た自分とは全く違う。
頬の張りも、血色も、髪の光すらも。

見たことのない、別人のような姿がそこには映っていた。
その『別人』が、私のふりをして、五条様の前に立つのだと思うと、胸がざわめく。

——逃げたい。
——でも、見てほしい。

矛盾した気持ちが絡まり合って、鏡の中の自分に小さく息を吐いた。