無華の花嫁〜蔵に囚われた少女は、黒薔薇の殿下に溺愛される〜

「すみれ嬢、よく笑うようになって可愛くなりましたよね」
「あ゛?」
「すいません、嘘です」

榊原の唐突で不用意な言葉に、資料を持つ手に力が入る。
ふざけているのか、探っているのか。——どちらにしても、余計だ。

だが、否定しきれない事実もある。
近頃のすみれは、以前よりよく微笑むようになった。
散歩に連れ出せば、息を飲むように庭の花を見つめ、わずかに頬を緩める。
最初は空を見上げることすら怯えていたのに、今は風の匂いを確かめるように、鼻先を上げることもある。

相変わらず食は細く、湯冷ましの杯一つでも疲れる日がある。
それでも、連れ帰った時の青白さは影を潜め、肌に血色が戻り、髪も艶を取り戻してきた。

そして——すみれの『異能』耐性を確認する、という建前は、もう言いわけに近い。
触れたくなる。確かめたくなる。
こちらの『黒薔薇』が、彼女の中で何一つ棘を立てないことを。
最初は週に一度に抑えるつもりだった。
だが今では、気づけば一日でも空けられない。
衝動が理性を削っていく感覚がある。

それにしても、触れるたびに一瞬身をすくめる仕草はどうにかならないものか。
すみれに悪意がないことはわかっている。
長年の虐待が作った反射だ。
殴られると思って目を閉じる。叱責が来る前に謝る。逃げるために呼吸を浅くする。
そのたび、胸の奥に鈍い怒りが沈殿する。
——朝霞家の連中は、どれほど人を壊せば気が済む。

同時に、恐怖に打ち勝って少しずつ慣れていく過程を、もっと見たいと思う自分がいる。
怯えが薄れ、指先の震えが止まり、こちらを見上げる時間が少しだけ伸びる。
その変化が嬉しい。だが、その嬉しさに自分が煽られているのも否定できない。
危うい。感情が先行すれば、彼女を守るどころか追い詰める。

……園遊会は、さすがに時期尚早だっただろうか。
告げた時の、戸惑うような怯えた表情を思い出すと、胸が微かに痛む。
だが、仕方があるまい。あの場に連れて行けば、各家との煩わしい腹の探り合いも、曖昧な縁談の駆け引きも、強引に終わらせられる。

誰が何と言おうと、『黒薔薇』の『王華』を受け入れられるのは、おそらくすみれだけだ。
その事実が揺らがない限り、俺の決定に異を唱える者など、立たせない。

すみれの『無華』が持つ特異性は、この国の『華』による序列そのものを覆し得る。
だからこそ、世間に知られる前に——彼女が俺のものだと周知させねばならない。
こんな回りくどい手順から始めなければ、こちらが本気で動くことすら許されないのが、この国の腐った秩序だ。

ただ、心配なのは朝霞家の出方だ。

元旦の謁見以降、朝霞家は『我が家の百合が婚約者候補筆頭』と触れ回っている。
ある意味、間違いではない。俺が表面上、園遊会で再会の機会を与えたのだから。
だが、その図々しさには苛立ちが募る。
すみれの『黒薔薇』への耐性を知られれば厄介極まりない。
娘の『所有権』を盾に、言い値を吹っかけ、条件を突きつけ、挙げ句にはすみれ本人に圧をかけるだろう。言い出すことは、だいたい予想がつく。

それでも——俺が本当に恐れているのは、交渉そのものではない。
そのせいで、すみれが余計な心労を背負い、また『ごめんなさい』を増やしてしまうことだ。
彼女が自分を罰しようとする癖だけは、どうしても許せない。

「明日は予定通り、すみれ嬢をお連れするんですか?」
「あぁ。仕立てさせた訪問着が届いた。それを着せて連れて行く」
「運転は——」
「俺がする。お前は屋敷で留守番だ」

何か言いたげな榊原を、視線だけで黙らせる。
明日の予定を、もう一度頭の中でなぞった。
——彼女が怯えずに外の空気を吸えるように。
少しでも、外の世界を楽しんでもらえるとよいのだが。