【書籍化】無華の花嫁〜蔵に囚われた少女は、黒薔薇の殿下に溺愛される〜

素手。
その言葉に、ようやく気付く。
五条様の手には、いつもの手袋がない。

五条様の指が、もう一度こちらへ伸びかけて——
宙を掴むように躊躇し、引っ込められる。

「……すまない。突然、驚かせた」
「いえ……」

私の声は、情けないほど小さい。
五条様は一度、手を口もとに当てて深く息を整え、意を決したよう話し始める。

「……もう一度、触れてもいいか」

触れる。
その言葉が、怖いのに、なぜか胸の奥がじんと熱くなる。
拒む理由などないはずなのに、喉だけが詰まって、小さく頷くことしかできない。

「……はい」

差し出した左手の甲に、五条様は大きく息を吐いてから、指先を落としてくる。
触れた場所が、すうっと温かい。
指先は、心なしか微かに震えているように見えた。
人差し指が手の甲を滑るようになぞり、くすぐったさに肩が跳ねそうになるのを、必死に堪える。

「痛みは?」
「……?痛み……ですか?」

触れられるだけで、どうして痛みの話になるのか。
わからないまま、五条様は真剣な顔で私の様子を真剣に確認しながら、私の手を取り、大切に包み込むように触れられる。

いつもあかぎれと手荒れだらけだった私の手は、ここへ来て家事をしなかったせいか、少しだけ血の通った色を取り戻していた。
それでも、酷く頼りない手だ。
こんなふうに優しく触れられるのは、生まれて初めてのことで、どこを見たらいいのかもわからず、自分の指先をじっと見つめることしかできない。

「五条様……?」

名を呼んだ声が震えたのが自分でもわかった。
次の瞬間、五条様の顔がほんの少しだけ近づき——

「五条様!?」

徐に、五条様の柔らかな唇が、私の手の甲に降りてきて、思わず声をあげてしまう。

熱が一気に頬へ駆け上がり、視界がぐらりと揺れた気がした。
触れられた場所だけが、焼けるように熱いのに、そこには痛みがない。
ただ、胸の奥が、どうしようもなく鳴り始める。

「あぁ、すまない。……つい」

そう言いながらも、五条様の手は離れることなく、繋がれたまま。
絡め取るのではなく、逃がさないように——
指を折らないように、丁寧に、繋がれたまま。

熱を出した時よりも熱いかもしれない。
きっと、顔は真っ赤にもなっている。
心臓の音も激しくなり、このまま破裂してしまうかもしれない。

五条様は一度、私の手を見つめ、それから——自分の手を見た。
それは、信じられないものを確かめるように。

「……俺は」

言葉が途中で途切れ、代わりに小さな吐息が落ちる。
その横顔が、妙に寂しそうに見えて、胸が痛んだ。

「……そろそろ戻る。暖かくして、寝るように」

そう告げられると、やっと手が解かれる。
離れたはずなのに、私の手の甲も、指先も、彼の体温で熱いまま。

その熱を逃がすのが怖くて、無意識に手を握りしめた。
扉の向こうへ消えていく五条様の後ろ姿を、息をするのも忘れて見送る。

——あの口づけは、いったい、何だったのだろう。

答えの出ない問いを胸の奥に押し込みながら、握った手の熱だけを、抱え込んだ。