湯殿から戻ると、部屋の灯りは柔らかく落とされ、暖炉の火だけが静かに揺れていた。
クッションを枕代わりにし、ソファに横たわる五条様。
腕は胸もとで組まれ、長い睫毛は静かに伏せられたまま——
深く、穏やかな寝息が規則正しく続いている。
三が日は来られない、と大晦日の日におっしゃっていたのに。
それでも五条様は、元旦から毎日、この部屋まで足を運んでくださった。
きっと、私が一人だといつまでもお節に手をつけられないことに気付かれたのかもしれない。
謁見や、神経を使う行事が立て続けのはずなのに——きっと無理されてるに違いない。
こんな隅の部屋にまで気を遣っていただくなんて。
……迷惑をかけている。
看病だけでも恐れ多いのに、気まで使わせてしまっている。
毛布を手に取り、音を立てないよう静かに広げる。
眠っている五条様に近づくこと自体、本当なら許されない、不敬の極みだろう。
けれど——このまま冷えてしまっては、もっといけない気がして。
息を殺し、起こさないように、肩へ毛布を掛ける。
ふわりと、どこか懐かしい香りがした。
煙草でも香水でもない、清潔な布の匂いと、ほんの少しだけ高貴な薫物の余韻。
毛布の端を整えようと、もう少し身を乗り出した——その一瞬。
ぐい、と。
熱を帯びた指が、私の手首を唐突に掴んだ。
「っ……!」
反射的に胸の奥がぎゅっと縮こまる。
なんで毛布を掛けて差し上げようなんて考えてしまったんだろう。
殴られる。突き飛ばされる。怒鳴られる。
身体中の血の気が、音を立てて引いていくのがわかった。
けれど、落ちてきたのは——
「……どこへ行く」
低く、掠れた寝起きの声。耳の奥に直に響いて、ぞくりと背筋が粟立つ。
顔を上げると、睫毛がわずかに震え、黒曜石のような瞳がこちらを捉えていた。
起きたばかりのはずなのに、その視線だけは鋭くて、逃げ場がない。
「ご、ごめんなさい……!起こしてしまって……その、毛布を……」
言いわけにもならない言葉が、喉の奥で絡まり、うまく形にならない。
掴まれた手首に、ふっと力がこもった気がして、目をぎゅっと閉じた。
——来る。
そう思ったのに、想像した痛みはいつまで経っても訪れない。
代わりに、指先の力がほんの少し緩み、割れ物を扱うみたいに、掴まれた手首が少しだけ持ち上げられる。
その動きが、怖いのに、どこか慎重で、優しくて——余計に混乱した。
恐る恐る目を開くと、五条様は夢の続きでも見ているかのような遠い表情で、私の手首を見つめていた。
その瞳は、責める色とは程遠くて、ただ何かを確かめるように、じっと見つめられたかと思うと、自分の無意識の行動に気がついた五条様が、ハッとしたように手を引いた。
「……!!腕は……痛みはないか?」
「え?い、いえ……全然……!」
「そんなはずがない。……見せてみろ」
慌てて首を振る。
殴られるわけでも、罵られるわけでもなかった。
むしろ、酷く心配されている——ような。
どうしていいかわからず、私は手を胸の前でぎゅっと握りしめる。
五条様の瞳には驚きと強い戸惑いが残ったまま、私の腕から視線が離れない。
「そんな馬鹿な……素手で触れたはずなのに……」
クッションを枕代わりにし、ソファに横たわる五条様。
腕は胸もとで組まれ、長い睫毛は静かに伏せられたまま——
深く、穏やかな寝息が規則正しく続いている。
三が日は来られない、と大晦日の日におっしゃっていたのに。
それでも五条様は、元旦から毎日、この部屋まで足を運んでくださった。
きっと、私が一人だといつまでもお節に手をつけられないことに気付かれたのかもしれない。
謁見や、神経を使う行事が立て続けのはずなのに——きっと無理されてるに違いない。
こんな隅の部屋にまで気を遣っていただくなんて。
……迷惑をかけている。
看病だけでも恐れ多いのに、気まで使わせてしまっている。
毛布を手に取り、音を立てないよう静かに広げる。
眠っている五条様に近づくこと自体、本当なら許されない、不敬の極みだろう。
けれど——このまま冷えてしまっては、もっといけない気がして。
息を殺し、起こさないように、肩へ毛布を掛ける。
ふわりと、どこか懐かしい香りがした。
煙草でも香水でもない、清潔な布の匂いと、ほんの少しだけ高貴な薫物の余韻。
毛布の端を整えようと、もう少し身を乗り出した——その一瞬。
ぐい、と。
熱を帯びた指が、私の手首を唐突に掴んだ。
「っ……!」
反射的に胸の奥がぎゅっと縮こまる。
なんで毛布を掛けて差し上げようなんて考えてしまったんだろう。
殴られる。突き飛ばされる。怒鳴られる。
身体中の血の気が、音を立てて引いていくのがわかった。
けれど、落ちてきたのは——
「……どこへ行く」
低く、掠れた寝起きの声。耳の奥に直に響いて、ぞくりと背筋が粟立つ。
顔を上げると、睫毛がわずかに震え、黒曜石のような瞳がこちらを捉えていた。
起きたばかりのはずなのに、その視線だけは鋭くて、逃げ場がない。
「ご、ごめんなさい……!起こしてしまって……その、毛布を……」
言いわけにもならない言葉が、喉の奥で絡まり、うまく形にならない。
掴まれた手首に、ふっと力がこもった気がして、目をぎゅっと閉じた。
——来る。
そう思ったのに、想像した痛みはいつまで経っても訪れない。
代わりに、指先の力がほんの少し緩み、割れ物を扱うみたいに、掴まれた手首が少しだけ持ち上げられる。
その動きが、怖いのに、どこか慎重で、優しくて——余計に混乱した。
恐る恐る目を開くと、五条様は夢の続きでも見ているかのような遠い表情で、私の手首を見つめていた。
その瞳は、責める色とは程遠くて、ただ何かを確かめるように、じっと見つめられたかと思うと、自分の無意識の行動に気がついた五条様が、ハッとしたように手を引いた。
「……!!腕は……痛みはないか?」
「え?い、いえ……全然……!」
「そんなはずがない。……見せてみろ」
慌てて首を振る。
殴られるわけでも、罵られるわけでもなかった。
むしろ、酷く心配されている——ような。
どうしていいかわからず、私は手を胸の前でぎゅっと握りしめる。
五条様の瞳には驚きと強い戸惑いが残ったまま、私の腕から視線が離れない。
「そんな馬鹿な……素手で触れたはずなのに……」



