会話の速さについていけない。
頭の中で言葉が追いつくより先に、反物の海の上を決定だけが滑るように進んでいく。
ちょっと……待って、待ってほしい。
ひょっとしなくても、今ここで決められているのは——園遊会で私が着るための着物……?
そんなの、私のような者が、いったいどうして。
「こちらの反物を、振袖に。柄合わせと金彩は、いつもの職人を回すように」
「かしこまりました。では、こちらが園遊会用の一式といたしまして——」
『振袖一式』という言葉が耳に引っかかって、そこだけがやけに大きく聞こえた。
振袖。女子が着る、一番立派な晴れ着。
家ではもちろん百合に用意されていた。
けれど『無華』の私に、そんなものが用意されたことなど一度もない。
まして、こんなよい反物で。
何の価値もない私なんかのために仕立てるなんて——そんなこと、あっていいはずがない。
あの蔵で、私は『いないもの』だった。
名を呼ばれることもなく、鏡の前に立つこともなく、ただ仕事をこなして息を潜めるだけだった。
その私が、今、反物の海の中心に引きずり出されている。
「あ、あのっ」
気づいたら、悲鳴のような声が出ていた。
呉服商も五条様も、同時にこちらを見る。
その視線の重さに、私は反射的に俯いてしまう。
目を合わせたら何かが壊れてしまいそうで、畳の端だけを見つめる。
「わ、私には、そのような……立派なお着物は……
きっと、もったいなくて……!お支払いも……とてもできません」
喉がひゅっと鳴る。
分不相応という言葉がこれほど似合うこともない。
『無華』の私には資格がない。
そう言い切るのが怖くて、曖昧な言い回しに逃げたのに、五条様の視線は逃がしてくれない。
五条様の目が、氷のようにすっと細くなる。
「もったいない?」
「園遊会になんて、出られる身では——」
「誰がそんなことを決めた」
低い声が、畳の上を這うような重さで響く。
その声音だけで、背筋が勝手に伸びる。
怒鳴られたわけではないのに、叱責よりもずっと怖い。
「ここでお前に振袖を誂えると言ったのも、園遊会に連れて行くと決めたのも、他でもない、俺だ。
俺の隣に立たせるのに、安物を着せるつもりはない」
「……っ」
五条様は本気なんだ……
その言葉が現実感のないまま、反物の香りのする部屋に落ちる。
受け止める場所がなくて、胸の中でふわふわと浮き上がり、同時に底へ沈んでいく。
言い返す言葉が見つからない。
そこは、本来なら私が一番近づいてはいけない、人目に晒される場所のはずなのに。
五条様の口からあまりにも当然のように言われると、頭がくらくらした。
「それと、園遊会だけの着物が一枚というわけにもいかないな」
五条様は、別の反物の束を指し示された。
淡い色、深い色。絹の光が重なって、目が眩む。
「普段、客の前に出すときや、外に連れ出すときの着物も要る。
訪問着を何点か。柄はもう少し控えめでいい」
「では、こちらの若草色に、藤と柳をあしらっては。春の外出に相応しく、けれど主張しすぎません」
「すみれ。近くへ」
促されるまま、反物のそばまでにじり寄る。
呉服商が、若草色の布を肩にあてるようにかけられる
「……!」
柔らかい。
布が触れただけなのに、春の光が背中に落ちたように、身体がふっと軽くなる気がした。
鏡を見なくてもわかる。頬が、かあっと熱くなっていく。
『似合う』かもしれない、という考えが生まれること自体が、怖いのに。
「顔色が明るく見えるな。それにしよう」
五条様の簡潔で、決定的な評価。
言い切られるほど、逃げ場が消えていく。
「こちらを、訪問着に仕立てましょう。お出かけになるにはうってつけでございましょう」
「そうだな。きっと似合う」
話が、私の意思とは無関係に、勝手に決まっていく。
その『当たり前』が、なおさら怖い。
あの蔵では、私のことなど誰も決めなかった。
決める価値もないものとして、放っておかれた。
それなのに今は、私のために布が選ばれていく。
お、お出かけ……?私が?こんなステキな着物を着て?
頭の中で『私』という言葉と、若草色の布をまとった自分の姿が、全く結びつかない。
反物の端をなぞると、指先が震えているのが自分でもわかる。
「……本当に、よろしいのでしょうか」
やっと絞り出した声は、情けないほど小さかった。
けれど、その弱さごと押し潰すように、五条様は言った。
「よいと言っている」
それ以上の異論を絶対に許さない声音。
命令ではないのに、逆らうという発想すら消えていく。
「これは、お前のための衣だ。他の誰のものでもない。
着ることだけ考えろ。金のことは、気にするな」
「……はい」
従うしかないのはわかっている。
けれど、畳の上に広がる色とりどりの布が、急に、重くのしかかる鎖のようにも見えてくる。
こんなにしていただいても、私はきっと……。
いつか、どこかで捨てられる。
そう強く信じている自分と、こうして布をかけられて胸の奥が少しだけ温かくなる自分が、ぐちゃぐちゃに絡まってほどけない。
嬉しい、なんて言ってしまったら。
その瞬間、全部を失う気がして——私はただ、肩の上の若草色を落とさぬように、息を潜めた。
頭の中で言葉が追いつくより先に、反物の海の上を決定だけが滑るように進んでいく。
ちょっと……待って、待ってほしい。
ひょっとしなくても、今ここで決められているのは——園遊会で私が着るための着物……?
そんなの、私のような者が、いったいどうして。
「こちらの反物を、振袖に。柄合わせと金彩は、いつもの職人を回すように」
「かしこまりました。では、こちらが園遊会用の一式といたしまして——」
『振袖一式』という言葉が耳に引っかかって、そこだけがやけに大きく聞こえた。
振袖。女子が着る、一番立派な晴れ着。
家ではもちろん百合に用意されていた。
けれど『無華』の私に、そんなものが用意されたことなど一度もない。
まして、こんなよい反物で。
何の価値もない私なんかのために仕立てるなんて——そんなこと、あっていいはずがない。
あの蔵で、私は『いないもの』だった。
名を呼ばれることもなく、鏡の前に立つこともなく、ただ仕事をこなして息を潜めるだけだった。
その私が、今、反物の海の中心に引きずり出されている。
「あ、あのっ」
気づいたら、悲鳴のような声が出ていた。
呉服商も五条様も、同時にこちらを見る。
その視線の重さに、私は反射的に俯いてしまう。
目を合わせたら何かが壊れてしまいそうで、畳の端だけを見つめる。
「わ、私には、そのような……立派なお着物は……
きっと、もったいなくて……!お支払いも……とてもできません」
喉がひゅっと鳴る。
分不相応という言葉がこれほど似合うこともない。
『無華』の私には資格がない。
そう言い切るのが怖くて、曖昧な言い回しに逃げたのに、五条様の視線は逃がしてくれない。
五条様の目が、氷のようにすっと細くなる。
「もったいない?」
「園遊会になんて、出られる身では——」
「誰がそんなことを決めた」
低い声が、畳の上を這うような重さで響く。
その声音だけで、背筋が勝手に伸びる。
怒鳴られたわけではないのに、叱責よりもずっと怖い。
「ここでお前に振袖を誂えると言ったのも、園遊会に連れて行くと決めたのも、他でもない、俺だ。
俺の隣に立たせるのに、安物を着せるつもりはない」
「……っ」
五条様は本気なんだ……
その言葉が現実感のないまま、反物の香りのする部屋に落ちる。
受け止める場所がなくて、胸の中でふわふわと浮き上がり、同時に底へ沈んでいく。
言い返す言葉が見つからない。
そこは、本来なら私が一番近づいてはいけない、人目に晒される場所のはずなのに。
五条様の口からあまりにも当然のように言われると、頭がくらくらした。
「それと、園遊会だけの着物が一枚というわけにもいかないな」
五条様は、別の反物の束を指し示された。
淡い色、深い色。絹の光が重なって、目が眩む。
「普段、客の前に出すときや、外に連れ出すときの着物も要る。
訪問着を何点か。柄はもう少し控えめでいい」
「では、こちらの若草色に、藤と柳をあしらっては。春の外出に相応しく、けれど主張しすぎません」
「すみれ。近くへ」
促されるまま、反物のそばまでにじり寄る。
呉服商が、若草色の布を肩にあてるようにかけられる
「……!」
柔らかい。
布が触れただけなのに、春の光が背中に落ちたように、身体がふっと軽くなる気がした。
鏡を見なくてもわかる。頬が、かあっと熱くなっていく。
『似合う』かもしれない、という考えが生まれること自体が、怖いのに。
「顔色が明るく見えるな。それにしよう」
五条様の簡潔で、決定的な評価。
言い切られるほど、逃げ場が消えていく。
「こちらを、訪問着に仕立てましょう。お出かけになるにはうってつけでございましょう」
「そうだな。きっと似合う」
話が、私の意思とは無関係に、勝手に決まっていく。
その『当たり前』が、なおさら怖い。
あの蔵では、私のことなど誰も決めなかった。
決める価値もないものとして、放っておかれた。
それなのに今は、私のために布が選ばれていく。
お、お出かけ……?私が?こんなステキな着物を着て?
頭の中で『私』という言葉と、若草色の布をまとった自分の姿が、全く結びつかない。
反物の端をなぞると、指先が震えているのが自分でもわかる。
「……本当に、よろしいのでしょうか」
やっと絞り出した声は、情けないほど小さかった。
けれど、その弱さごと押し潰すように、五条様は言った。
「よいと言っている」
それ以上の異論を絶対に許さない声音。
命令ではないのに、逆らうという発想すら消えていく。
「これは、お前のための衣だ。他の誰のものでもない。
着ることだけ考えろ。金のことは、気にするな」
「……はい」
従うしかないのはわかっている。
けれど、畳の上に広がる色とりどりの布が、急に、重くのしかかる鎖のようにも見えてくる。
こんなにしていただいても、私はきっと……。
いつか、どこかで捨てられる。
そう強く信じている自分と、こうして布をかけられて胸の奥が少しだけ温かくなる自分が、ぐちゃぐちゃに絡まってほどけない。
嬉しい、なんて言ってしまったら。
その瞬間、全部を失う気がして——私はただ、肩の上の若草色を落とさぬように、息を潜めた。



