「五条様、梅の花が咲いてます」
何度目かの散歩。
五条様の仰っていた通り、蕾は日に日に色づき、ほころんだ花びらがゆっくりと開き始めていた。
冷たい空気の中に、ほの甘い香りが淡く溶け、庭園の景色に薄い彩りを添える。
梅の香りを吸い込むだけで、胸の奥の固いものが少しだけ緩む気がした。
あの蔵の冷えた匂いとは違う。湿った埃でも、井戸水の冷たさでもない。
生きている匂いを初めて感じた気がした。
「もう少ししたら、桜も咲き始めるだろう」
桜……。
その言葉を聞いた瞬間、心のどこかが小さく鳴った。
桜が咲く頃、私はどこにいるのだろう。
きっとここではない、どこか別の場所に違いない。
そう思うのに、目の前の枝に宿る小さな蕾を見上げていると、せめてこの庭の温もりだけは覚えていたいと、そっと心の中で祈る。
「すみれ、そろそろ部屋に戻ろう」
あ……もうそんな時間。
暖かくなるにつれ、散歩の頻度も時間も増えていった。
そのせいか、戻る合図が名残惜しく感じてしまう自分に気づいて、慌ててその感情を押し込める。
名残惜しいだなんて。
私に許されるはずがないのに。
「この後、客が来る。すみれも同席するといい」
「……私が、ですか?」
足が止まりそうになる。
客。
同席。
その二つの単語が、胸の中で嫌な形に結びつきかけて、喉がきゅっと狭くなる。
散歩のたびに差し伸べられる手。
五条様にとって、この手に深い意味はないはず。
慰み者として求められるのなら、これくらい自然に慣れなければ。
きっと捨てられた後は、こんなふうに丁寧に扱われることなどないのだから——。
廊下を戻りながらも、名残惜しさが胸のあたりにまとわりついて離れない。
次に散歩に行けるのはいつになるのか。その時は、どんな花が見られるのか。
そんなことをぼんやり考えていたせいだろうか。
滞在させてもらっている部屋とは全く別の廊下を曲がり、襖の前で立ち止まったところで、ようやく気が付く。
……人の声?
女中さんの押し殺したような声と、低く落ち着いた男の声。
襖の隙間から、布ずれの音がかすかに漏れていた。
さらり、と。それだけで、上等な布の気配がする。
「入れ」
五条様が先に襖を開けられる。
その背に続いて中へ足を踏み入れた瞬間、思考が真っ白になった。
畳が、見えない。
部屋いっぱいに、色とりどりの反物が川のように広げられている。
淡い桃色、薄い水色、若草のような緑。
深い紫や、金糸のきらめきまで混ざって、目が痛くなるほど華やかだ。
布の海の上に光が落ち、絹が呼吸するみたいに、ほのかに艶めいている。
「殿下、この度はご用命誠にありがとうございます」
一番奥で控えていた初老の男が、するりと深々と頭を下げた。
よく通る声なのに、どこか柔らかく、商いに慣れた落ち着きがある。
「急な呼び立てにもかかわらず、すまない」
五条様は当然のように部屋の中ほどまで進み、座布団に堂々と腰を下ろされる。
私はといえば、反物の海の手前で固まり、どこへ足を置けばいいのかもわからない。
踏んではいけない。汚してはいけない。
その思いだけが大きく膨らんで、息が浅くなる。
女中さんに袖を引かれ、ようやく畳の隅に膝をつく。
そのすぐ横を、手の平ほどもある牡丹の模様が染め抜かれた布が、絹鳴りを立ててすべり落ちていった。
こ、こんな高そうな布、踏んだりしたらどうしよう……!
指先が震え、帯の上で手をぎゅっと握りしめる。
「この娘に似合う振袖の反物を」
五条様の声に、ハッと顔を上げる。
な、なに——。
これは、何かの間違いでは——。
「お初にお目にかかります。五条家御用達、花菱屋でございます」
呉服商——きっとそうなのだろう男が、穏やかに目を細めてこちらを見た。
けれど私は、頭を下げるので精一杯で、頬の熱さだけが増していく。
「本日は、園遊会にお連れになるお嬢様のお支度とのことで」
園遊会。
少しだけ耳にしたことのある言葉。
えっ、え?園遊会って、あの……
五条様だけでなく、高貴な『華族』の方々が集う——そんな場。
そこへ、私が……?
……なぜ。
どうして。
「まずは園遊会用の一枚だ。三月末だが、夜はまだ冷える。
季節を半歩先取りするくらいでいい。——派手なものではなく……」
五条様は、広げられた反物の中から淡い藤色の一本を、迷いなく指先で押さえられた。
その仕草があまりにも自然で、最初からそれと決めていたみたいに見える。
「地はこれを。柄は——」
「若葉に流水、そこへ梅の名残を少々。桜は……控えめに枝先を描く程度でいかがでしょう」
呉服商がすぐさま言葉を継ぎ、反物の端を持ち上げる。
光を含んだ藤色が、波のように揺れて見えた。
「殿下のお隣にお立ちになるには、これくらいの華やぎが必要かと存じますが、
お嬢様のお年とお顔立ちを思えば、決して出過ぎることはないかと」
——殿下のお隣。
その言葉が、胸の奥に小さな棘を落とす。
私が、隣に立つ?園遊会で?
そんなこと、あり得ない。
あり得ないのに、五条様は静かに頷いて、淡々と告げた。
「……そうだな。それくらいが、すみれには似合う」
わ、私に……!?
『すみれ』という名前が、反物の海の中で呼ばれた。
それだけで、心臓が一つ、大きく跳ねる。
似合う?私に?この綺麗な色が?
嬉しいと感じたら、罰が当たる気がして。
怖いと感じたら、今の温もりを失いそうで。
私はただ、膝の上で握った指先に力を込めて、俯くことしかできなかった。
何度目かの散歩。
五条様の仰っていた通り、蕾は日に日に色づき、ほころんだ花びらがゆっくりと開き始めていた。
冷たい空気の中に、ほの甘い香りが淡く溶け、庭園の景色に薄い彩りを添える。
梅の香りを吸い込むだけで、胸の奥の固いものが少しだけ緩む気がした。
あの蔵の冷えた匂いとは違う。湿った埃でも、井戸水の冷たさでもない。
生きている匂いを初めて感じた気がした。
「もう少ししたら、桜も咲き始めるだろう」
桜……。
その言葉を聞いた瞬間、心のどこかが小さく鳴った。
桜が咲く頃、私はどこにいるのだろう。
きっとここではない、どこか別の場所に違いない。
そう思うのに、目の前の枝に宿る小さな蕾を見上げていると、せめてこの庭の温もりだけは覚えていたいと、そっと心の中で祈る。
「すみれ、そろそろ部屋に戻ろう」
あ……もうそんな時間。
暖かくなるにつれ、散歩の頻度も時間も増えていった。
そのせいか、戻る合図が名残惜しく感じてしまう自分に気づいて、慌ててその感情を押し込める。
名残惜しいだなんて。
私に許されるはずがないのに。
「この後、客が来る。すみれも同席するといい」
「……私が、ですか?」
足が止まりそうになる。
客。
同席。
その二つの単語が、胸の中で嫌な形に結びつきかけて、喉がきゅっと狭くなる。
散歩のたびに差し伸べられる手。
五条様にとって、この手に深い意味はないはず。
慰み者として求められるのなら、これくらい自然に慣れなければ。
きっと捨てられた後は、こんなふうに丁寧に扱われることなどないのだから——。
廊下を戻りながらも、名残惜しさが胸のあたりにまとわりついて離れない。
次に散歩に行けるのはいつになるのか。その時は、どんな花が見られるのか。
そんなことをぼんやり考えていたせいだろうか。
滞在させてもらっている部屋とは全く別の廊下を曲がり、襖の前で立ち止まったところで、ようやく気が付く。
……人の声?
女中さんの押し殺したような声と、低く落ち着いた男の声。
襖の隙間から、布ずれの音がかすかに漏れていた。
さらり、と。それだけで、上等な布の気配がする。
「入れ」
五条様が先に襖を開けられる。
その背に続いて中へ足を踏み入れた瞬間、思考が真っ白になった。
畳が、見えない。
部屋いっぱいに、色とりどりの反物が川のように広げられている。
淡い桃色、薄い水色、若草のような緑。
深い紫や、金糸のきらめきまで混ざって、目が痛くなるほど華やかだ。
布の海の上に光が落ち、絹が呼吸するみたいに、ほのかに艶めいている。
「殿下、この度はご用命誠にありがとうございます」
一番奥で控えていた初老の男が、するりと深々と頭を下げた。
よく通る声なのに、どこか柔らかく、商いに慣れた落ち着きがある。
「急な呼び立てにもかかわらず、すまない」
五条様は当然のように部屋の中ほどまで進み、座布団に堂々と腰を下ろされる。
私はといえば、反物の海の手前で固まり、どこへ足を置けばいいのかもわからない。
踏んではいけない。汚してはいけない。
その思いだけが大きく膨らんで、息が浅くなる。
女中さんに袖を引かれ、ようやく畳の隅に膝をつく。
そのすぐ横を、手の平ほどもある牡丹の模様が染め抜かれた布が、絹鳴りを立ててすべり落ちていった。
こ、こんな高そうな布、踏んだりしたらどうしよう……!
指先が震え、帯の上で手をぎゅっと握りしめる。
「この娘に似合う振袖の反物を」
五条様の声に、ハッと顔を上げる。
な、なに——。
これは、何かの間違いでは——。
「お初にお目にかかります。五条家御用達、花菱屋でございます」
呉服商——きっとそうなのだろう男が、穏やかに目を細めてこちらを見た。
けれど私は、頭を下げるので精一杯で、頬の熱さだけが増していく。
「本日は、園遊会にお連れになるお嬢様のお支度とのことで」
園遊会。
少しだけ耳にしたことのある言葉。
えっ、え?園遊会って、あの……
五条様だけでなく、高貴な『華族』の方々が集う——そんな場。
そこへ、私が……?
……なぜ。
どうして。
「まずは園遊会用の一枚だ。三月末だが、夜はまだ冷える。
季節を半歩先取りするくらいでいい。——派手なものではなく……」
五条様は、広げられた反物の中から淡い藤色の一本を、迷いなく指先で押さえられた。
その仕草があまりにも自然で、最初からそれと決めていたみたいに見える。
「地はこれを。柄は——」
「若葉に流水、そこへ梅の名残を少々。桜は……控えめに枝先を描く程度でいかがでしょう」
呉服商がすぐさま言葉を継ぎ、反物の端を持ち上げる。
光を含んだ藤色が、波のように揺れて見えた。
「殿下のお隣にお立ちになるには、これくらいの華やぎが必要かと存じますが、
お嬢様のお年とお顔立ちを思えば、決して出過ぎることはないかと」
——殿下のお隣。
その言葉が、胸の奥に小さな棘を落とす。
私が、隣に立つ?園遊会で?
そんなこと、あり得ない。
あり得ないのに、五条様は静かに頷いて、淡々と告げた。
「……そうだな。それくらいが、すみれには似合う」
わ、私に……!?
『すみれ』という名前が、反物の海の中で呼ばれた。
それだけで、心臓が一つ、大きく跳ねる。
似合う?私に?この綺麗な色が?
嬉しいと感じたら、罰が当たる気がして。
怖いと感じたら、今の温もりを失いそうで。
私はただ、膝の上で握った指先に力を込めて、俯くことしかできなかった。



