森の境界線を越えた瞬間、耳鳴りのようなシャッター音がぴたりと止んだ。
後に残されたのは、肺の奥まで浸食してくるような、濃密な静けさだけだ。
レンズの森という狂気的な空間を抜けた先に待っていたのは、泥を塗り固めたような巨大な廃屋。入ってはならない。本能がそう告げていた。
祖父母が、ここで何をしてきたのか。今、明らかになる。
「……空気が、重いね。ミナミさん」
ririさんが呻くように漏らした。
バールを握る彼女の指先は、寒さのせいか、どす黒く鬱血しているように見えた。湿った土間を抜け、屋敷の奥へと進む。最新のスマートフォンやカメラといった文明の利器は、ここには一切存在しない。
あるのは、天井まで積み上げられた、膨大な数の葛籠だ。それらの側面には、墨書きで何かが記されている。
『明治三十年 村田サト 髪・右耳』
『大正二年 佐藤久助 形見の万年筆・日記・歯』
中を覗く勇気はなかった。けれど、その箱の一つひとつが、誰かの剥ぎ取られた人生を『在庫』として閉じ込めていることは、肌に触れる冷気で理解できた。
ここは住居ではない。命を小分けにし、換金可能な物へと変換するための加工場なのだ。
「ririさん、あそこ……」
屋敷の最奥、光の届かない仏間に黒塗りの経机があった。引き出しの中を開けると、一冊の古い、厚みのある台帳が眠っていた。
表紙には、あの呪わしい『三眼渦』の家紋。
「あった! ミナミさん、ビンゴ!」
私は震える手で、その和紙のページを捲った。
驚くほど整然とした筆致で、この村が行ってきた取引の全記録が綴られている。

「嫌だ……何なの」
ririさんの手が震えている。
いつ、誰が、何のために購入を希望し、それに対して村がどのような商品を提供したのか。
ページを捲る手が止まる。
平成初期。この時代は当然、【バイバイ】なんてアプリはない。日付の横に、見覚えのある名前が記されていた。
『商品名:美濃由紀子/状態:特上品・未開封。摘要:外部(深見分家)への発送』
「お母さんの名前だ。美濃って、旧姓なの」
「何で、こんな商品みたいな書き方されて……」
その文字を見た瞬間、胃の底から熱いものがせり上がってきた。お母さんは、私を産み、慈しみ、育ててくれた。二十数年前、この村から『特上品』として現在の父へと発送されたらしい。
何冊もある台帳の最新の巻を引っ張り出した。まだ墨が乾ききっていないかのような、鮮明な文字。
『商品名:里崎ケント/状態:育成中。備考:深見ミナミの監視役として、発送』
ririさんが私の肩越しに台帳を読み、喉を鳴らした。
――監視役。
振り返る。仏間の隅にある古い柱時計が、一度だけ止まっていた秒針を動かした。時計の文字盤には、あまりにも精巧な義眼がカメラレンズとして埋め込まれていた。
「勝手に上がっちゃダメじゃないか、ミナミ」
いつの間にか、縁側にケントが座っていた。
彼はもうカメラを構えていない。
ただ、暗い瞳で、私という商品を査定するように、静かに見つめていた――。
後に残されたのは、肺の奥まで浸食してくるような、濃密な静けさだけだ。
レンズの森という狂気的な空間を抜けた先に待っていたのは、泥を塗り固めたような巨大な廃屋。入ってはならない。本能がそう告げていた。
祖父母が、ここで何をしてきたのか。今、明らかになる。
「……空気が、重いね。ミナミさん」
ririさんが呻くように漏らした。
バールを握る彼女の指先は、寒さのせいか、どす黒く鬱血しているように見えた。湿った土間を抜け、屋敷の奥へと進む。最新のスマートフォンやカメラといった文明の利器は、ここには一切存在しない。
あるのは、天井まで積み上げられた、膨大な数の葛籠だ。それらの側面には、墨書きで何かが記されている。
『明治三十年 村田サト 髪・右耳』
『大正二年 佐藤久助 形見の万年筆・日記・歯』
中を覗く勇気はなかった。けれど、その箱の一つひとつが、誰かの剥ぎ取られた人生を『在庫』として閉じ込めていることは、肌に触れる冷気で理解できた。
ここは住居ではない。命を小分けにし、換金可能な物へと変換するための加工場なのだ。
「ririさん、あそこ……」
屋敷の最奥、光の届かない仏間に黒塗りの経机があった。引き出しの中を開けると、一冊の古い、厚みのある台帳が眠っていた。
表紙には、あの呪わしい『三眼渦』の家紋。
「あった! ミナミさん、ビンゴ!」
私は震える手で、その和紙のページを捲った。
驚くほど整然とした筆致で、この村が行ってきた取引の全記録が綴られている。

「嫌だ……何なの」
ririさんの手が震えている。
いつ、誰が、何のために購入を希望し、それに対して村がどのような商品を提供したのか。
ページを捲る手が止まる。
平成初期。この時代は当然、【バイバイ】なんてアプリはない。日付の横に、見覚えのある名前が記されていた。
『商品名:美濃由紀子/状態:特上品・未開封。摘要:外部(深見分家)への発送』
「お母さんの名前だ。美濃って、旧姓なの」
「何で、こんな商品みたいな書き方されて……」
その文字を見た瞬間、胃の底から熱いものがせり上がってきた。お母さんは、私を産み、慈しみ、育ててくれた。二十数年前、この村から『特上品』として現在の父へと発送されたらしい。
何冊もある台帳の最新の巻を引っ張り出した。まだ墨が乾ききっていないかのような、鮮明な文字。
『商品名:里崎ケント/状態:育成中。備考:深見ミナミの監視役として、発送』
ririさんが私の肩越しに台帳を読み、喉を鳴らした。
――監視役。
振り返る。仏間の隅にある古い柱時計が、一度だけ止まっていた秒針を動かした。時計の文字盤には、あまりにも精巧な義眼がカメラレンズとして埋め込まれていた。
「勝手に上がっちゃダメじゃないか、ミナミ」
いつの間にか、縁側にケントが座っていた。
彼はもうカメラを構えていない。
ただ、暗い瞳で、私という商品を査定するように、静かに見つめていた――。



