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 どれくらい走っただろう。

 背後からケントの足音は聞こえない。けれど、それ以上に不気味な音が、この森を支配していた。

 ――チッ、チチッ。パシャッ。

 湿った空気の中に、硬質な電子音が混ざる。
 立ち止まり、顔を上げたririさんが短い悲鳴を上げた。

「……何、これ」

 枯れ果てた樹木の枝という枝に、無数のスマートフォンが、黒いビニールテープで括り付けられていた。
 古いガラケーから、液晶の割れた最新機種まで。それらがまるで、不気味な果実のように森を埋め尽くしている。

 私が一歩動くたびに、数メートル先の枝にある端末のフラッシュが焚かれる。

 暗闇を切り裂く暴力的な光。レンズの奥で、無数の『眼』がこちらを見つめているような錯覚に陥った。

「ミナミさん、これ……全部生きてる。私たち撮影されてるんだ」

「嘘でしょ……」

 私のスマホの画面には、今、この瞬間、フラッシュに照らされて商品化した自分の姿があった。

   *

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「逃げても無駄なんだ……どこへ行っても、この森全体が『監視カメラ』になってる……ミナミさん、どうする?」

 ririさんが膝をつき、バールを地面に投げ出した。彼女の瞳から、光が消えかけている。
 絶望が、霧のように足元から這い上がってくるのが分かった。

 ――でも。

「……ririさん、立って。行くよ」

「戻るの? でも、あそこには、あの化け物が」

「戻るんじゃない。進むの、村の奥へ」

 私は、枝からぶら下がる一台のスマホを力任せに引き剥がした。
 レンズを地面に叩きつけて、粉々に踏みつぶす。

「ミナミさん、本当に?」

「逃げたって、ケントは私たちの居場所を特定してくるから。ririさんは、もう嫌だったら、ここまでで大丈夫。巻き込んで、ごめん」

「ミナミさんだけ置いていけるわけないじゃん! なら、私も戦う」

「うん。バイバイに私たちの人生が並べられる限り、人間らしい生活なんてできないもん。根源を突き止めないと、一生、終わらないんだよ、これ」

 私は地面で粉々になった液晶を見つめた。
 自分の顔が、ひび割れた画面の中で歪んでいる。

「だね。ミナミさんの言うとおりだ。この村がきっと、狂気のルーツだよね。M氏が誰だろうと、捕まえる」

 ririさんが、ゆっくりと顔を上げた。
 彼女の瞳に、再び鋭い復讐心が宿る。

「……M氏、探しに行こう」

 私たちは、自分たちを撮り続ける『レンズの森』の深淵へと、足を踏み出した。
 フラッシュの白い光が、何度も網膜を焼いた。それは単なる照明ではない。私の皮膚を、プライバシーという名の薄皮を、一枚ずつ無慈悲に剥ぎ取っていく熱線に感じた。

 黒いビニールテープで樹木に括り付けられたスマートフォンは、樹液を吸い上げて肥大した寄生虫の群れに見えた。湿った基板からは、熱を持ったオゾンの臭いと、焦げたリチウムの腐臭が微かに漏れ出している。

 ――チチッ、チッ。

 電子音が、硬質な昆虫の鳴き声のように耳元で跳ねた。レンズの奥にある無数の受光素子は、もはや機械の部品ではない。それは、何万、何十万という『名もなき欲望』の塊だ。

 私の震える指先も、絶望に歪む唇も。そのすべてが瞬時にデジタル信号へと変換され、この暗い森の地中を這う光ファイバーの根を通って、世界中に発信されていく。

「見ないで……」

 ririさんが呻くように呟いたが、その声さえもマイクが拾い、波形となった。
 もはや、ここには私を私として留めておくための『プライベート』など存在しない。

 視線を浴びるたびに、切り売りされるようで、身体の質量が軽くなっていく。
 その喪失感の果てに、ようやく見えた。森の最奥、霧が最も濃く、最も静止した場所。

 そこに、泥を塗り固めたような、巨大な廃屋が、大きく口を開けて私たちを待っていた。

 背後で、またシャッター音が響く。

 大丈夫。私たちはもう、弱くない――。