ダウナー先輩のあまい条件

 先輩の自宅へ向かうため、ふたりで電車に乗りこんだ。いつも思うけれど、地元では考えられない混み様だ。数分おきに発車すること自体にも驚く。地元の電車に乗ろうと思ったら、家を出る前に時刻表の確認は必須だ。

 初めて乗る路線は車内の造りや広告も目新しくて、つい見渡してしまう。先輩はと言えば、そんなオレを見てほほ笑んでいる。目が合ったのが恥ずかしくて逸らして、でももう一度先輩を見たらまだこちらを見ていて。頬がじわじわと熱くて、それを誤魔化すために何度も何度も同じ広告のキャッチコピーを読んだ。

「着いたぞ」
「おお、ここが先輩のお家……」

 駅から5分ほど歩いたところで、一軒の家を指差して先輩が立ち止まった。洋風な外観の、2階建ての一軒家。オシャレで先輩にぴったりだなあと見上げていたら、玄関の前で先輩がこちらを振り返った。

真白(ましろ)? おいで」
「あっ、はい! お邪魔します!」

 オレが入りやすいようにと、先輩が扉を開いてくれている。ゲーセンの袋に入ったホイップをぎゅっと抱きしめながら入ると、中から足音が聞こえてきた。

「あれ、悠介(ゆうすけ)もう帰ってきたの」
「げ……なんでいんだよ」
「はあ? 私の家だからに決まってんでしょ」

 現れたのは、若い女の人だった。美しい顔立ちは、どこか先輩に似ている。凛とした立ち姿やどこか強気な話し方から、かっこいいと表現したくなる女性だ。

「ん? 誰この子?」

 その大きな瞳が自分に向いた瞬間、オレの背筋がピンと伸びた。

「はっ、初めまして! 七原(ななはら)真白(ましろ)です! 世良(せら)先輩の後輩をやらせてもらってます!」

 緊張しながらも、どうにか自己紹介をすることができた。けれど、なぜか先輩が吹き出してしまった。

「ええ、先輩なんで笑うとですかあ……」
「だって、後輩をやらせてもらってますなんて言い方、初めて聞いたわ」
「え……オレそやんこと言いました?」

 テンパりすぎて、おかしなことを口走ってしまったみたいだ。がっくりと項垂れれば、まあ面白かったからいいんじゃね、なんて先輩は言う。

「真白、こっちは姉貴。今日は出かけるって聞いてたんだけどな」
「いちいちうるさいわね。今出るところだったの」
「はあ。真白、上がって」
「は、はいっ」

 どうやら、仲がいい姉弟ではないようだ。オレはひとりっ子だから分からないけど、みんなこんな感じなのだろうか。

 先輩に促されるままに靴を脱ぎ、向きを揃える。入れ替わるようにお姉さんが靴を履く。

「それにしても、意外だわ」
「はあ? なにがだよ」

 ドアノブに手をかけて、お姉さんが振り返った。中へ進もうとしていた先輩が、気だるそうに応える。

「あんたにこんなかわいい後輩がいるってのが」
「か、かわいい……」

 今のかわいいはあれだ。幼いだとかガキっぽいだとか、絶対にそういう意味だ。内心落胆しているオレには気づかず、お姉さんは続ける。

「しかも、あんた今日たん……」
「あーっ! もういいから! 早く行けよ!」
「…………? 先輩?」

 お姉さんがなにを言おうとしたのか、オレには分からなかった。先輩がオレの両耳を塞いでしまったからだ。そのまま先輩はお姉さんを追い払うかのように、足で空中を蹴る。やれやれといった様子で、お姉さんはオレに手を振って今度こそ出かけていった。

「はあ……マジ最悪」

 大きなため息をつきながら、先輩は苛立った様子で首の後ろを掻く。それから困ったように笑って、オレの頭をぽんと撫でた。

「騒がしくてごめんな。びっくりしたよな」
「いえ、オレは平気です」
「昔からあんな感じで人使いが荒いんだよ……おかげで女は正直苦手」
「そうだったんですね」
「ああ。まあいいや、中入るか」
「はい!」


 先輩の案内で、リビングへと通された。部屋全体が白を基調としていて明るく、とてもきれいにしてある。

「親も出かけてるから、緊張しないで平気だからな」
「はい」

 先ほどのお菓子の材料が入った袋をテーブルに置いて、先輩は背を向けたまま息を吐いた。両腰に手を置いて、静止している。先輩のほうがどこか緊張しているように見えるのは、気のせいだろうか。

「先輩? どうかしましたか?」
「いや、あー……どう切り出そうかと思って」
「…………?」
「見せたほうが早いか。なあ真白、こっち来て」
「はい」

 オレを手招いて、先輩はキッチンへと入った。カウンター式のキッチンだ。お邪魔します、と小声で言いつつ、先輩の隣に並ぶ。すると先輩は、大きなお皿を天板の真ん中へと置いた。ラップの下に、薄い黄色のなにかが見える。冷蔵庫からは、生クリームのパックといちごが取り出された。

「このお皿のは……スポンジケーキ?」
「正解。これをさ、今日は真白と一緒に飾りつけたいなって思って」
「えっ、オレと?」
「うん。いい?」

 先輩のこんな顔は、珍しいと思う。瞳が不安そうな色をしている。オレの気持ちなんか、ひとつしかないのに。1秒でも早く答えて、先輩の不安を吹き飛ばしてあげたい。

「もちろんです! すごく楽しそう!」
「マジ? そっか、よかった」
「でもオレ、やったことなくて。下手くそかもしれんけど、よかですか?」
「もちろん。分からないことは教える」
「じゃあ今日は、先輩は先生ですね」
「たしかに? よし、じゃあ始めるか」
「はい!」

 まずは手を洗う。小さい頃に教わった通りに、爪や手首もとびきり丁寧にだ。

「真白、こっち向いて。エプロンつけてやる」
「わっ、ありがとうございます。このエプロン、かっこよかですね」

 少し頭を下げて、首に紐をかけてもらう。ネイビーのシンプルなエプロンだ。そのまま後ろを向けば、腰のところでリボン結びをしてくれた。

「そうか? ちなみにこれ、俺のエプロンな」
「先輩の? 自分の持ってるってすごいですね」
「まあな」

 頷きながら、先輩も手際よくエプロンを身につけた。ベージュのもので、先輩によく似合っている。

「それはお母さんのですか?」
「これも俺の。洗い替えないと不便だからな」
「……先輩ってもしかして、すごく良い子?」
「は? ふ、なんだそれ」
「だって洗い替えがいるくらい、夕飯とかのお手伝いしてるってことですよね?」

 マイエプロンを持っている高校生が、一体どれだけいるだろう。きっと珍しいと思う。お弁当のおかずを作るようになっても、エプロンを買おうだなんてオレは考えたこともなかった。

「手伝いは全然してねえから、俺は悪い子だな」
「え? じゃあなんで……」
「んー? 真白、まずはいちご洗ってもらっていいか? 洗ったのはこのザルに入れて」
「あ、はい。頑張ります!」

 今、明らかにはぐらかされた。なぜだろうと気になるけど、任務を言い渡されればやる気に満ちてしまう。シンクを拝借して、ひとつひとつ丁寧に洗っていく。先輩は生クリームをボウルに開けて、スケールでお砂糖を量っているようだ。

「先輩、いちご洗い終わりました」
「さんきゅ。じゃあ次は……」

 オレがいちごのヘタを切り落として、先輩は生クリームを泡立てる。我が家には電動のミキサーはないので物珍しい気持ちで見ていたら、「やってみるか?」と先輩がバトンタッチしてくれた。上手いじゃん、なんて先輩が言うから、オレはつい得意げになった。でもオレじゃなくて、ミキサーのお手柄なわけで。先輩は結構オレに甘いと思う。

「じゃあ、デコレーションしていくか」
「はい!」

 まず、先輩がスポンジケーキを横半分に切った。そこに生クリームを少し広げて、スライスしたいちごをふたりで並べていく。

「次はナッペだな」
「ナッペ?」
「スポンジにクリームを塗ること」
「へえ〜、先輩物知りですね」
「まあな」

 よし、と気合を入れるようにつぶやいて、キッチンの上の棚から先輩がなにかを取り出した。丸くて平べったい台のようなものの真ん中には、足がついている。台の上にスポンジケーキを置き、ナイフで生クリームが乗せられる。左手を添えた先輩は、それをくるりと回した。

「えっ、すごい! なんかテレビで見たことあるかも」
「これ? ナッペするための回転台だな。ちなみにこっちはパレットナイフ」
「おお、ただのナイフじゃなかった」
「ふ、だな」

 オレと話しながらも、先輩の目はすごく真剣だ。回転台を操作し、時々生クリームを足しながら伸ばしていく。プロみたいな手つきに見えるのに、

「ここはこうして……やっぱり難しいな」

 と呟いている。実行しながらも、貪欲に学ぼうとしているみたいだ。

「先輩、すごかですね。本物のパティシエみたいです」
「……マジ? 俺には似合わないんじゃね?」
「…………? 似合わない? そやんこと全然なかですよ。かっこいいです」
「……そっか」
「はい」

 ゆっくりと顔を上げて、その美しい瞳に先輩はオレを映した。やわらかくほほ笑んで、目をつむりながら天井を仰ぐ。ひとつひとつの先輩の仕草に、オレはただただ見惚れてしまう。

「よし、気合入った。絶対きれいに仕上げる」
「先輩なら絶対できます!」

 それから先輩は、本当に美しくケーキを白く飾りあげた。まだ誰も触れていない、降ったばかりの雪みたいだ。どこから見ても筋ひとつなくて、魔法でも見ている気分になってくる。でも先輩は「70点だな。いや、60……」なんて不満げだ。減点ポイントがどこなのか、オレには本気で分からない。

「すごくきれいですよ。100点、ううん、1000点満点だと思います」
「はは、さんきゅ。でも次はこれ以上に上手くやる。じゃあ、買ってきたヤツ飾るか」
「はい!」

 さっき買ってきた材料を、先輩が広げてくれた。アラザンに星型のチョコ、それからビオラのエディブルフラワー。もちろん、いちごも忘れずに。

「飾りつけは真白主導な」
「えっ! オレのセンスに任せるのはどうかと思いますよ……」
「いいんだよ。……で、さ。もうひとつ、真白に頼みたいものがあって」
「もうひとつ?」

 さっきお店で選んだものは、全部目の前にある。なんのことだろうと首を傾げていると、買い物袋から先輩がまたなにかを取り出した。そう言えば、会計の直前に先輩がなにかカゴに足していたっけ。

「分かった、“内緒”だ!」
「そうだな、さっき内緒って言ったヤツ。……これ」
「え、これって……」

 先輩が差し出したそれを、オレは両手で受け取った。手のひらに置かれたのは、チョコでできたプレートとチョコペンだった。プレートの上部には、“Happy Birthday”と書いてある。

「真白に名前、書いてほしくて」
「オレに? 上手に書けますかね……てか、えっと、誰の名前を?」
「それは……俺の、だな」
「えっ。先輩お誕生日なんですか? え、いつ?」
「今日」
「今日……」

 オレは今、ものすごく間抜けな顔をしていることだろう。もしくは、どんな感情を露わにしたらいいのか自分でも分かっていない、奇妙な顔かも。

 だって、様々なことが頭に駆け巡っている。山辺(やまべ)先輩と吉野(よしの)先輩が、今日のことをどうするんだって世良先輩に尋ねていた。つまり、先輩の誕生日を祝おうという話だったんだ。それは昨年も行われたことで、そこには莉子(りこ)先輩もいて。でも今日は、先輩のほうからオレを誘ってくれた。遊ぼう、会いたい、って。先輩の1年に1回の誕生日当日に、だ。

「な、なんで言ってくれんかったとですかあ……」
「言えねえよ、俺の誕生日だから会おうとか。図々しくね? それに言ったら真白気にすんだろ、プレゼントどうしようとか」
「当たり前です! だって先輩の誕生日やもん!」
「ありがとな。でも俺、今日マジで好きなようにさせてもらってるから。朝からずっと、ワガママしてる」
「でも……」
「な、真白。俺のお願い叶えてよ」
「お願い?」
「プレート。書いてほしい」

 オレの手に乗ったままのプレートを、先輩が指先でトントンと示す。先輩の誕生日だって知る前から、誰かの名前を書くなんて上手くできるかと不安だったけれど。真実を知った今、とびきり特別な重大任務になってしまった。

「本当に、オレでいいんですか?」
「うん。真白じゃないと嫌」
「っ、分かりました。オレ、頑張って書きますね」

 チョコペンを先輩が湯煎であたためてくれた。先端をちいさくカットしてもらって、いざとプレートの上で構える。

 そこでふと考えこむ。お誕生日のプレートに、世良先輩と書くのは違う気がする。じゃあ、名前? 漢字でどう書くか知ってはいるけど、初めての作業だから難しいかも。失敗は絶対にしたくない。

「真白? どうした?」
「えっと、どうやって書こうかなって悩んじゃって。でも決めました」

 深呼吸して、ペン先から少しチョコレートを出す。ここまできたら、もう止められない。

「……ゆ、……う、……す、……け」

 バランスを考えながら、ひらがなで一文字ずつ丁寧に書いていく。どうしても呼吸を止めてしまうようで、一文字書き終わるごとに大きく息をついた。

「上手いじゃん」
「ほんとですか? でも、まだ終わりじゃないですよ」
「そうなん?」

 このままじゃ呼び捨てになってしまう。形式上はそれもありなんだろうけど、敬称も書きたい。かと言って“せんぱい”だともうスペースが狭い。

「……できた」

 もう一度呼吸を止めて、二文字書き足した。プレートには、“ゆうすけくん”の文字。大きなことを達成した気分だ。息をつくのと一緒に、肩も上下に揺らして達成感を味わう。ところどころ、チョコ溜まりみたいに線が太くなっている部分もあるけれど、なかなか上手くできたんじゃないかな。でも、ふと先輩を見て不安になってきた。時間が止まってしまったみたいに、プレートを凝視している。

「先輩? やっぱり下手でしたかね」

 さっきは上手だと言ってもらえたけれど、いざ完成したらそうでもなかったのかもしれない。先輩は片手で口元を覆って、顔を背けてしまった。

「いや、下手じゃない。初めてでこれはすげーよ」
「本当ですか? でも……先輩?」
「あー、うん。ごめん。今ちょっと真白の顔見れない」
「ええっ、なんでですかあ」

 一体どうしたのだろう。ぐずぐずと情けない声が出てしまう。顔を覗こうと近づいたら、肩ごといっそうあちらを向かれてしまった。そんなの寂しい。なんかしちゃったかな。不安が膨らんで、先輩の腕にそっと手を乗せる。すると、先輩は少しだけこちらを振り返ってくれた。

「あれ? 先輩、耳が赤い?」
「っ、あーもう。絶対そうだと思ったから、見られたくなかったんだよ」
「なんで……」
「……なんていうか、グッときた。真白がこう書いてくれたの」
「そう、なんですか?」
「うん。これ、食べないで取っておきたいくらい。真空パックとかにしたらいけるか?」
「先輩、いつかのオレみたいなこと言ってます! でも食べましょ! 先輩の誕生日ですもん!」
「んー……まあ仕方ないか。それで書いてもらったんだしな」

 まさか、そんなに感激してもらえるなんて思いもしなかった。顔を赤くしてもらえるほどだなんて。あ、やばい。先輩の赤が移ってしまったかも。今度はオレがそれを見られまいと、慌ててしまう。

「せ、先輩! ほら、飾りつけしましょ! 先輩の誕生日やけん、豪華にしますよ」
「ああ、そうだな」

 先輩と肩を並べて、先輩の誕生日ケーキを飾りつけていく。肩が触れてしまった時、謝りかけてやっぱりやめた。布越しに通じた先輩の体温を、このまま味わってみたかったからだ。先輩が同じことを考えているはずもないけれど。先輩もなにも言わなかったから、共有しているみたいな錯覚に浸った。


「じゃあ食うか」
「はい!」

 あれからオレと先輩は、ああでもないこうでもないと言いながらデコレーションをしていった。オレに全部してほしいという先輩と、やっぱりセンスに自信がなくて先輩にやってほしいオレ。結局、アドバイスを先輩にもらいつつ、オレが配置していくことになった。

 先輩はやっぱりすごいなあと、ダイニングテーブルに運ばれたケーキを前につくづく思う。オレが自己流で飾ったら、いちごや他の飾りを等間隔に飾っただろう。けれど先輩は、いちごはまとめて置くのはどうかと提案してくれた。その通りに右上に置いてみたら、もうそれだけでオシャレだった。いちごから虹が現れたみたいにアラザンを飾りたいと言ったのはオレで、星のチョコをアラザンの虹のそばに置いて。ネームプレートのそばにビオラのエディブルフラワー。先輩と一緒に植えた花が、先輩の名前のそばに咲いている。それがすごくいいなと思う。

「食べるのもったいなくなってきました」
「うん、分かる」

 先輩は今、立ち上がってケーキの写真を撮っているところだ。上から、ちょっと斜めから。途中から、さっきオレが獲って先輩にあげたホイップも寄り添っている。先輩が終わったらオレも撮らせてもらおう。なんて考えていたら、

「真白、ケーキの皿持って。ちょっとだけ斜めにして、こっちに見せる感じで」

 と先輩が言う。

「え? えっと、こんな感じですか?」
「うん、いいな」

 うんうんと頷きながら、先輩はテーブルから少し離れた。何枚も撮影しているシャッター音がする。

「……ん? もしかして、オレも入ってません?」
「うん、入ってる」
「ええ! なんでですか!」
「なんでって、オレが真白の写真ほしいから」
「そんなあ……絶対間抜けな顔しとった……」
「そんなことねえよ。自然ないい顔してる。あ、あとツーショも撮りたい」
「っ、それオレもほしいです!」

 先輩が掲げるスマホに上手く収まるように、ケーキを前にふたり並ぶ。

「もう少しこっち」
「っ、はい」

 肩を引き寄せられて、心臓が跳ねた。ポーズを考えようにも、ドキドキした状態ではピースがやっとだった。

「ん、いいな。真白との写真欲しかったんだよな」
「そうなんですか?」
「うん。真白のクラスのヤツらに越されちゃったけどな」
「へ……」

 ちょっとむすっとして見せたかと思えば、先輩はすぐに笑った。もしかしなくても、数日前に送った写真のことかな。そんな風に先輩が感じていたなんて、思いもしなかった。越されちゃった、だなんて。

「じゃあそろそろ食うか」
「あ……はい!」

 じんわりと頬が熱いのを感じつつ、改めて椅子に腰を下ろす。

「切るのもったいねえな。こっちか? いや、やっぱりこっち……」

 うんうんと唸りながら、先輩がケーキを切り分ける。主役にやらせてしまって申し訳ないけど、オレじゃあきっと崩れてしまうから仕方ない。

「はい、真白」
「ありがとうございます!」
「プレートは俺のだからな」
「もちろんです!」

 豪快に4等分にカットされたケーキの、アラザンの虹の部分をお皿によそってくれた。そこにいちごやエディブルフラワーなどを移動してくれたようで、全てのデコレーションが乗っている。先輩も自分の前にお皿を置いて、準備完了だ。

「えっと、先輩」
「はい」

 姿勢を正して、こほんと喉を鳴らして。先輩を呼ぶと、先輩もオレを真似するみたいに背筋を伸ばしてくれた。たったそれだけが楽しくて、くすくすと笑い合う。

「今日はお誕生日、おめでとうございます!」
「ありがとう。真白のおかげで、最高の誕生日だよ」
「せっかくならプレゼントあげたかったですけどね……」
「気にすんな。俺は今日まだまだワガママ言うからな」
「そうなんですか? オレ、全部聞きます!」
「言ったな?」
「へへ、はい! 言いました!」
「じゃあさっそく。真白がケーキ食ってるとこ見たい」
「えっ、オレが先に食べるんですか? 先輩の誕生日なのに?」
「そう。叶えてくれんだろ?」
「それはもちろんですけど」

 不思議なお願いだなあと思いつつ、今日の主役の願いとあらば喜んで叶えたい。さっそくフォークを持ち、おめでとうございますをもう一度伝える。

「それじゃあ、いただきます」
「召し上がれ」
「あー……ん。っ、うわ、すっごくおいしいです! スポンジがふわふわで、クリームの甘さがオレ大好きです」
「そっか、よかった」

 先輩が泡立てたホイップクリームが、ふわふわのスポンジケーキを包みこんでいる。いちごの甘酸っぱさと一緒に口いっぱいに広がって、つい浸るように目を閉じてしまうほどだ。

 もうひとくち、更にもうひとくち。食べ進めるオレを、先輩は頬杖をついてじいっと見つめている。先輩のお願いだけど、やっぱり恥ずかしくなってきた。

「先輩、見すぎです……」
「それは我慢してもらうしかないな」
「うう……先輩って、いつも見てますよね。お昼休みにお菓子食べてる時も」
「まあな。真白がうまそうに食べてくれるのが嬉しくて」
「嬉しい?」

 ケーキのことは分かる。一緒に飾りつけたりしたから、ということだろう。お弁当と交換しているお菓子もたしかに、先輩からもらっているからそうなのか。なるほど、とひとり納得していると、先輩が少し下くちびるを噛んだのが見えた。

「先輩?」
「実は……そのスポンジ、オレが焼いたんだ。朝出かける前に作っといた」
「えっ、そうなんですか!? このふわふわの最高においしいのを? 先輩、すごすぎる……」
「ありがとな。でもそれだけじゃなくて……」
「…………? 先輩?」

 言葉を途中で切って、先輩は少し俯いた。その様子に、なんだかオレまで緊張してきた。ごくんと喉を鳴らすと、先輩はすーっと息を吸った。

「いつも昼休みに渡してるお菓子も、母親が作ったってのは嘘で……全部俺が作った」
「へ……ええ! そうだったんですか!? ぜ、全部?」
「ん、全部」

 昼休みを一緒に過ごすようになってから、毎日お菓子をもらってきた。マフィンにクッキー、ドーナツに、他にもたくさん。あれが全部、先輩のお手製だった? そんなの――

「オレ……」
「…………」
「もったいなかことしたあ!」
「……は? もったいない?」

 テーブルに両肘をついて、オレは思わず頭を抱えた。

「だって、あれ全部先輩が作ったとか……もっとちゃんと味わえばよかった……もちろん、先輩のお母さんが作ったと思ってても大事に食べたつもりですけど……」

 全部ぜんぶ、本当にひとつ残らずおいしかった。そう言えば、出逢った日に苦手なものはないかって聞いてくれたっけ。最初からずっと、先輩はオレのために作ってくれていたんだ。オレはずっとずっと、幸せの中にいたってことだ。

「先輩」
「ん?」
「いつもお菓子ありがとうございます。オレ、先輩のお菓子が本っ当に大好きです! 食べるといつも、幸せーって思っとりました。あ、もちろん、今日のケーキも!」
「真白……はは、お前はほんとすげーな」

 どこか気を張っていた先輩の肩から、ふっと力が抜けるのが見えた。前髪をくしゃっと握りこんで、やわらかく弧を描いた瞳にオレを映してくれる。

「お菓子作りを始めたのは、中学の頃だったんだけど。どんどんのめりこんでって、でもお菓子作りが趣味とか、誰にも言えねえって思ってた」
「そうなんですか?」
「勝手なイメージ持たれてんの、うぜーって思ってんのに。それを崩した時の失望したような顔見んのも、なんかムカつくんだよな。お菓子のこともし嗤われでもしたら腹立つし、実際、俺自身もキャラじゃねえよなって思ってた」
「先輩……」

 学校中のみんなが一目置いていて、きっと誰もが憧れている。でも先輩は目立ちたくないと言っていた。周りの目を気にしないでいるのは難しいとも。先輩はずっと苦悩してきたのだろう。

「でも、真白には食べてほしくなっちゃったんだよな」
「えっと、どうして? って聞いてもいいですか?」

 出逢った次の日から、先輩はもうお菓子を持ってきてくれた。あの時のチョコチップマフィンの味は、絶対に忘れない。

「真白が素直だから、かな。俺はダチにすら自分を隠してばっかだけど、真白は自分の気持ちと素直に向き合ってる感じがしたっていうか。くるくる表情が変わるのも、すげーいいなって思った。俺のことを知らないのも新鮮だったし。コイツがもし俺のお菓子をうまいって言ってくれたら、最高かもって」
「そうだったんですね……」

 先輩がオレのことをそんな風に思ってくれていたなんて。じっとしていられないような照れくささに、指先を絡ませる。

「毎日作って、毎日真白に渡して、表情見るのがすげー楽しみで。誰かに食べてもらおうなんて、今まで思ったこともないのに。他人に興味なかったからな。俺こんなヤツだったのかって毎日びっくりする。でもそれが嫌じゃなくて……だから面倒なこともできたんだろうな」
「面倒なこと? ですか?」
「うん。4日間、一緒に昼飯食えなかった件だけど……昨年の誕生日はアイツらと一緒だったから、今年もって考えてたらしくて。でも集まらなくていいって言ったんだよ。山辺と吉野と、それから牧田(まきた)に」
「牧田?」
「牧田莉子。知ってるだろ?」
「あっ、莉子先輩のことか」
「……真白、お前」
「…………? 先輩?」

 急に先輩の眉間にシワが寄ってしまった。くちびるも尖っている気がする。首を傾げたけれど、先輩はちいさく頭を振った。

「いや、話戻す。牧田にさ、絶対嫌だって言われたんだよ。俺の誕生日、どうしても当日に祝いたいって。でも俺は、真白と過ごしたかったから。大事な用があるって言ったら、じゃあ今週の昼休みはちょうだいって言われた。ふざけんなよって正直思ったけど……真白との今日は死守したかったから」
「先輩……」

 そんなにも、今日この日をオレとって先輩は考えてくれていたんだ。ああ、先輩の言葉で視界が潤んできてしまった。

「今日は本当にありがとうな。真白にホイップのぬいぐるみあげられて、予定外だったけどおそろいのホイップもゲットできて。ケーキも一緒に作ったし、実は俺が作ったお菓子だったってことも言えて。すげー幸せだったよ」
「……っ、もう! それはオレのセリフですよお! 本当はオレの誕生日だったのかなって思うくらい、オレのほうこそ幸せでした」
「はは、真白の泣き虫」
「うう、見らんでください……」

 泣き虫だなんて、一見いじわるな言葉だけど。先輩の声色は、とびきり柔らかい。大きな手が伸びてきて、まぶたの下をそっと撫でられる。甘い息が零れてしまいそうだ。

「なあ真白」
「はい」
「もう一個、ワガママあんだけど。いい?」
「えっ、もちろんです! 百個でもいいですよ!」

 先輩の言葉に、オレは慌てて顔を上げた。涙もどこかに引っこんだ。プレゼントを用意できなかった分、オレにできることはなんだって叶えたい。

「呼び方、変えねえ?」
「へ? 呼び方? 世良先輩じゃなくて、ってことですか?」
「そう。なんとか先輩って呼び方って、一対一だと先輩だけで通じるからそう呼びがちじゃん」
「たしかに……」
「他のヤツはどうだっていいけど、真白からはそれだと寂しい」
「先輩……」

 他のヤツはどうだっていい。真白からは寂しい。先輩は何気なく言っているのかもしれないけれど、恋をするオレにとってそれがどれだけ威力のある言葉か。バクンと大きく跳ねた心臓をどうにか抑え、頑張って冷静を寄せ集める。だって――

「えっ、じゃあなんて呼ぼう? 世良さん?」
「距離感遠くなったな、却下」
「ええ……でも他になくないですか?」
「あんだろ。名前が」
「名前? いやいや、無理です!」
「なんでだよ」
「だ、だって……恥ずかしすぎます」
「牧田のことは名前で呼んでんのに?」
「……へ? 莉子先輩?」

 なぜ今莉子先輩が出てきたのだろう。胸がチクリと痛む。けれどそれどころじゃない。先輩が不満そうな顔をしている。

「アイツは名前呼びとかなんで? ずりいじゃん。てか、牧田と喋ったことあんの? 俺のほうが真白と仲良いよな?」
「喋ったことはちょっとだけ……でも全然! 仲良いと思っとる先輩は世良先輩だけやし、莉子先輩は名前しか知らなかったからそうなっただけで!」
「ふうん……」

 ジトリとした瞳がオレを捉えて離さない。先輩の三白眼は見惚れるほどかっこよくて大好きだけど、そんな風に見つめられるとドキドキして息切れしそうだ。

「え、っと……じゃあ、悠介さん?」

 先輩の名前と一緒に、心臓も出てくるかと思った。それくらい勇気を使ったのに、先輩はこれもお気に召さないらしい。

「“さん”はナシ。名前でも距離ある」
「そんなあ……じゃあなんて呼べば……」
「さっきのがいい」
「…………? さっきの?」

 なんのことだろう。検討もつかず首を傾げると、先輩はケーキを指さした。

「え……えっ、いやいや! いやいやいや! 無理ですよお」
「なんでだよ。真白が書いたんじゃん」
「そうですけど〜……」

 あくまでも、ケーキに飾るならそれが定番だと思っただけだ。だって、年下のオレが“悠介くん”だなんて。許されないと思う。

「ワガママ、聞いてくれんだろ?」
「うっ、それは……」
「まーしーろ。俺これ見た時、すげーグッときたんだけど?」

 頬杖をついて、ちょっと顎を上げながら先輩はオレを見る。ああ、分かってるんだ。どんなに無理だって思っても、結局オレは先輩のお願いを拒めないって。

「……先輩は、オレがくん付けで呼んだら嬉しい?」
「うん、嬉しい。俺のこと、そう呼ぶヤツいないし。家では呼び捨てで、学校ではそもそもみんな名字だから」
「…………」

 そうか。もし悠介くんって呼んだら、オレは唯一になれるんだ。それを先輩は、オレにくれるんだ。やっぱり、オレのほうがたくさんのものをもらっている気がする。

「じゃ、じゃあ……悠介、くん」
「っ、はは。はい」

 勇気を振り絞りに振り絞って、ついに口にした。真っ赤だろう顔を両手で覆う。そんなオレを、テーブルに置いた両腕に頬を乗せて、先輩が覗いてくる。

「うう、恥ずかしかあ……」
「ありがと真白、すげー最高」
「……ちなみに、今日だけだったりします?」
「まさか。これからずっとそれな」
「マジですかあ……」

 先輩をくん付けで呼ぶなんて恐れ多い、恥ずかしい。でも、オレ自身も嬉しいのだと呼んでみて分かった。喜びで胸が弾けそうで、顔が熱い。様々な想いが体中をかけ巡っている。


「家まで送ってく」

 あれから、もう一度先輩――もとい悠介くんにおめでとうを伝えて、ケーキを食べた。なんだかんだでホールケーキをふたりで半分こしてしまった。キッチンに一緒に並んで片付けをするのまで、余すことなく楽しい時間だった。

「ええ!? 大変だからいいですよ!」
「だーめ。これも俺の今日のワガママだから、真白に拒否権なしな」
「そんなあ……」

 そう言われてしまうと、たしかにオレは拒むことができない。誕生日のお願いを叶えるためでもあるし、遠慮しながらも結局は、まだ一緒にいられて嬉しいからだ。

 世良家からの最寄り駅までの道、電車待ちの駅のホーム。会話が途切れなくて、混んだ車内でも他の人の迷惑にならないようにと、顔を寄せ合って内緒話のように話した。ドキドキと心臓がうるさくて、静まれと願いながら夕焼け空を見つめた。

 悠介くんは本当に家まで送ってくれるつもりらしい。隣の悠介くんを見上げながら、オレの最寄り駅からのこの道を歩いているなんて、不思議な感覚だ。

「先輩……じゃなかった、悠介、くん」
「んー?」

 さっきから何回も、つい先輩と呼んでしまう。その度に悠介くんは、優しくほほ笑んで自分の名前が呼ばれるのを待ってくれる。

「今日のワガママ、もう残ってないですか? あとちょっとで家着いちゃいます」
「そっか、もう終わりか」
「悠介くんのお願いだったら、今日だけじゃなくていつでも聞きたいですけど」
「真白、それは俺に甘すぎ」
「そうですかね?」
「うーん、そうだな……」

 バスも通る道から中に一本入った。あとひとつ角を曲がったら、オレの家族が越してきたばかりのマンションがある。道の端に寄った悠介くんに倣って、オレも立ち止まる。

「本当は、もうひとつある」
「おお、じゃあ聞きたいです!」
「ありがとな。でも……これは、今日はやめとく」
「…………? いいんですか?」
「言おうかなって、ちょっと考えはしたんだけどな。真白にお願いするっていうのも、ちょっと違う気がする」
「めっちゃ気になる……」
「だよな。んー、それはふたりで叶えられたらなって思ってる」
「なんだろ……もっと気になってきました」

 一体なんなのだろう。ふたりで叶えたいもの、って。首を捻っても、ちっとも思いつかない。うんうんと悩むオレの頭を、悠介くんはそっとほほ笑んでぽんと撫でた。

「いつか言うよ」
「今日じゃダメですか?」
「ダメっていうか……今日は真白といっぱい過ごせたし、名前で呼んでもらえるようになったし。最高だったから、充分。もうひとつのは、そうだな。確信持てたらな」
「確信?」
「そう。絶対に手放したくないから」
「手放したくない……?」
「余計悩ませちゃったみたいだな。まあ、これからもっと頑張る宣言だとでも思っといて」

 ますます分からない。悠介くんはなにを頑張るのだろう。お手上げだ。こうなったら、もう待つことしかオレにはできない。
 再び歩きはじめた悠介くんの隣に、数歩を走って並ぶ。

「なあ、真白の誕生日っていつ?」
「来月です。オレたち近いですよね」
「は? すぐじゃん。何日?」
「15日です。ちょうど横浜遠足の日なんです」
「マジか」

 オレの誕生日を聞いて、悠介くんは目を丸くする。オレも驚いたから、その気持ちがよく分かる。

 なにか考えている様子で、悠介くんは星が浮かびはじめた空を見上げている。その隣で、オレは今日という日を改めて思い返す。

 まさか悠介くんの誕生日だとは思いもしなかった。オレのほうが幸せをもらってしまったとやっぱり感じるけど、どの場面を切り取っても悠介くんは笑っていたから。悠介くんにとってもいい一日だったんだって、オレも心から喜びたい。

「先輩」
「んー?」
「今日、すっごく楽しかったです! ありがとうございました!」
「それはこちらこそ。俺のやりたいことばっかして、真白も楽しかったならよかった。てか、戻ってんぞ」
「…………? なにがですか?」
「呼び方。今、先輩って言った」
「あっ! ほんとだ!」
「ふ。少しずつ、な」

 明日から、またふたりで過ごす昼休みがはじまる。おかずはなにを持っていこうかな。それを考えるのだって、恋をするオレには大きな幸せだ。